偏屈が二人

 義真がやって来ると良三りょうぞうは、ほんの少しだけ右にずれた。先ほどまで良三の左腕があった辺りに、ぽっかりと土が見えている。


 智絵が好きだった黄色の花を潰してしまわぬようにしているのだろう。義真はやや躊躇ってから、用意された空間にしゃがみ込んだ。日当たりが良いので、雪の名残はない。花も葉も露を宿してはおらず、土もさらさらとして、程よい水分を保っている。


 二人は言葉なく、肩を並べる。視線の先は、共同墓地。その向こうには桑畑があり、さらに先にはまた山がそびえる。枯れ草色が目立つ山肌。その頂上には薄く雲がかかるものの、天候は眩しいほどの晴れである。


 この里の景色は、何も変わらない。今冬も、寒菊かんぎくは小さな太陽の如く咲き誇る。幼少の頃、宗克を背負って智絵と花を摘んでいた時と、何ら変わらない。自然は人のいとなみとは無関係に、ただその循環の中で、規則的に、変わらぬ姿を見せてくれる。けれども人は、変容するものだ。実家が増築し、両親が老いて、良三が憎き義真と肩を並べるように。


 智絵の時間は止まってしまった。それでも、心の中には生き続ける。そういうものだろう。いつか義真がこの世を去る時に、こうして悲しんでくれる人が、どれほどいるだろうか。


「お前はもう、俺の息子じゃねえ」


 低い呟きに、義真は遠く、山肌を眺めながら耳を傾ける。


「智絵が一人で帰って来た時、お前を一発殴ってやりたかった。今でもその思いは変わらねえ。だが、よそ様にそんな暴力を振るう訳にはいかんから……」


 良三の気性なら、不意に拳を突き上げてきても何ら違和感はない。けれども義父は、相応に老いたようだった。殴打も蹴りも頭突きもなく、ただ静かに、言葉を続ける。


「お前は俺とは何の関係もない。お前はただの、ご近所一家の不肖息子だ。お前が帰って来ても、俺には何の関係もない」


 良三の拳が、膝の上で強く握り締められている。


「だが、智絵は違う。あの子はお前の妻だった。智絵を忘れるなとは言わないが、同じ過ちは犯すな。小山の両親を顧みろ。家族の手を放すな。人間はお前が思っているよりも、人の温もりを求めるものだ」


 良三はおもむろに腰を上げる。尻を叩き、土埃を落とした。若干湿って着物の色が変わっているのはご愛嬌か。


「小父さん」


 何事もなかったかのように立ち去ろうとする良三。義真は思わず声を掛けたが、彼は一瞥すら寄越さなかった。


 痛むのだろうか、腰に手を当てて坂道を下る義父……いや、良三小父さん。最後に会った頃はもう少し、背筋が伸びていたように思える。


 時の流れは残酷だ。命あるものは衰えて、死に突き進むのみ。良三もイチも、小山の両親も。きぬに宗克、この身だってもちろん、いつかは土に還るのだ。けれども衰退するだけではない。人は過ちを犯し、愛を知って心を育てる。身体は動かなくなりゆくけれど、魂は宝玉のように磨かれていく。そんな気がした。


 遠くで鴉が鳴いた。夕刻でもないのに、今日はやけに騒がしい。義真は空を振り仰ぐ。黒い鳥影とりかげが空を横切った。視線を戻して膝を伸ばし、着物の裾に付着した土を払う。


 義真は疫病神やくびょうがみだった。幸せになる資格などはない。そう思いながらもきぬと家族になり、宗克を帝都の貸家に受け入れて、こうして里にも帰ってきた。


 その行動全てが矛盾しているように思え、感情が薄い頬の下で罪悪感にもだえたこともある。そんな己の真意が、今になってやっとに落ちる。


 義真は許されたかったのだ。幸せになって良い。家族の温もりを求めても良いのだと、誰かに言って欲しかった。まるで寄る辺ない子供のような思考に自嘲じちょうしたけれど、良三の不器用な言葉が免罪符めんざいふのように心の底に落ち着けば、義真の足は自ずと動き始めていた。


 同じ過ちは、犯さない。家族の手はもう放さない……。


「あら、義真。早かったねえ」


 物思いに耽りつつ向かったのは、小山の家である。玄関口を掃除していた母が、息子の異様に早い帰宅に目を丸くする。義真は頷いて応え、足早に屋内に入る。帝都から持って来た最低限の荷物をひっつかみ、再び玄関へ。


「ぎ、義真どうしたんだい。どこかへ行くの?」

「帝都へ」

「へ?」

「明日には戻る」

「え、ちょっと何言って」


 目を白黒させる母。申し訳なく思ったけれど、気の利いた言葉が出てこないので、短く返した。


「年越しは、家族で過ごそう」


 取り残された母はより一層混乱したらしかったが、あいにく義真は真っすぐ進行方向を向いていたため、困惑顔を見ることはなかった。


 その足は、鉄道の駅へと進む。空を見上げ、太陽がまだ高いことを確認する。そういえばまだ昼食をとっていない。腹の虫は鳴いていたが、午後一番の汽車に乗りたかった。


 帝都へ。そして、がらんと広い、あの家へ。義真の心は急いていた。

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