玉露が飛ぶ
民家から夕餉の香りが漂い始める時分。春の夕陽が、芽吹きはじめた柿の木を照らす頃になり、義真は帰って来た。いつもの通り玄関に迎えに行くと、きぬの様子から何か察したのか、彼は口を引き結んで目で問うた。どうしたのか、と。
義真に隠し事をされていた。もしくは、弟のことを告げるに値しない存在だと思われていた。そのことに対する疑念が湧き起こり、問い詰めたい衝動に駆られるがそれはまだ尚早だ。きぬは何も言わず恨めし気に
「お客様がいらしているよ」
「客?」
怪訝そうな声を背中で受けながら、きぬは客間へと向かう。つい先ほど、澄を自宅に帰してしまったので、そこには
澄は、得体の知れない男ときぬを二人きりにすることが申し訳ないと、律儀にも謝罪をしてくれたが、こちらこそ巻き込んでしまったことに罪悪感が残った。
澄の心配ときぬの警戒をよそに、宗克はほとんど口を閉ざしていた。傍から見れば大胆なほどに落ち着いた様子だったが、ひっきりなしに湯呑を傾ける所作からは、居心地の悪さが滲み出ていた。
きぬは義真が背後についてきていることを確認してから、襖に手を掛ける。
「宗克さん、主人が戻りました」
宗克。その名に驚きを覚える隙すら与えず、きぬは襖を引く。客間の座布団の上で足を崩した宗克は、兄の姿を目にして彫りの深い目元を強張らせたようだった。対する義真は軽く眉を上げただけだった。
「久しぶりだな、兄貴」
先ほどまできぬに向けられていた挑戦的な眼差しはそのまま、義真を射抜く。義真は真正面からそれを見下ろして、「宗克」と小さく呟いた。どうやらこの書生が義真の弟だというのは偽りない事実らしい。
弟の名を口にして幾らか驚きが収まったのか、義真は先ほどまで澄が座っていた座布団を引っ張り、宗克の正面に腰を下ろした。青年にしては線の細い印象の宗克の眼前に、人間よりも体格の良い天狗族の義真が座れば、捕食者と獲物にしか見えない。獲物宗克は、無言の威圧を受け、続く言葉がないようだった。
「何をしに来た」
再会を喜ぶでもない、淡泊な義真の言葉に、宗克は唇を噛む。機微に疎いのか、それともわざとなのか、義真は返答がない宗克から視線を逸らし、きぬに事情説明を求めて目を遣る。きぬは首を横に振った。そういえば、この書生には肝心なことを聞いていない。なぜ突然この家にやって来たのだろうか。
「宗克」
義真がやや前傾して、呼びかける。顔を覗き込まれた宗克は小さくこめかみを震わせて、湯吞を握る指に青筋が浮いた。
「宗克?」
「おい、それだけかよ!」
不意に湯呑の底が畳に打ち付けられて、玉露が飛沫を散らす。強張った手が湯呑を持ち上げた時、中身を義真にぶちまけるのではないかと肝を冷やしたが、さすがに最低限の理性は持ち合わせていたらしい。感情の
「……もう六年振りになるか。変わらないな」
「なんだよ、俺がガキの頃から成長していないって言いたいのか」
義真は肩を竦めた。なんだ、わかっているじゃないか。と心の声が聞こえたのは、きぬだけではなかったようで、宗克は頬を紅潮させている。六年前であればこの青年はまだ少年と言っても差し支えない年頃だっただろう。さすがに哀れに思えて、きぬは膝を滑らせて宗克の側に近づき、薄緑の露を拭きながら口を挟んだ。
「まあまあ、せっかくの再会でしょう。ひとまず甘いものでも食べて落ち着こう。ほら、あれ食べて」
漆塗りの菓子皿に積まれた
「それで、宗克さん。今日は泊まって行かれます? よろしければ夕餉をご一緒にいかがでしょう」
「おい、きぬ」
不服そうな義真を視線で黙らせてから、きぬは宗克の表情を窺う。突然、疎遠だった兄の家を訪れた宗克。何か事情があるはずだ。その事情は、きぬが同席する中では話しづらいことかもしれない。
「考えておいてくださいね」
宗克を追い込まないように軽い調子で言ってから、きぬは腰を上げる。義真が珍しく、微かに狼狽えた。
「きぬ、どこへ」
「夕餉の支度をしてくるね」
「いや、しかし」
「浅利ご飯、いらない?」
「……いる」
翼が少し揺れた。きぬは微笑みを噛み殺しながら、客間を後にする。台所に入れば、もう夕陽が沈み切る間際で、急いで準備に取り掛かる。
米は研いであったし、浅利ご飯の具は昨晩の残りがある。主菜と汁を作るにしても、一時間と少しあれば出来るだろうか。兄弟が六年分の
きぬが食事の時間を告げに客間に行った時には予想通り、二人は幾らか落ち着いた声音で言葉を交わしていた。
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