きぬさんと絹

Ψ


 里は、義真の記憶にあるよりもずっと辺鄙へんぴに感じられた。畑も畦道あぜみちも、一面が薄い白銀に覆われていたからかもしれない。人の領域と獣の領域の境目が曖昧になり、元より建物が少ないことも相まって、まるで近所の平原でも眺めているかのような気分になるのだ。もしくは、帝都近郊での暮らしに慣れてしまったため、田舎の村落が手狭に映るのかもしれない。


 山間部とはいえ、豪雪の地域ではない。しかし、時期は年の瀬である。雪下ろしが必要なほどの積雪量ではないものの、道沿いには雪掻きの跡が見える。


 民家の軒下、日中の陽射しで溶けた雪解け水が滴下てきかし、分厚い雪の層に穴を穿うがつ。その横に半分溶けかけた雪だるまや雪兎を見つければ、幼き日の思い出が蘇った。


 養父母の待つ小山家が近づくごとに、義真の胸は早鐘を打つ。対して宗克は呑気な様子で、凍える指に息を吹きかけて温めていた。


「あ、そうだ兄貴。家、増築したんだよ」


 隣を歩く宗克に視線を向ける。弟は手を擦り合わせつつ、踏み均されて黒い土色に染まった泥濘ぬかるみを跳ね飛ばさぬよう、注意深く進む。どうやら固い雪が残るには、幾らか気温が高すぎるらしい。


「ほら、外国向けの絹糸が良く売れるんだ。元々二階にお蚕様がいただろ。なんと三階にも養蚕ようさん部屋作ったんだ」


 前回里を訪れた時には、実家はまだ二階建てだった。六年という歳月の長さを痛感する。 同時に、両親も相応に年老いただろうと考え、老夫妻二人きりで家業を切り盛りすることの残酷さに思い至った。


 これが他の家ならば、五人は子供がいるだろうから、未婚の子らや、長男の家族が生業なりわいを手伝うのだろう。けれども長らく子に恵まれなかった両親には、養子の義真と、まだ学生の宗克しかいない。


 家業を継ぐため、宗克の進学は反対されるだろうと思っていた。しかし両親は、数字の処理に長けた宗克を、田舎の養蚕農家に縛りつけることは望まなかった。


 それならば義真が家業を継ぐべきだろうか。別にどこにいても小説や論文は書ける。近頃は蚕の餌である桑の改良も進み、春から秋まで養蚕ができるはず。冬には執筆に励み、他の時間を両親と共に過ごす。それも、一つの選択肢であるように思えた。


 しかし同時に思うのだ。自分は、彼らの実の子ではない。それどころか、背中に翼を持つ天狗である。小山の養父母の先祖が守り育てて来たお蚕様の世話と責任を、引き継がせてもらうなど、畏れ多い。


「父さんも母さんももう歳だから、増築なんてしなくて良かったのになあ」

「お前は、継がないのか」


 思わず言ってみれば、宗克はちらりとこちらを見上げる。


「そういうのは兄貴が適任だろ。どこにいたって、小説は書けるんだから」


 まるで、義真の考えを読んだかのような言葉に、口を閉ざす。


 里に移住しよう、家業を手伝ってくれ、と言ったら、きぬは何と答えるだろうか。温厚な彼女のこと。嫌とは言うまい。きっといつもの穏やかな微笑みで、頷くはずだ。そんな未来も悪くはない。


 ……いやしかし。この里には義真が招いたしがらみがある。彼女を連れてくれば、そのうち心を壊してしまうかもしれない。それだけは、あってはならない。女々しくも、心的外傷を負ったかのごとく臆病になる己が情けない。けれどもこの怯えは、大切なものを守るため、一役買っているとも思うのだ。


 答える言葉を失った義真。兄が喋らないのには慣れっこなのだろう。宗克は相変わらず用心深く歩を進めていたのだが、意図せず汚れた雪を袴の裾に跳ね飛ばしてしまい、微かに顔をしかめたらしい。それからちっとも面白くないことを言った。


「名案だろ。きぬさんと絹作るの」


 義真は少し眉を上げたのだが、結局何も言わなかった。宗克は兄の無言を、さも当然のように受け流すだけである。


 ともかく、宗克との間の抜けた会話のおかげで、緊張も幾ばくかは解れたようだ。やがて民家が密集する地区にたどり着き、黒い羽目板の小山家が視界に映ってやっと、六年振りの帰省を実感する義真であった。

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