夫婦の関係
以降もしばらく、二人は他愛もない話を続ける。話題はもっぱら、澄の将来に関することである。卒業したら、どうするのだろう。
彼女の学友のほとんどは、家庭に入る。それどころか、学校を中退して結婚をする娘も少なくない。さすがに卒業までの在学は許してもらえたものの、就職なんて、澄の母親
「そろそろお母様をどうやって
壽々子はご近所でも、厳格な性格で通っている。このような嘘が
澄が家庭に入るのを嫌がっていることは知っていたが、彼女の意思を僅かなりとも理解した上で、少しだけ人生経験が長いきぬの目には、もう少し広い視界が開けていた。
「澄さんは園田さんが嫌いなのかな」
澄は菓子切で団子の最後の一つを半分に割ってから、手を止めた。半透明の薄茶色い餡が、白い断面を滑った。
「いえ、嫌いではないです」
「じゃあ、園田さんの年齢が問題?」
「それもありますけど……。私は家庭に入るのは性に合わないと思うんです。いっそ、暮らしを賄えるのであれば、生涯独身でも良いと思っています」
「結婚しても、園田さんなら澄さんを家に縛り付けることはないと思うな」
園田は、宙に舞う天狗の羽根のように、ふわふわとして掴みどころがないけれど、意外と常識的だし、何より温厚である。良い方向に歳を重ねたと見えて、幅広い視野を持っている。義真と初めて会った時も、天狗と接することに何の偏見も気遣いもなく、とても自然であった。
だから、澄が外に出たいと言うのなら。彼ならば、それを頭ごなしに否定することなどないと思う。けれども澄は、首を横に振る。
「そうかもしれませんが……。それって、旦那さんがかわいそうだと思うんです。ここ数年でだいぶ職業婦人も増えましたけど、やっぱり男性は奥さんに家を守って欲しいものでしょう」
「園田さんがどうか考えているかはわからないよ。聞いてみた?」
「いいえ。直接は」
微かに俯いた澄の頬に、もみあげのおくれ毛が影を落とした。その段になってやっと、偉そうに説教じみた問答を繰り広げてしまったことに気づき、きぬは肩を縮こまらせる。
「ごめんね、余計なこと言っちゃったかも」
澄は弾かれたように顔を上げる。
「いいえ。そんなこと! その……お気を悪くされたら申し訳ないのですが、きぬさんは思いませんか? 誰かを支えるのではなくて、自分が舞台の上で光を浴びてみたいって」
きぬは思わず口を閉ざした。不快に思ったからではないし、考えたことがなかったからでもない。きぬだって、同じように思案したことがあるのだ。
失礼を承知で問いかけてしまい、気を悪くさせないかと案じながら、緊張にやや強張った澄の目元。
「思ったこと、あるよ。でもね、私は私の意思でこうしているんだ。街に出て、洋装で颯爽と歩く職業婦人を見て、すごいな、憧れるなって思うし、きらきらした世界に行ってみたいと思うこともある。どんな景色なのかなって考えちゃうよね。多分、義真さんは、私が外に出ても家に籠っていても、どちらでも良いんじゃないかな。私はね、こっちの方がしっくりくるの。特に目立った特技もないし。でも澄さんは、違うでしょう」
きぬは、畳に無造作に置かれた四角い雑誌に視線を向ける。
「澄さんには、文章を書くという才能があるでしょう。『黎明』に載るだなんて、本当にすごいことだよ。島国中の人が読むんだよ。そんな才能を、あの園田さんが潰そうとするはずがない」
澄はやや目を見開いたまま、きぬの顔を眺める。庭で雀が鳴く声がして我に返り、きぬは再び身体を小さくした。
「ご、ごめんなさい。偉そうに」
いくら人生の先輩と言えども、差し出がましい口を利いてしまったことに恐縮する。そもそも、きぬには過去の記憶がないのだ。脳内に蓄積された記憶の累計時間はきっと、澄の方がずっと長い。
けれども澄は気分を害した様子などなく、肩の力を一段抜いたようだった。それからみたらし団子を一口頬張る。
「美味しい」
小さく呟き、みたらし団子を咀嚼してから、
「ありがとうございます、きぬさん。私、なんか吹っ切れた気がします。年明け、園田家と大迫家で一緒にお食事するんです。その時に訊いてみます」
それは、両家親戚一同が集まる場、と言うことだろうか。焚きつけておいて申し訳ないのだが、それはさすがに早急過ぎるのではないか。きぬは慌てて口を開く。
「澄さん澄さん。まずはね、園田さんに」
「きぬ」
抑揚の薄い義真の声が廊下に響き、きぬは言葉を引っ込める。あまりにも間が悪い。だから、義真の用件が大したことがないものだったなら、後にしてもらおうと思ったのだが。
襖の向こう、冷たい廊下を軋ませながらのっそりと現れた彼は、言ったのだ。
「きぬ、書斎に入ったか?」
脳裏に浮かぶのは秘密の小箱と白い便箋。きぬは再び、石のように固まった。
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