万年筆、どこ?


 まるで言葉を忘れたかのようなきぬの様子を怪訝に思ったのは、義真だけではなかったようだ。客間に流れる空気の冷たさを察した澄が、団子の残りを口に放り込み、ほとんど飲み込むようにしてから咳払いする。


奄天堂えんてんどうさん、きぬさん、そろそろ私、失礼しますね。今月もありがとうございます。よいお年を」

「あ、うん。えっと、義真さん、澄さんをお見送りしよう……」

「いいえ、お気遣いなさらず」


 澄はきぬと義真の横を頭を低くしつつ通り抜け、廊下に出てから礼儀正しく一礼した。いつもであれば、澄が何と言おうと見送ったのだが、この時のきぬは大いに混乱していたので、足は動かなかった。


 頭の中で、言葉の奔流が渦巻く。まさか、ばれてしまうだなんて。夫婦と言えども、礼儀は必要だ。あからさまに隠してあった小さな木箱。秘密を抱えた物だと気づきつつ、勝手に開けてしまったのは、良心が痛む。いや、しかし。断じて内容は見ていない。きぬは、のぞき太郎ではないのだから。


「あのね、義真さん」


 自分でもどんな言い訳を並べようとしたのか、わからないほどの混乱。義真は眉根を寄せて、少し首を傾けた。その仕草が、きぬを責め立てているかのようにも見えて、不意に頭が冷えた。


 確かに、勝手に見たのは、きぬが悪い。けれども元はと言えば、前妻の実家からの手紙を隠し、後生大事に箱に入れておいた義真だって、誠実さに欠けるのではないだろうか。あの手紙の中身は知らないけれど。


「ごめんなさい!」


 頭の中で組み立てるよりも前に、言葉が口を突いて出た。


「でも、義真さんだって酷い。どうして何も言ってくれないの。隠し事ばかりで寂しいよ。宗克さんのことだって実家の御両親のことだって。あの手紙のことももちろん」


 義真は微かに眉を上げただけで、答えない。きぬは目のふちに涙が溜まるのを感じた。零さぬように目を見開いて、唇を噛み締め、眼前の天狗を睨む。射干玉ぬばたまの瞳が、小さく揺れた。たっぷり五秒は黙り込んでから、彼は言った。


「手紙?」


 あまりにも他人事ひとごとな口調だったので、悲しいやら腹立たしいやらで、きぬの涙腺はとうとう崩壊した。拳で目元を拭ってから、きぬはもう一度、くしゃくしゃの顔で義真に鋭い視線を向ける。


「書斎、『黎明』を探すために入ったよ。でもあれを見たのはわざとじゃないの。あんなところに隠してあったら、誰だって気になっちゃうでしょう」

「隠す?」

「誤魔化さないでよ! 義真さんの馬鹿!」


 思わず腰を上げて声を荒げるのだが、当の義真はひとしきり理解が及ばぬ顔をしてから、やっと何かが繋がったのだろう、不意にけわしい表情になる。


「手紙……。木箱に入れていたやつか。見たのか」


 答えないきぬ。義真はただ沈黙して、袖の下で組んでいた腕を摩った。寒いのだろうか。


「俺が言いたかったのは」


 気が動転していたため気づかなかったのだが、彼の手には古びた臙脂色えんじいろの万年筆が握られている。それを差し出し、彼は呟くように言った。


「万年筆がこれしかなかった。もう一本、どこへ行ったか知らないか」


 きぬの涙は急速に乾く。怒りに上気した頬が、一転して氷のように冷たくなるのを感じた。血の気が引く、と言うのはこういうことだろう。身をって実感する。


 義真はきぬの顔を見つめながら、いつもの通り回答を待ち、「きぬ?」と呼びかける。


 きぬは顔面蒼白になり、踵に尻を戻して俯いた。義真の顔を直視することができない。畳の井草を視線でなぞり、藍色の縁に視線を固定して、しばらく動くことができなかった。

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