あの日のように
Ψ
最終の路面電車を乗り継いで
何度か床を鳴らしてしまったけれど、きぬが目覚めたような気配はなかった。寝室の
義真は闇に慣れぬ視界のまま、室内に足を踏み入れる。薄暗くてよく見えないのだが、部屋の真ん中には、一組の布団。しかしそれはもぬけの殻である。
ここには山賊も猛獣もいないはず。だからきぬが誰かに
「き……」
きぬ、と呼び掛けようとして、義真の
「えい!」
不意に間の抜けた声が響き、義真の思考は途切れる。理解が追い付く前に、またしても頭上から何かが降って来る。あっという間に、身体中が紐のようなものに拘束されていた。荒い目ではあったが、それは網だ。
武器が放たれた方向に目を向けると、濡れ縁から差し込む月明りの下、小柄な影が肩を怒らせていた。その見慣れた姿に義真は、元より少ない言葉を失った。目を丸くしたのは、相手も同じだったようだ。小さな敵は、零れんばかりに目を見開いている。
「義真、さん?」
月光を背に仁王立ちしていたのは、きぬだった。とりあえず網から抜け出そうと
「ごめんね、怪人のぞき太郎かと思って!」
それは、なんとも酷い勘違いである。きぬの手を借りながら網を抜け出して、布団の近くに落下していた硬質な物体を手に取れば、それは欠けた茶碗。なるほど、茶碗も網も、「対怪人のぞき太郎用兵器」だった。
「宗克さんがね、のぞき太郎が来たら大変だから、夜になったら兵器を設置しておいた方が良いよって言ってたの」
のぞき太郎は逮捕されたはずではなかろうか。義真の疑問を読んだように、きぬは首を横に振った。
「それがね、また出たんだって。真似したんじゃないかな」
畳に落ちた義真の羽根を拾い、心底申し訳なそうに手を揉むきぬ。過激な武器をきぬに渡した宗克を思えば自然と顔が強張る。ひと睨みしてやりたいが、あいにく奴は、実家で呑気に田舎鍋でも食べているのだろう。
「あの、義真さん? まだ帰って来る日じゃないよね。どうして……」
そこまで言って、きぬは不意に口を閉ざす。それから不自然にも、あからさまにそっぽを向いた。
そういえば、二人は喧嘩中である。突然の出来事に気が動転して、そんなことは頭から抜けてしまっていたのだろうが、数日経っても彼女はまだ、怒りを鎮めてはいなかったらしい。気まずい沈黙が訪れる。義真は逆立った羽根を撫でつけてから、一歩歩み寄った。
「悪かった」
きぬは弾かれたように顔を上げる。義真は、続けた。
「きぬに何も言わなかったのは間違いだった。俺は意気地なしで、性根がねじ曲がっている。だがそれを正すべきだった。少なくとも、きぬの前では」
急に
「明日、里に来てくれ。家族全員で過ごしたい。きぬがいなければ、家族が揃わない」
腕の中できぬは何事かを述べたようだが、「うぐうぐ」としか聞こえなかったので、やっと力を緩めて正面から顔を見つめる。きぬは突然のことに、目を
「明日……?」
義真は頷く。
「ああ。両親に会ってくれるか」
きぬは口を閉ざし、しばらくこちらを凝視してから俯いた。小さく肩が震えている。どうしたのかと思い顔を覗き込もうとしたところ、きぬは自ら視線を上げた。笑っていた。それも、大笑いだ。
きぬは口元を両手で覆い、しきりに肩を揺らす。夜分なので声を抑えようとしているのだろうが、もはや苦し気な呼気が、室内に反響していた。
「あ、明日って。……義真さんって本当に……びっくりすることばっかり」
狂ったかのように笑いが引かないきぬに、義真は困惑する。まさか、一人きりで放置してしまったので、心を病んだのだろうかと、本気で心配したほどだ。しかしそれは杞憂だった。ややして無事に可笑しさが一段落したきぬは、冷えた指先で義真の頬を撫でた。
「あの時みたいだね」
皆まで言わずとも、彼女が何を意図したのか、共有できる。あの日……俊慶と千賀の家で、きぬを抱きしめて奔流の如く心の内を
「はい。私でよければ」
あの日と同じ言葉に胸を突かれ、きぬの髪を撫でる。どちらからともなく唇を重ね、身体を寄せた。凍えるような冬の宵、互いの温もりは肌だけでなく、心も温める。そのことが、この上なく幸せだ。けれどももう、罪悪感は覚えなかった。
差し込む月明りが、静かに二人を包んでいた。
Ψ
翌朝、朝一番の汽車に乗り、弾丸のような勢いで里に帰る。父母は驚きこそしたものの、目に涙すら浮かべてきぬを歓迎した。戸惑いがすぐに掻き消えたのは、何を考えているのか理解し
一方の宗克は、兄天狗の奔放さに延々と不満を垂れ流していたのだが、例の兵器のことをちくりと指摘してやれば、大人しく口を閉ざしたのである。
きぬがやって来たことは里中に知れ渡り、もちろん榊原夫妻の耳にも入ることになる。良三は宣言通り、ただのご近所さんとして振舞ったし、イチも表面上はにこやかに会釈を返してくれた。きぬはあの性格なので、里の住民にも素早く受け入れられて、穏やかに微笑んでいた。
最初から、素直になるべきだった。きぬと言い争いをしなければ、こんな面倒な行き来をすることもなく、誰にも迷惑を掛けなかった。だが同時に、そうしていれば良三と和解する機会は訪れなかっただろうとも思った。
何が正しく何が間違っているのかなど、時が訪れなければわからない。むしろ、その時になってさえ、その選択の正否は判然としないことの方が多い。
だからこそ、人は悩み、底のない沼の如き人生に藻掻く。その中で大切な誰かを探し、その手を握り合い、微かな安らぎを求めるのだろう。
「義真さん」
寒菊の自生地、鮮やかな黄色が埋め尽くす中、きぬが微笑んだ。
「また来年も連れて来てくれる?」
ああ、と頷く義真の耳に、鴉の鳴き声が一つ届く。振り仰げば鳥影。その
第六話 終
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