母と娘の関係、時々父

Ψ


「最低! お母様なんて大嫌い!」


 澄の絶叫がご近所に響き渡る。水中にまで届いたのだろうか、中庭の鯉が打たれたように尾びれをひるがえし、池の逆端に泳ぎ去った。


 顔を真っ赤に紅潮させてまなじりを吊り上げる澄。その視線の先には、母壽々子すずこである。


「何て口を利くのかしら。はしたない」

「お母様が下劣だからよ!」

「澄!」


 壽々子が鋭く呼び付けるのだが、澄は悔しさに唇を噛み締め、母を睨む。


 庭から差し込む光を受けて、壽々子の瞳がみどりを帯びる。澄の色合いと同じ。異国の血を持つ印である。


 壽々子の母……澄の祖母は、異国人だった。物心ついた時には亡くなっていたので記憶にはないが、祖母も翠の目をしていたという。無論、光に透けなくとも淡く煌めく、澄よりも明瞭めいりょうな翠であろう。


「お見合い相手になんて絶対に会わない。そう、ここに閉じ込めたのはお母様よ。私、この部屋から一歩も動かないから」

「それなら家にお呼びしましょうね。お相手の矢渡やわたりさんは、澄のように男勝りで、稀有けうな血筋の娘だってかまわないと言ってくださる、心の広いお方なの」


 この人を逃せば嫁ぎ遅れると、暗に壽々子は言っていた。園田すら偽許嫁であり、結婚する気など毛頭なかった澄にとっては、縁談を逃したとて案ずるに値しないことだけれど。


「別に、血筋は関係ないでしょ」


 吐き捨てるように言ってやれば、壽々子は大仰に顔を顰めた。


「まあこの子は。天狗なんかと交流しているからそんなことを。子が天狗と共にいれば、どんな憐れみを受けるか」

奄天堂えんてんどうさんを悪く言わないで!」


 澄は思わず畳を蹴った。どん、と低い打撃音が響き、少し床が振動したかもしれない。壽々子はいっそう柳眉りゅうびひそめ、小さく溜息を吐いて首を振った。心底呆れた、と言うような表情である。


「本当に聞き分けのない子。矢渡さんのことは決定事項ですからね。ご予定をうかがって、お呼びするわ」

「お母様じゃ埒が明かないわ。お父様とお話させて」

「お父様も同意見ですよ」


 取り付く島もない。ぴんと伸びた背筋のまま部屋を出て行く壽々子。その隙のない背中を睨みつけて見送り、一人取り残された澄は火鉢の隣に座り込んだ。


 父は入り婿である。大迫家の家長は父清嗣せいじだけれど、どうにも壽々子には頭が上がらないらしかった。だから暴力者疑惑のある一族との縁談問題が再燃してしまっても、父には全てを止めることなどできないのだろう。


 澄は壽々子が苦手だった。壽々子の母親は異国人だったが、慈愛に満ちた人格者で誰からも好かれていたと聞いている。実の親を、壽々子はなぜああも嫌うのか。


 異国の血のせいで、苦労したのだろうとは思う。壽々子が生まれた時期には、天狗ですら今ほど近い存在ではなく、ましてや大海の向こうからやって来た金髪の人間など、立っているだけで好奇の目を向けられる存在だったに違いない。


 けれども時代は変わるのだ。異国人に対しても天狗に対しても、この島国の人間は、徐々に偏見を持たなくなるだろう。少なくとも若年世代である澄の学友は、色眼鏡のかかった見方などしない。


 澄は一つ息を吐いてから、座布団を捲る。薄い、寄木細工よせぎざいくが覗く。手紙道具一式である。


 澄を哀れに思ってくれたのだろう光江みつえの協力で、これらを手に入れた。どうやら、光江が実家に住んでいた頃より愛用していた品だという。


 先日、友人である美弥子みやこりつ宛てに手紙を出した。その中には、園田の住所と彼宛ての手紙が同封されている。そろそろ、状況を知った園田が何とか澄を解放する手はずを整えてくれている頃合い……かもしれない。


 手紙でも書こうかと思案しながら、寄木細工の表面を撫でる。蓋の右端に、鳥の双翼のような文様が刻まれている。聞けば、北の地域で有名な職人の手による品だという刻印らしい。まるで天狗の翼のような意匠だなと、思った。そういえばこの形、最近どこかで見たような。


 澄は首を傾ける。しばし記憶を漁ったけれど、思考のほとんどは母への怒りで埋め尽くされて、目的のものを手にすることは出来なかった。

 

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