例の柄杓


 榊原さかきばら家の外観は、小山家やその他の民家と何ら変わらぬ、特徴の薄い黒い家。あまりにも似たような家が建ち並ぶため、外から嫁いで来た奥さんが間違えて別の家に入ってしまう、というのはこの里では比較的多い笑い話だった。


 昼前、冬の低い太陽が頭頂と翼を温める。暗い色には熱が集まりやすい。天狗は人間に比べて寒さに強いと言われるが、それはおそらく勝色かついろの翼のおかげだろう。眩しい陽射しを浴びながら、義真は玄関扉に呼びかける。


「榊原さん、奄天堂えんてんどうです」


 返答はない。義真は声を張ることが苦手である。そうでなくとも元々声が低いらしく、通らない声質だった。だからきっと、屋内には名乗りが届かなかったのだろう。そう思い、もう一度呼びかけるため、息を吸ったのだが。


「お待たせして、ごめんなさいね」


 突如引き戸が滑り、懐かしい声が響いた。幼少の頃より榊原の小母おばさんと呼んでいた、智絵の母。榊原イチである。


「義真ちゃん久しぶりねえ」


 ご近所の小母さんであったイチからは、ずっと「義真ちゃん」と呼ばれていた。三十も半ばにもなってこのような呼び掛け、気恥ずかしくもあるのだが、イチの方には悪気はない。義真は軽く頭を下げた。


「ご無沙汰しております。ずっとご挨拶もできず……」


 イチは首を横に振る。陽射しが低いからだろうか、義真の顔を見上げながらやや眩しそうに目を細め、やがて視線を落とすとイチは小さく嘆息たんそくした。


「来てくれてありがとう。あのね、呼び出しておいて申し訳ないのだけれど、お父さんがね……」


 会いたくないと、言ったのだろう。なんとなく、この帰省の結末はそうなるような予感もあった。だから、義真には落胆はない。やはりそうか、と思っただけだ。


 別に悪意はなかった。けれどもなにぶん感情表現に乏しい義真である。黙り込んだ様子が不機嫌にでも見えたのだろう。イチは肩を窄めて、手を揉んだ。


「本当にごめんなさい。この前まではあの人も、義真ちゃんに会うって」

「いいえ、問題ありません」


 イチはやや視線を上げる。その瞳が、悲し気に揺れた。義真は己の口下手に嫌気が差す思いだった。宗克ならば、もっと愛想の良い回答が出来るだろう。けれどもこれは生来のたち。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、幼い頃から義真は物静かな子供だった。


「お義父さ……小父おじさんに伝えてください。また今度来ます」


 言い捨ててきびすを返した義真。そのせっかちな背中を、イチが引き留める。


「待って」


 ぴたりと足が止まる。肩越しに振り返れば、イチは緊張した面持ちで、引き続き手を揉んでいた。それから、思いもよらない提案をする。


智絵ちえに、会ってくれる? お墓参りに行きましょう」


 驚きに黙り込んだ義真の様子を観察し、拒絶の色がないことを見て取ってから、イチは室内に引っ込んだ。しばらく、雑多な物音が鳴り響く。やがて、手桶の中に柄杓ひしゃくと線香、それから燐寸マッチなどを放り込んだ墓参り道具一式を手にしてイチは現れた。本当に墓参りに行くらしい。互いに普段着のままではあるが、里の墓地はそれこそ畑の真ん中にある。都会の住人が考えるより、故人の眠る場所は身近にあった。


「お墓に行くのは、初めて?」


 歩幅を揃えて歩きながら、イチが問う。義真は頷いた。最後にこの家を訪れた時、榊原の義父が、水を撒き散らしながら啖呵たんかを切ったのだ。二度と智絵に会いに来るなと。そうまで言われてしまえば、勝手に墓参りなど、出来るはずもなかった。


 ……いや、今思えばそれは言い訳だったのかもしれない。墓の場所は、知っている。本気で彼女に会いたいと思えば、出来ないことではなかったのだ。


 義真は黙って、イチの手から手桶を預かった。老齢の女性には、重かろう。不器用な気遣いにイチは目を丸くしてこちらを見つめてから、小さく微笑んだようだった。少し、智絵に似た微笑みだった。


 そんなことを考えてしまったことに嫌気が差して、義真はなんとなしに手元を見遣る。そういえばこの柄杓。あの日、義真に水を掛けた柄杓ではあるまいか。なんとも複雑な気分になる義真であった。

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