世にも奇妙なあれ

Ψ


 矢渡家の食事は美味である。それこそまるで、夢のように。比較的財のある商家であるためか、一定水準以上の食材を使っていると見える。さらに、帝都よりも自然が多い土地柄のため、新鮮な野菜や川魚が手に入る。調理は女中の仕事だったので、きぬの出る幕はなかったけれど、食事に舌つづみを打つ専門職も悪くない。そう。きぬはこの屋敷では完全に仕事を失っていた。


 それどころか、義父母や屋敷の職人、近所からの来客、郵便屋ですらも、きぬは顔を合わせはしなかった。


 初日に案内された部屋に籠り、時々さらし場の端で綾子あやこと遊ぶ。部屋から出るのは自由であったが、きぬの姿がちらりとでも目に入ろうものならば、職人らが蜘蛛の子を散らすようにどこかへ消えていくので、自ずと出不精になってしまった。


 曲がりなりにも「若奥様」なのだから、然るべき責務があるだろうと思うのだけれど、聡一そういちはただ、きぬを屋敷の隅に隠しておきたいらしかった。


 この日もきぬは、綾子と共にいた。しゃがみ込んで、梅紫うめむらさき色の手毬てまりを抱える綾子。まだ地面に突くことはできないようだ。にもかかわらず綾子が毬を抱えているのは、手持無沙汰なきぬが一人畳の上で毬を打っているのを目撃して、真似をしようとせがんだからだった。


 きぬは綾子の隣で膝を折る。幼子特有の調子外れな歌声に、胸いっぱいの愛おしさを感じながら耳を傾けた。


「いっちじく にんにん さんちょに ちいたけ……」


 きぬが教えた童歌わらべうたである。綾子は砂の上で毬を転がしながら、楽し気に口ずさむ。きぬは微笑ましくそれを見守りつつ、物思いに耽った。


 矢渡家に来てから、もう一週間ほどが経過した。あの日案内をしてくれたあいと言う名の女中と綾子以外の人間とは顔を言葉を交わすこともない。驚くことに、聡一ですら一度もきぬの元には現れなかった。


 別に聡一と共に時を過ごしたいとは露とも感じないのだが、ここまで放置されてしまうと、何やら不審ですらある。


 きぬをいない者として扱うのであれば、わざわざ帝都近郊まで迎えに行く必要もなかったのだから。


 綾子のつむじをぼんやりと見下ろしながらも、きぬの心は遠い街にある。奄天堂えんてんどう家の小ぶりな門。原稿の締め切り前には、決まって開かずの間になる洋風の書斎。庭の柿の木。それにのぞき太郎が二度もよじ登った哀れな竹垣。


 帰りたい。そう思う先はいつだって奄天堂家であり、義真ぎしんの大きな翼の隣である。だが、郷愁に駆られる時、決まって思い出されるのは、別れの日にきぬに注がれた、義真の無感情な眼差しだった。義真はきぬが連れて行かれようとしているのに、引き留めもせず、ただ目を逸らしたのだ。ある種の冷酷さすら孕んだあの射干玉ぬばたまの瞳を思い出す度、胸に空いた穴がじわりと広がるような痛みを感じる。


「ななくさ はちゅたけ……にんにん……」

胡瓜きゅうり冬瓜とうがんだよ」


 綾子の髪を撫でて言った時。不意に一陣の風が吹きつけた。あっという間もなく、梅紫色の球体が風に煽られて綾子の手から滑り落ち、砂上を転がる。


「まってー」


 覚束ない足取りで手毬を追う綾子。小石に躓いてしまわぬよう隣で見守りつつ、きぬも一緒に追いかける。毬は漆喰壁にぶつかり停止するかと思いきや、再度吹き込んだ風に促され、角を曲がる。そのまま延々と転がり続けるので、綾子の足ではきりのない追いかけっこである。


 きぬはやや躊躇ったものの、一足先に毬の元へと向かう。足の側面で球体の進行方向を遮り、腰を屈めて拾い上げる。振り返り、後ろからよたよたと追いかけて来ているだろう綾子に微笑みかけようとした頬は、風に乗って耳に届いた言葉を認識し、強張った。


「……まあ、若旦那様が、またむつみ合って……」


 この屋敷で若旦那と言えば、聡一のこと。きぬの夫であると主張するあの男が、いったい誰と睦み合うというのか。いや、きぬとしては別に誰と仲良くしてくれても良いのだが。どう考えても綾子が哀れではなかろうか。


 盗み聞きなど、はしたない。きぬとて最低限の常識は持ち合わせているが、どうにもこの場を離れがたかった。ちくりと胸を痛めつつも、きぬは声が漏れ出る小窓に耳を寄せた。


「綾子お嬢様まで駆り出して、無理して若奥様を呼び戻したのに、一度も一緒に過ごしているのを見ないわ」

「やあね、昔からそうだったじゃない。いつだって若旦那様は化粧部屋の虫だもの」

「何それ」

「ほら、白粉おしろいも叩かないのにいつも二人で……」


「まりー」


 血の気の引いたきぬの身体に、綾子の体温が寄り添う。大人の下卑げびた噂話など、ほんの僅かな意味も掴めぬだろう。きぬはぼんやりとしながら手毬を綾子に返し、そのまま幼子を抱き上げた。


 急な動作だったが、毬にご執心の綾子は驚きもしない。きぬはそのまま居室に戻り、淡い陽光が差し込む廊下を徘徊し、女中のあいを探した。


 何度か名前を呼べば、いつも通り感情が希薄な白い顔が現れる。


「いかがなさいましたか」

「ごめんね、この子をちょっと見ていてくれる」


 有無を言わさず藍の腕に綾子を押し付ける。幼子にしては人見知りをしない性格の綾子は、きぬの手を離れても気に留めず、毬を弄っている。


 きぬは床が鳴るほどの勢いできびすを返し、疑惑の化粧部屋へと一直線に向かう。目を白黒させながらこちらを見る藍には申し訳ないのだが、この時のきぬは周囲に配慮を見せる余裕などなかったのである。


 その部屋は、きぬにあてがわれた部屋から渡り廊下を越えて、母屋のかわやに向かう途中にある。当然何人かの女中や徒弟とていとすれ違ったのだが、皆一様に驚き、次の動きは目を逸らすことだった。半ば隔離されていた若奥様が堂々と、しかも何やら険しい顔で歩いているのを見て困惑をしているらしかった。


 人を腫れもののように扱うこの屋敷の雰囲気に、きぬは今更ながら憤りを覚える。来たくて来たわけではないのに、この態度は何であろうか。綾子がいなければとうに逃げ出していたかもしれない。いや、いっそあの子を連れて寺にでも駆け込もうか。そんな突拍子もない考えが脳裏を過るほど、きぬは珍しく怒りを感じていたのである。


 化粧部屋の前にたどり着く。漏れ出るのは、男女が囁き交わす声である。これは完全に「黒」だ。聡一の悪事を暴けばもしかして、この屋敷から解放されはしないだろうか。不倫の罪は重いはず。


 ぼんやりとした性格のきぬではあるが、どこか大雑把な部分があると自覚している。きぬは後先考えず、襖を開いた。そして。


「え……」


 きぬは目を剥いて硬直する。室内の二人も、口を半開きにしたままこちらを間抜けな顔で見上げていた。


 見てはいけないものを見てしまった。それは、世にも恐ろしい光景であった。

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