ご近所さんと大根の味
元より病弱な体質である母は、記憶にあるよりもずっと瘦せ衰えていた。それでも彼女は震えがちな膝を
「義真、あんた、もう何年振りに……」
腕の中で涙ぐんだ母が、嬉しそうに目元を和らげる。それを目にすれば、六年分の罪悪感も無駄に張りつめていた意地も、全てが雪とともに溶けていくかのようだった。
「義真、宗克、よう帰ったな」
やや遅れて、階段を軋ませながら階上から降りて来たのは、父である。こちらはもとより髪が無くなり久しいためか、容貌は六年前とそう変わらない。義真は密かに胸を撫で下ろした。
宗克が父を軽く抱擁し、背中を叩く。今度は宗克と父母を交換する形になり、ひとしきり再会の喜びを嚙み締めたところで、母が不意に辺りを見回す。怪訝に思い目で問えば、母は首を傾けた。
「お嫁さんは?」
問われて、微かに翼を強張らせる。すっかり失念していた。小山家に最後に送った手紙には、きぬを連れて行くことを明記していたのだ。脳内で言い訳じみた説明を組み立てる。黙り込んだ義真の気も知らず、宗克が軽い調子で勝手に答えた。
「喧嘩したんだよ」
「喧嘩?」
「それで一人で家に残してきたのかい?」
その通り。しばらくきぬは、無駄に広く、ついでに賃料も案外高いあの家で、一人気ままに過ごすのだろう。だがそれは、きぬが望んだこと。この場に流れる批難めいた空気は
凍り付いた空気の溶解を試みたのは、宗克だった。彼の唇が開き、細く息が漏れた。何らかの母音が発せられた。そう思った瞬間。背後から
「あらあら、小山さん今日は賑やかねえ」
「息子さん帰って来られたのね」
「宗克ちゃん? 大きくなって!」
「義真も今や作家先生だしなあ」
散歩をしていたと見える集団が、開け放たれた小山家の玄関を囲む。冬空の下、年嵩の住民が危なげもなく陽気に散歩が出来るほど、この里は雪が薄い。山間部とはいえ、帝都よりも若干暖かい地域に位置しているため、例年の積雪量はさほど多くないのだ。
「二人とも全然帰って来ないから、うちの孫たちも寂しがっているよ」
ふっくらとした頬の陽気なご近所さん女性の言葉に、宗克がやや身を乗り出す。
「あ、
「ああもちろん。元気過ぎて困っちゃうくらいだよ。そうそう、昨年にはもう一人孫が生まれてね……」
寛介と志摩は、三軒隣の家に住む子供らだ。あの宗克を兄のように慕う変わり者の兄弟だったが、離れ離れになって寂しい思いをしたのだろう。離別の種を撒いた己の所業に、ちくりと胸が痛む。そんな義真の心を知ってか知らずか、別の方向から声がかかった。
「義真」
視線を向ければ、腰の曲がった老齢の天狗。何軒か隣、山麓の桑畑の近くに住む男。苗字は居住地にちなみ、
「お前、いつ帰って来る?」
この場合の「帰って来る」とは、今回のような一時的な帰省のことを言っているのではないだろう。義真は首を傾けた。この里で暮らすつもりはない。けれども男は、さも当然のように諫めてくるのだ。
「何だその無責任な顔は。親が老いているんだ。早く帰って来て、家を手伝うべきだろう。お前は長男なんだから」
「俺は」
長男ではない。血縁関係がない上に、戸籍上は養子ですらない。だが桑原は、そうは思わないらしかった。
「いつまでもほっつき歩いていないで、里に戻りなさい。……何も、気に病む必要はないから」
「桑原さん」
言葉を返そうとしたのだが、彼は小さく首を振って、そそくさと女性陣の背後に隠れてしまう。気恥ずかしかったのかもしれない。
義真は密かに養父母の姿を眺める。にこやかに、玄関先にて会話に花を咲かせる彼らは、この件をどのように考えているのだろうか。これから時が過ぎ、自身の命がいよいよ終わりに近づいたと気づいた時、たとえ不肖息子の義真であっても、この家と家業を託したいと思うのだろうか。義真には、彼らの心がわからない。心の機微を描く小説を書いておきながら家族の心情が掴めぬとは。それは、とても奇妙なことのようにも思えた。
Ψ
その晩は、家族四人で、母が用意した郷土料理に
義真にわかったのは、山で狩った何等かの獣肉と野菜を
義真は、微かにくすんだ白色の漬物を、軽やかな音を立てて咀嚼する。実家の漬物は、しっかりと塩気が付いている。対して、きぬが作る漬物はいつも浅漬けだった。
囲炉裏端は無論、暖かい。空腹を刺激するような白い蒸気を上げる鍋物を取り分けて、腹に入れればさらに身体は熱を帯びる。繰り広げられる会話は笑顔に満ちている。道端の雪すら溶かすのでは、と思うほどに温かい空気感。その声に、義真は心地よく耳を傾けるばかりだけれど、確かな幸福がそこにはあった。
六年ぶりに耳にした父母の笑い声に胸が詰まる。それを口にするのは照れ臭くて、沈黙したまま大根をもう一口噛む。懐かしい味。強い
そうして、夜は更けていく。明日はいよいよ、智絵の実家、榊原家を訪問する予定である。
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