後編
線路は続く
Ψ
『禿げちゃえ』
後にも先にも、きぬがかような暴言を吐いたのは、あの晩だけである。
きぬは頻繁に寝言を言う。それもかなり大きい。けれどもあれは、寝言ではなかった。きぬは起きていたし、義真も瞼を閉じてはいたけれど、眠りの水底はまだ遠かった。
何を思ってそう言ったのかはわからぬが、十中八九、義真に向けて言ったのだろう。普段は穏やかな
「いい加減謝れよ」
見かねた宗克に指摘をされたのは、あの事件から三日経った朝だった。さすがにきぬは、表面上は普段通りに振舞っているし、話かければいつもののんびりとした調子で答える。だが、元より口数が少ない義真である。こちらから話題を振ることは稀であるし、
極めつけは就寝時。いつもはぴったりと寄り添うように敷かれる二組の寝具だが、あからさまな拒絶の証のように、拳三つ分ほど離れて設置されている。事件の晩は壁際まで畳二枚分は離れていたので、あれよりはましである。おそらく。
途方に暮れて、不本意ながらも宗克に相談をしてみる。弟から返ってきたのは、先ほどの「いい加減謝れ」と、「だから早く言えって言っただろ。自業自得だよ」という冷淡な回答だった。
とはいえ彼も、全く役に立たなかった訳ではない。弟は素直でないし、可愛げもないのだが、意外にも心優しいところがある。義真に気づかれぬよう、きぬに「大丈夫だから一緒に行こう」と声を掛けていようだ。けれどもきぬが首肯することはなかった。
きぬを里に連れて行くのが正しいことなのか、義真には判然としない。だからきぬ本人が行かないというのであれば、それを尊重する方が彼女のためではないかと思う。宗克はそうは感じないらしいのだが。
そうこうしている間にも、もちろん時の流れは止まらない。気づけば今年も残すところ、あと五日。
相変わらず上辺だけはにこやかなきぬに見送られ、早朝に
蒸気機関車を見るのは、この町に越して来た時に乗車して以来である。黒々とした車体の頭部から、白黒の煙が竜のごとく叫びを上げて噴き出す。あまりの
宗克とは年齢が十三離れている。養父母はずっと、子供に恵まれなかった。義真を引き取ってくれたのにも、そういった背景がある。宗克は、両親にとって待望の実子であったが、血を分けた子がこの世に生を受けても、父母からの義真への愛情は何一つ変わらなかった。彼らは親であると同時に恩人で、生涯かけて孝行すべき人物である。けれどもこの六年、義真は彼らの顔すら見ていない。
三等車内は、通路の両側に、向かい合った二人掛けの椅子が設置されており、相席の必要があった。義真と宗克が窓際に対面で腰掛けるや否や、それぞれの隣に別の客が腰を下ろす。時期が時期なので、混雑しているのだろう。人嫌いの身としては、あまり好ましい状況ではなかったのだが、致し方ない。
義真は窓枠に肘を突いて、指の背で額を支えて瞼を閉じた。腰に伝わる駆動の振動と、鼓膜を叩く汽笛を意識すれば、騒がしい車内のことなど、気にならなくなる。義真は、そのまま狸寝入りを決め込もうとしたのだが。
「なあ兄貴」
小鳥のように、宗克が鳴く。
「覚えてるか、昔列車に乗って、家族で紡績工場に行ったよな」
薄目を開けて見れば、軽く振動する視界の中、旅行の興奮に目を輝かせた弟が映る。仲睦まじい訳ではないけれど、義真にとって、宗克は唯一の弟であり、ふとした拍子に見せる無邪気さに、頬が綻ぶこともある。義真は肘で支えていた頭を首で支え直して、頷いた。
「ああ、覚えている」
「すごかったよなあ、家の二階で作れる分の何年分だろうってくらいの
あれは、海外染料が流行し始めた時期だった。一列に座した女工の着物が
小山の養父母や他の
二人の幼少期は、大した刺激もない田舎暮らしである。静かなものが好きな義真には不満などなかったのだけれど、宗克にとっては工場見学ですら旅行のようなものだっただろう。
幼少期と寸分違わぬ純真な瞳が、眼鏡の奥でこちらを見つめている。義真は柄にもなく、頬が緩むのを感じた。
「何?」
微かとは言え、兄の笑顔が珍しかったのだろう、宗克が瞬きをした。義真は再度肘を突き、顎を手のひらで支えて瞼を下ろした。
「兄貴?」
「何でもない。……到着までまだ長い。お前も昼寝したらどうだ」
「昼寝? せっかくの列車旅なのに」
その後も、兄貴はジジ臭いんだから、と言うような趣旨の暴言を吐きながらも、宗克は大人しくなる。再度細く目を開けば、弟は車窓から外を眺めているようだ。
義真も外へと軽く視線を遣る。列車が吐く黒煙と白煙が混ざり合い、灰色の
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