コロッケと不安

 そこは小さな食堂。染料で鮮やかに染められた紅の暖簾のれんの真ん中に、何の捻りもない「洋食屋」の文字が大きく記されている。


 外観も内装も洒落しゃれてはおらず、老舗蕎麦屋でも通用しそうな様子だ。それでも辺りに漂うのは濃厚なソースの香ばしい匂い。あれほどたくさんのビスケットをいただいたばかりだというのに、きぬは腹の虫が鳴くのを感じた。


 おそらく、流行りに乗って大衆食堂から転換したのだろう。古びた木目調の卓と椅子。やや煤けた印象のある内壁。きぬと義真は室内最奥、角の二人席に腰掛けた。注文を取りに来た女給が、コロッケ定食の注文を上の空で復唱し、厨房に戻る。彼女は珍しそうに義真の翼を見ていた。


 店内に、天狗は他にいない。街中でも見かけなかった。この街は、人間の土地だ。


 地域によっては、天狗と人間が共に住まうような街もある。義真は、そういった場所で育ったと聞いた。血縁の両親は早世し、近所に住んでいた、子に恵まれない夫婦に引き取られたのだという。


 天狗と人間は互いに壁を作りがちだけれど、義真のように共存地域で育った人々は、人種に対する偏見も少ない。彼や千賀がきぬを躊躇いなく受け入れてくれるのは、そのような事情があるのだろう。


「義真さんは、人間と親しいんですね」


 ふと疑問に思って問えば、彼はああ、と頷く。


「育ての親が人間だということは、以前言ったか」

「はい。ご近所のご夫婦の養子になったんですよね」


 義真は頷く。


「正式に籍は移さなかったが」

「そうなんですか。どうして」

「小山、というのが家の名だった。天狗の名前ではないからな」


 周囲から好奇の目で見られないためにも、人間らしい苗字を名乗ることはしなかったということか。故郷ではそのような偏見がなくとも、一歩街に出れば、状況は変わるのだろう。


「故郷の里は小さかったが、その分親密で、天狗も人間も関係なかった」

「素敵な場所」


 心の底から言ったのだが、義真はやや頬を強張らせたように見えた。


「どうかしました」


 義真は何も言わず首を横に振る。それきり、彼は口を閉ざした。何か変なことを言ってしまっただろうかと気を揉んだが、洋食の香りに微かに揺れる勝色の翼を見て、杞憂だったかと思い直す。義真の沈黙は、心地よい。厨房で油が跳ねる音が耳に届く。離れた場所で談笑する学生の笑い声が賑やかだ。


 やがて給仕された熱々のコロッケを箸で割り、視界いっぱいに立ち昇る湯気に惚れ惚れとしたきぬ。義真は意外なほど豪快な一口で、その香ばしいものを千切り甘藍キャベツともども口にした。


「今度作りましょうか? コロッケ」

「作れるのか」

「作ったことない気がしますけど……覚えていないので。でも材料があれば」


 そこまで言って、義真の漆黒の瞳が揺れたのを見逃さない。きぬは口を閉ざした。束の間の沈黙の後、義真は箸を置いた。


「きぬ。この街に来て、何か思い出したことは?」


 思わぬ言葉に、目を丸くする。義真の視線がじっとこちらに注がれる。きぬの言葉を静かに待っているのだ。


「……街に連れて来てくれたのは、私の過去の手がかりを探すため、ですか」


 そう思い至れば、浮ついた心も萎む。義真の目が「そうだ」と言っている。


 きぬが保護されて、季節が一つ過ぎようとしている。怪我は完治した。となれば次は、家族の元へ帰る方法を探すのが順当だ。義真だって、善意で手掛かりを探そうとしてくれているのだろう。それでもきぬは、この生活が終わる日を恐れさえしていた。きぬは注意深く、不安が声音に出ぬように口角を上げて言葉を発した。


「全く思い出しません。私、多分田舎に住んでたんじゃないかな。山にいる方が落ち着くんです」


 意図して明るく言ってみれば、想定よりも高い声音になってしまい、義真が少し眉を上げた。違和感に気づいただろうが彼はそれには触れず、ただ小さく「そうか」と呟いた。微かな落胆を察し、きぬは胸が痛む。


「ごめんなさい。せっかく連れて来てくれたのに」


 義真は顔を上げる。気にするな、と射干玉ぬばたまの瞳が言う。義真の寡黙さは好きだったけれど、その言葉はきちんと声にして欲しかった。そして出来ることならば、「思い出さなくてもいい」と言って欲しかった。いつの間にか、きぬは欲張りになっていたことを知る。そんな己の心持ちが、憎らしく汚らわしい。


 箸を取り、再びコロッケを堪能する義真を眺める。この穏やかな日々は着実に、終わりに近づいている。その日が忍び寄る足音が次第に大きくなりつつあることを、きぬは確かに理解していた。

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