我が家なのだろうか

 異様なほど寝つきの良いきぬである。常ならば、瞼を閉じれば数秒の間に眠りの水底に沈んでいくはずだけれど、さすがにこんな日まで呑気に夢の世界に落ちていられるほど、図太くはなかったようだ。


 振動止まぬ夜行列車の座席。宵闇よいやみを映す窓の枠に寄りかかり、睡魔を呼び起こそうと奮闘する。眠らなければ、と考えるほどに、意識は鮮明になっていく。


 夜通し座したまま過ごすのは辛いものがある。金銭的に裕福らしい矢渡やわたり家のこと、寝台の一等車両を予約するだけの財力はあるのだが、何しろ急なことだったので空席がなく確保ができなかったらしい。


 座り心地が良好とは言えぬ椅子の上で、まだ幼い綾子あやこがぐずるのを、聡一そういちが慣れた所作であやす。きぬはそれを、ぼんやりと見守った。


 聡一の尽力もあり、ほどなくして綾子は、父親の脇腹にもたれかかるようにして細い寝息を立て始める。きぬは、何の役にも立てなかったことに引け目を感じた。綾子が本当に我が子であるのなら、母親として、あの子を慈しんであげるべきなのに。


 きぬは、綾子のおかっぱに切りそろえられた黒髪を視線で撫でる。父親に似たのだろう、目鼻立ちがくっきりとした美人であり、初対面ながら、可愛らしく、愛おしい存在だ。紛れもなく本心からの情。だかその愛情は、近所の幼子に向けるたぐいのものと、さして変わらない。


 何て酷い母親だろう。きぬは罪悪感に苛まれ、きつく瞼を閉じた。窓に預けた額から伝わるひんやりとした外気が、いっそう身体を冷やす。規則的な駆動音と幼子の寝息に意識を預ける……。


 気づけば眠っていたらしい。車窓から差し込む暁の朱色を感じたきぬは、続く停車の振動で目覚め、寝ぼけまなこで下車し、促されるがまま屋敷に向かう。


 矢渡家に到着したのは昼前のこと。太陽はだいぶ高い位置にある。


 屋敷に戻るなり、聡一と綾子は一足先に母屋に向かったらしい。きぬは、長身の女中に連れられて敷地内の見学だ。


 矢渡本家の屋敷は、目が回るほどの豪邸であった。大迫家が、幾つ入る大きさだろうか。漆喰塗しっくいぬりの母屋も離れも、立派で大きいのだけれど、家業のための作業小屋が複数立ち並ぶ様も圧巻である。何より、建物に囲まれた庭部分が、尋常なく広い。そこには庭園が造られている訳ではなく、ただ広大な砂地が広がるだけである。


 見知らぬ家。どうしても気分が落ち込む。きぬは気持ちを奮い立たせようと、あえて高い声を張った。


「とっても広いお庭ですね」


 女中は一瞬だけ怪訝そうな視線をきぬに向ける。眼差しを受け止めてからやっと、そういえば二年ほど前までこの屋敷で暮らしていたのだったと思い出す。きぬは首を振って誤魔化した。


「ううん、なんでもありません。ごめんなさい、変なことを言って」

「いいえ。若奥様」


 表情に乏しい女中である。淡々と敷地内を案内してくれるので、きぬとしても恥を晒すような不用意な発言はしてはならぬと思い、自然と言葉少なになる。女中は事務的に方々ほうぼうを指差しつつ説明を続けた。


「炊事場です。あちらは釜場。向こうの小屋が絞り機。かわやはあそこ。若奥様はあちらのお部屋で若旦那様をお待ちください。あと、これは庭ではありません。さらし場です」

「晒し場?」


 女中はほんの少しだけ顔を顰めたらしかった。


ろうを天日干しする場所です」


 きぬは曖昧に頷く。この段になっても、義真と出会ったあの雷雨の日以前の記憶は一切戻らない。家業のこともぼんやりとした霞の向こうである。


 矢渡家は木蝋もくろうを作っていると聞いた。その関係か、近所には蝋燭職人も多いらしい。道中、聡一が教えてくれたことによれば、島国産の木蝋は油煙が少なく、すすが出にくい。海外で重宝されるほどの高品質だ。異国との交易が盛んになりつつあるこの時代、輸出により矢渡家が急速に財を成したのも頷けるのだが。自分がそんな大層な家の若奥様だなんて、なんとも実感が湧かないことである。


「案内は以上です。何かご不明なことは」


 きぬは束の間、躊躇いを見せる。


「あの、やっぱり私」


 この家の人間ではないのだ、と思った。けれどもそれを口にしたところで、先ほど浴びたようないぶかし気な視線を注がれるだけなのだろう。女中の心の内は良く分かる。誰だって面倒事には巻き込まれたくない。


 すんでのところで言葉を呑み込んだきぬ。女中はやや首を傾けて続く言葉を待ってくれたらしいが、何も出てこないと察すると、傍らから木桶を拾い上げた。


「特にございませんでしたら私はこれで」


 女中は長い脚でさっさとこの場を離脱しかける。従順なたちであるきぬは、ぼんやりと女の背中を見送りかけたのだが。


「あ……待って!」


 勝手知らぬ広大な屋敷で一人にされてしまえば、心細いこと、この上ない。きぬは大慌てで呼び止める。不本意そうな顔を隠しもせず振り向いた横顔に、きぬは勇気を出して一歩詰め寄った。


「あの!」


 気合を注入するため身体に力を入れたところ、腹の辺りから大きく間の抜けた音が響いた。胸の前で拳を握った姿勢のまま、硬直する。一切の時が止まったかのようだった。鳴ったのはきぬの腹の虫。そういえば、夜行列車を降りてから何一つ口にしていなかった。


 親密な仲でもあるまいに、見つめ合ったままの二人。どこか遠くで鳩が鳴いてからやっと、時間が再び動き始めた心地がした。気恥ずかしくなり、きぬは頬を朱に染めてやや俯く。足元で、蟻が列を成しているのが妙に間抜けで印象に残る。


「……朝食の残りをお持ちします」


 女中の言葉にきぬは、羞恥で身を縮こまらせながら小さく頷いた。こんな場面ですら元気が衰えぬ腹の虫。恨めしくもあったのだが、腹が減っては戦はできぬのだ。きぬは大人しく朝食を待つことにした。


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