例の柄杓
昼前、冬の低い太陽が頭頂と翼を温める。暗い色には熱が集まりやすい。天狗は人間に比べて寒さに強いと言われるが、それはおそらく
「榊原さん、
返答はない。義真は声を張ることが苦手である。そうでなくとも元々声が低いらしく、通らない声質だった。だからきっと、屋内には名乗りが届かなかったのだろう。そう思い、もう一度呼びかけるため、息を吸ったのだが。
「お待たせして、ごめんなさいね」
突如引き戸が滑り、懐かしい声が響いた。幼少の頃より榊原の
「義真ちゃん久しぶりねえ」
ご近所の小母さんであったイチからは、ずっと「義真ちゃん」と呼ばれていた。三十も半ばにもなってこのような呼び掛け、気恥ずかしくもあるのだが、イチの方には悪気はない。義真は軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております。ずっとご挨拶もできず……」
イチは首を横に振る。陽射しが低いからだろうか、義真の顔を見上げながらやや眩しそうに目を細め、やがて視線を落とすとイチは小さく
「来てくれてありがとう。あのね、呼び出しておいて申し訳ないのだけれど、お父さんがね……」
会いたくないと、言ったのだろう。なんとなく、この帰省の結末はそうなるような予感もあった。だから、義真には落胆はない。やはりそうか、と思っただけだ。
別に悪意はなかった。けれどもなにぶん感情表現に乏しい義真である。黙り込んだ様子が不機嫌にでも見えたのだろう。イチは肩を窄めて、手を揉んだ。
「本当にごめんなさい。この前まではあの人も、義真ちゃんに会うって」
「いいえ、問題ありません」
イチはやや視線を上げる。その瞳が、悲し気に揺れた。義真は己の口下手に嫌気が差す思いだった。宗克ならば、もっと愛想の良い回答が出来るだろう。けれどもこれは生来の
「お義父さ……
言い捨てて
「待って」
ぴたりと足が止まる。肩越しに振り返れば、イチは緊張した面持ちで、引き続き手を揉んでいた。それから、思いもよらない提案をする。
「
驚きに黙り込んだ義真の様子を観察し、拒絶の色がないことを見て取ってから、イチは室内に引っ込んだ。しばらく、雑多な物音が鳴り響く。やがて、手桶の中に
「お墓に行くのは、初めて?」
歩幅を揃えて歩きながら、イチが問う。義真は頷いた。最後にこの家を訪れた時、榊原の義父が、水を撒き散らしながら
……いや、今思えばそれは言い訳だったのかもしれない。墓の場所は、知っている。本気で彼女に会いたいと思えば、出来ないことではなかったのだ。
義真は黙って、イチの手から手桶を預かった。老齢の女性には、重かろう。不器用な気遣いにイチは目を丸くしてこちらを見つめてから、小さく微笑んだようだった。少し、智絵に似た微笑みだった。
そんなことを考えてしまったことに嫌気が差して、義真はなんとなしに手元を見遣る。そういえばこの柄杓。あの日、義真に水を掛けた柄杓ではあるまいか。なんとも複雑な気分になる義真であった。
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