お誘いは突然に

Ψ


 それから幾日か経った酷暑の日。気持ちばかりの声掛けの後、義真の家の扉が勢いよく開いた。この小屋の静寂が破れ搔き乱されるのは、ほとんどの場合千賀の仕業だった。この日も例に漏れず、夏の日差しと共に室内に飛び込んできたのは、隣山の天狗である。


 突発的な訪問には慣れている。千賀の声が飛び込んできても、義真は書物からほんの少し目線を上げただけだった。代わってきぬが、縫物の手を休めて玄関に出迎えに行く。


「千賀さん、いらっしゃい」

「きぬ、元気そうだね。義真に意地の悪いことされてないかい」


 話の矛先が向けられた義真は再度視線を上げ、迷惑そうに千賀を一瞥いちべつして、すぐに手元に目を落とす。その様子に、千賀は肩を竦めて溜息を吐いた。


「ほんとこの子はつまらない子だね。きぬ、飽きたらいつでも家においで」


 舌鋒鋭い言葉。今日も千賀は平常運転だ。きぬは笑って千賀を居間に招く。


 千賀は右の膝を痛めがちらしく、座布団の上で片足を伸ばして座した。きぬは茶を淹れに台所に向かう。こじんまりとした家である。居間に背を向けていても、背後で繰り広げられる会話は耳に届く。


「あんた、一日中そんな恰好してんのかい。運動しないと、あたしくらいの歳になったら膝どころか腰も首も石になるよ」

「時々動いてる」

「動いてるって、紙捲るのは運動のうちに入らないんだよ」

「ちゃんと外に出ている。……きぬが言い募るから」

「あたしの助言は聞かないのに、あの子の言葉は聞くのかい」

小母おばさんの小言だって聞き入れてるだろう」


 きぬが盆を持って居間に戻った時には、観念した義真は本を畳に置いて、胡坐あぐらをかいて千賀に向き直っていた。義真の家族のことは深く知らないけれど、眼前の二人は母子おやこのようにも見えて、きぬは微笑みを禁じ得ない。叱られた息子のような義真に、助け船を出す。


「晴れた日は毎日お外に出てますよ。この前だって、川魚を釣ってきてくれました」

「はあ、義真にそんな芸当ができたとは」

「今度お裾分けに伺いますね」


 義真は何も言わずに湯呑を傾けた。それから千賀に目で問う。今日はどうしたんだ、と。用がないのなら早く帰ったらどうか、というような視線だったかもしれない。どちらにしても、千賀は察しなかったようだ。


「あたしゃ、義真が子供の頃のことは知らないけど、昔は幾らかは活発だったのかね」

「あれ、千賀さんと義真さんは昔からのお知り合いじゃなかったんですか」


 千賀は意外そうな顔をして、きぬを見た。


「言ってなかったかい。義真は天狗の街で出版社勤めだったんだよ。療養のために辞めて、この山に移り住んだのはもう何年前だろう。五年以上前だね」


「療養? 病気だったんですか」

「ああ、義真じゃなくて、智絵ちえさんが」


 初めて聞く名だったが、会話の流れからそれが義真の亡くなった妻であると分かった。口を閉ざし、どのように反応するのが適切かと困惑しているきぬの様子に、千賀は目に見えてたじろいだ。


「義真、あんた」

「それで、何か用があったのだろう」


 言葉を遮るように、義真が静かに言う。亡くなった妻のことは、進んで話題にしたいものではないのだろう。故人は生者の心を掴んで離さないもの。五年経つとはいえ、義真の心にはまだ、彼女が住んでいるのかもしれない。


 未だ何か言い足りなそうな顔をした千賀だったが、有無を言わさぬ義真の眼力に、彼女は嘆息する。


「まあいいや。ちょっと言いづらい雰囲気になっちまったけど」


 千賀は頭を掻いてから、一転して歯を覗かせて笑顔を見せた。


「花火、一緒に観に行こうか。うちの旦那も入れて」


 確かに何の脈絡もないお誘いだ。きぬと義真は顔を見合わせる。


 花火。夏の風物詩である。義真と千賀とその夫ときぬ。四人で遠出すると思えば、心躍るはずなのだが。


 きぬの心は晴れない。智絵の話を聞いたからだろう。この時は単純に、そう思っていた。



前編 終

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