決起集会
Ψ
「ではあれから一晩経っても、
「そうなんだよ澄さん。昨晩はあんみつしか食べていないみたいで、呼んでも貶しても出てこない」
「まあ、かなりの修羅場でしたからねえ」
「
書斎の
書斎のすぐ側が客間である。話し声は微かながら、義真の耳にも届く距離。此度の会話はいやに鮮明に響いているので、わざと聞こえるように声を張っているのではないかとすら思えた。
視界を遮断すれば、瞼の裏にはきぬの姿が、思い出と共に映し出される。食事を頬張り
浮かぶのは光景ばかりではない。喧嘩をすれば、言葉にはせぬのに、わざと大きな音を立てて畳を踏むいじらしさ。絹のような髪の柔らかさと、色白の滑らかな肌の感触。浅漬けの大根。ついでに大量の
最初からわかっていた。きぬはあの雷雨の夜に突然この世に生みだされた存在ではない。過去があり、帰る場所がある。
きぬと過ごした二年間は、
「先生」
不意に、扉を叩く音とやや間延びした男の声が響く。園田だろう。隣室でわざとらしく会話を繰り広げていたと思いきや、反応がないことに痺れを切らしたのだろうか。直球勝負に出たようだ。
放っておいて欲しいというのが正直なところである。別に子供ではないのだから、時間さえあれば自分一人で気持ちの整理を付けて、日常生活に戻ることができるはずである。そもそも智絵を喪った時、生涯一人で生きていくと心に決めたはずなのだ。この二年間はただの夢であり、きぬがいなくなったとしても、元の静かな生活に戻るというだけのこと。
「先生、おーい」
耳障りこの上ない。義真は眉を顰めるが、園田の声は止まらない。思えば昨日も、奴は半ば強引に書斎に押し入って来て、無駄な話を延々と垂れ流していた。温厚で人柄の良い男だとは思うが、騒がしい者は本能的な部分で好まない。
「開けてください。さもないと、蹴破りますよ」
さらりと悪意のない抑揚で宣告する園田。通常の男であれば、それはただの脅し文句なのだろうが、園田ならば実行しかねない。義真は眉間に皺を寄せたまま、渋々扉を開いた。
「あ、兄貴」
開かずの扉が動いたことに、宗克が驚愕の呟きを発した。澄はただ目を丸くしていたようだが、園田は相変らず遠慮がない。ずかずかと室内に入り込んでくる。
「どうも先生、お邪魔します」
義真は扉を開いた体勢のまま、招かれざる客人を視線で追う。園田は洋机の前まで進むとくるりとこちらを振り向いた。いつもの
「で、いつ迎えにいくんですか」
義真はいっそう眉根を寄せる。いったい何の話だろうか。
「きぬさんですよ。彼女はあなたの妻でしょう。ぽっと出て来た得体の知れない男に連れて行かれたままで良いんですか。そもそも、彼らときぬさんの関係が真実であると証明するものはないでしょう」
この男は何を言っているのだろう。きぬは……いや、
けれども園田は、いつもと変わらぬ飄々とした表情を崩さない。
「あの男、澄ちゃんと最初に縁談があった青年ですよ。問題行動が多くて妻に逃げられたって奴。暴力でも振るっていたのかも」
義真はそこでやっと、園田の話に興味を抱いた。大迫澄の縁談相手は、のぞき太郎ではなかったのだろうか。いや、それよりも、暴力疑惑とは何事か。
表情に出たのだろうか、園田は身を乗り出した。罠にかかった獲物を見るような眼差しに感じたのは、気のせいではあるまい。
「あれ、先生ご存じなかったですか。あの男と結婚させたくないばかりに、偽許嫁園田が誕生したんですよ」
「つまり」
いまいち要領を得ない園田の説明。咳払いをしてから、宗克が引き継ぐ。
「あの二人が本当に義姉さんの昔の家族なのかはわからない。仮に真実だったとしても、矢渡聡一は、義姉さんを酷く扱った挙句、逃げられると本気で探しもせず澄さんとの縁談をしつこく迫るような底辺人間だ。そう、それこそ園田さんの方がましだと皆が思うくらいに!」
「む、宗克君」
義真は、傷ついた子犬のような目をした園田を観察する。白髪交じりの乱れた頭髪、ぼんやりとした造形の顔立ち、何より園田は澄の父親と同世代。義真よりも幾らか年長なほどである。なるほど、それほどまでに矢渡聡一が好ましくなかったのか。だが。
「悪い男には見えなかった」
「ああ、先生! 世の中ね、先生のように外身と中身が一致している人ばかりではないんですよ。騙されないで」
義真は貶されたのだろうか。ともすれば剣呑な雰囲気が漂いかけたのだが、そこは澄がすかさず一声。
「でしたら奄天堂さん」
澄は図々しい園田と対象的に、書斎の扉の向こうで控えめに手を揉んでいる。
「矢渡のこと、調べましょう。あの人の言葉が妄言だった場合や、過去のきぬさんがあの家で苦しんでいた場合、一緒にきぬさんを迎えに行くんです」
調べたところで何になるというのだろうか。その思いは口からは飛び出さない。義真はただ、顔を顰めていた。
無言を了承の証と判断したのか、それとも義真の意向など些末な事柄なのか。三人の人間らは、臨戦体制を崩さなかった。
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