第五話 怪人のぞき太郎、現る

シベリアと牛乳珈琲と怪人さん

 シベリア。遥か異国の地名……に聞こえなくもない、耳慣れぬ名称。それは小麦で作った三角形のふんわりとした生地の間に、羊羹ようかんが隙間なく密着した、ハイカラなもの。


 一口嚙みちぎり、宗克むねかつは頬を抑える。急速に唾液が分泌されて、痛いのだ。月並みな表現をすれば、頬っぺたが落ちそう、である。さらにはこの口から、「おいしー」と若い娘のような感嘆の声が飛び出してしまい、宗克は我に返って咳払いした。


 給仕がちらりとこちらに目を向ける。宗克は気づかなかった振りをして、渋い顔つきを取り繕い、眼鏡を押し上げる。それから手元の新聞に目を落とした。視線の先は、気の抜けるような挿絵。描き手の悪意を感じるほど異様に鼻が長く描かれたのは、天狗官僚である大蔵大臣。佐乃峠さのとうげとかいう、生粋きっすいの天狗だ。


 天狗の顔立ちは人間のそれとさほど変わらないのだけれど、佐乃峠のせいで、都市部の人間らには、天狗の容姿に関する誤った認識が刷り込まれてしまったらしい。この島国で一番と言って良いほど知名度のある天狗、佐乃峠は、鼻筋が鷲のくちばしのように大きくて、酒好きでいつも顔が赤らんでいるのだという。世の天狗にとっては迷惑千万である。


「なあ、これ見ろよ」


 隣の席で、詰襟つめえり姿の生徒が二人、地方新聞を片手に囁き合っている。何事だろう。こっそりと耳を傾ける。


「うわ、なんだこいつ」

「恐ろしいよな。ほら、読んでみて」


 かさり、と紙を握る音がした。視線を向けるのはさすがに不躾だろうと思い、目の端でその動きを掠め見る。新聞は相方の手に渡ったようだった。


「ええと、『怪人のぞき太郎出没』」


 あまりにも滑稽な怪人さんの名に、宗克は口に含んだ牛乳珈琲ミルクコーヒーを危うく噴き出すところだった。傍から見れば嘔吐しかけたような仕草に見えただろう。


 怪人話に夢中の学生は、宗克の様子を察しなかったらしいが、給仕は目ざとく気づいていた。宗克は取り繕うように彼女を呼んだ。


「飲み物を……」

「はい、牛乳珈琲ですね」


 まだ何も注文していないのだが、もはや顔見知りになった給仕は、宗克の注文傾向を熟知していた。白い前掛けを翻して厨房へ戻って行く。


 宗克は、牛乳がどうも苦手だった。それでもこのミルクホールに通うのは、新聞のため。飲み物や軽食を注文すれば、もれなく新聞読み放題が付いてくるのだ。


 牛乳の何が嫌いかといえば、あの獣臭さである。最初は息を止めて一気に飲み干していた。そしてある時気づいたのだ。牛乳珈琲なるこの白茶色の飲み物からは、獣臭さがしないのだと。


 そこまでして牛乳を流し込むのにも、きちんと訳があった。「牛乳を飲むと体格が良くなる」と、義真ぎしんが言っていたのだ。


 生まれつき体格に恵まれた天狗には不要だろうと思い悔しかったが、背丈を気にする宗克は密かに努力をして牛乳を飲んでいた。週に三回はこの店に通った。けれども、どうにも身長は伸びない。


 学友にそれとなく聞いてみたところ、「牛乳で背が伸びるのは、成長期の子供の話だろう。君はちょっと時期が遅かったな、ははは」と笑われた。


 念のため主張しておきたいが、宗克は馬鹿ではない。高等学生の時、一年だけ試験を通らず留年したのと、その他諸々の事情があって進学が数年遅れはしたが、周囲の友人はもっと難儀していた。帝都大学の入学平均年齢は、二十代半ばである。宗克はまだ二十二歳だ。


 だから、勉強は得意なのだ。暗記物はあまり好まぬが、数を扱うのなら一つ飛びぬけた才を持つと自負している。だからこそきっと、言語的な部分には、てんで弱いのだ。


 例えば意地の悪い兄天狗の、揶揄からかいじみた流言を信じ込んでしまうくらいに。


 義真は根っからの文系で、今では町で噂の小説家、通称天狗先生である。言葉では敵わない。いや、撤回。口から出る言葉なら、宗克の方が語彙は多いはずなのだが、いったいどうしたことか。


「どうぞ」


 給仕が、くすんだ銀色の盆に乗せたカップを、宗克の手元に置く。宗克は礼を言って受け取り、飲み干した牛乳珈琲のカップを返した。ふんわりと湯気を上げるそれを少し口に含んで、もう一度耳をそばだてた。


「昨日も東町に出たらしいぜ」

「うわ、隣町じゃないか。ほら、うちの妹美人だろ。のぞき太郎が来るかも」

「……まあ安心しろ。ほら、そこ読んで」

「どれどれ。『のぞき太郎は熟女好きである。十代の娘盛りには目もくれず、その母親である奥様を木陰からじっと見つめて……』うわ、怖え。何で捕まらないんだろ」

「十中八九、気色悪いからだろう。みんなが悲鳴を上げて逃げ惑っているうちに、のぞき太郎は気づいたら消えているんだってさ。どこから現れてどこに消えるのか、わからないんだと」

「怪人というかもう妖怪だよ」


 ほとんど飲み干した牛乳を片手に、少年らは肩を震わせている。怪人のぞき太郎とやらが熟女を覗き見ている場面を想像した宗克は、むしろ笑いを堪えて震えてしまうのだが、彼らが肩を震わせているのは、なんと恐怖からだったようだ。


 我慢できなくなって一瞬だけ視線を向けてみる。顔面蒼白な学生は、ぶるりと身震いした後に、席を立って新聞を返却したところだった。「怖い怖い」と呟きながら生徒が店を出ると、扉に吊るされた鈴が軽やかに音を立てた。その余韻が消え去ったところで、宗克は例の地方新聞を手に取った。なんとその名は、一面を飾っていた。


『怪人のぞき太郎、現る』


 今日もこの町は平和である……のだろう、きっと。


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