後編

線路は続く

Ψ


『禿げちゃえ』 


 後にも先にも、きぬがかような暴言を吐いたのは、あの晩だけである。


 きぬは頻繁に寝言を言う。それもかなり大きい。けれどもあれは、寝言ではなかった。きぬは起きていたし、義真も瞼を閉じてはいたけれど、眠りの水底はまだ遠かった。


 何を思ってそう言ったのかはわからぬが、十中八九、義真に向けて言ったのだろう。普段は穏やかなたちであるきぬ。彼女をああも怒らせたのは、義真の非である。そう分かってはいるのだが、弁明を上手く口にすることができない。いっそ文章に起こそうかとも思ったが、それも不誠実だろうかと思案し、迷っているうちに時は過ぎた。


「いい加減謝れよ」


 見かねた宗克に指摘をされたのは、あの事件から三日経った朝だった。さすがにきぬは、表面上は普段通りに振舞っているし、話かければいつもののんびりとした調子で答える。だが、元より口数が少ない義真である。こちらから話題を振ることは稀であるし、饒舌じょうぜつを演じてみようにも、何を話せば良いのやら、皆目見当が付かないのだった。


 極めつけは就寝時。いつもはぴったりと寄り添うように敷かれる二組の寝具だが、あからさまな拒絶の証のように、拳三つ分ほど離れて設置されている。事件の晩は壁際まで畳二枚分は離れていたので、あれよりはましである。おそらく。


 途方に暮れて、不本意ながらも宗克に相談をしてみる。弟から返ってきたのは、先ほどの「いい加減謝れ」と、「だから早く言えって言っただろ。自業自得だよ」という冷淡な回答だった。


 とはいえ彼も、全く役に立たなかった訳ではない。弟は素直でないし、可愛げもないのだが、意外にも心優しいところがある。義真に気づかれぬよう、きぬに「大丈夫だから一緒に行こう」と声を掛けていようだ。けれどもきぬが首肯することはなかった。


 きぬを里に連れて行くのが正しいことなのか、義真には判然としない。だからきぬ本人が行かないというのであれば、それを尊重する方が彼女のためではないかと思う。宗克はそうは感じないらしいのだが。


 そうこうしている間にも、もちろん時の流れは止まらない。気づけば今年も残すところ、あと五日。


 相変わらず上辺だけはにこやかなきぬに見送られ、早朝に奄天堂えんてんどうの門を出る。特急列車に乗り、午後には里の最寄り駅の到着し、夕刻には実家の扉を叩く予定である。


 蒸気機関車を見るのは、この町に越して来た時に乗車して以来である。黒々とした車体の頭部から、白黒の煙が竜のごとく叫びを上げて噴き出す。あまりの轟音ごうおんに宗克が肩を揺らしたのを横目に見ながら、義真は車内に乗り込んだ。慌てて背後をついてくる弟の気配に、義真は何やら郷愁を覚えた。幼少期、歳の離れた宗克は、可愛らしくも兄天狗の背中を追って、よちよちと里を歩いたものだった。


 宗克とは年齢が十三離れている。養父母はずっと、子供に恵まれなかった。義真を引き取ってくれたのにも、そういった背景がある。宗克は、両親にとって待望の実子であったが、血を分けた子がこの世に生を受けても、父母からの義真への愛情は何一つ変わらなかった。彼らは親であると同時に恩人で、生涯かけて孝行すべき人物である。けれどもこの六年、義真は彼らの顔すら見ていない。


 三等車内は、通路の両側に、向かい合った二人掛けの椅子が設置されており、相席の必要があった。義真と宗克が窓際に対面で腰掛けるや否や、それぞれの隣に別の客が腰を下ろす。時期が時期なので、混雑しているのだろう。人嫌いの身としては、あまり好ましい状況ではなかったのだが、致し方ない。


 義真は窓枠に肘を突いて、指の背で額を支えて瞼を閉じた。腰に伝わる駆動の振動と、鼓膜を叩く汽笛を意識すれば、騒がしい車内のことなど、気にならなくなる。義真は、そのまま狸寝入りを決め込もうとしたのだが。


「なあ兄貴」


 小鳥のように、宗克が鳴く。


「覚えてるか、昔列車に乗って、家族で紡績工場に行ったよな」


 薄目を開けて見れば、軽く振動する視界の中、旅行の興奮に目を輝かせた弟が映る。仲睦まじい訳ではないけれど、義真にとって、宗克は唯一の弟であり、ふとした拍子に見せる無邪気さに、頬が綻ぶこともある。義真は肘で支えていた頭を首で支え直して、頷いた。


「ああ、覚えている」

「すごかったよなあ、家の二階で作れる分の何年分だろうってくらいの繭玉まゆだまが袋詰めされていて、女工さんがおかいこ様の糸をすごい勢いで巻き取って」


 あれは、海外染料が流行し始めた時期だった。一列に座した女工の着物が舶来はくらいの技術により鮮やかに染められていて、目を楽しませた。その手元では、歪んだ硝子窓から差し込む陽光の屈折を受けた糸が、ちらちらと煌めく。


 小山の養父母や他の養蚕ようさん農家が、愛情を込めて育てたお蚕様。彼らが自身のために作り出した繭を頂戴し、人の糧とする。生きるということの意味を改めて問われたような気分になった。宗克はまだ幼かったので、非日常の光景に、ただただ目を輝かせていただけだったが。


 二人の幼少期は、大した刺激もない田舎暮らしである。静かなものが好きな義真には不満などなかったのだけれど、宗克にとっては工場見学ですら旅行のようなものだっただろう。


 幼少期と寸分違わぬ純真な瞳が、眼鏡の奥でこちらを見つめている。義真は柄にもなく、頬が緩むのを感じた。


「何?」


 微かとは言え、兄の笑顔が珍しかったのだろう、宗克が瞬きをした。義真は再度肘を突き、顎を手のひらで支えて瞼を下ろした。


「兄貴?」

「何でもない。……到着までまだ長い。お前も昼寝したらどうだ」

「昼寝? せっかくの列車旅なのに」


 その後も、兄貴はジジ臭いんだから、と言うような趣旨の暴言を吐きながらも、宗克は大人しくなる。再度細く目を開けば、弟は車窓から外を眺めているようだ。


 義真も外へと軽く視線を遣る。列車が吐く黒煙と白煙が混ざり合い、灰色のもやとなって風景を包んでいる。周囲に民家はない。線路脇には、春夏であれば草花が生い茂るのだろうが、冬ということもあり、霜が降りた大地が延々と続いているだけだった。

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