三つの甘味

Ψ


「ただいま……あれ、お客様かな」


 明るい声が響き、屋内の空気が一段軽くなるようだった。声の主はほどなくして、襖が開け放たれた客間にやって来る。


「あれ、澄さん。宗克さんも」


 犬猿の仲とばかり思っていた二人が額を突き合わせて話込んでいる様子に、帰宅早々きぬは目を丸くしたようだった。


「きぬさん、お邪魔しております」

「いらっしゃい、澄さん。留守にしていてごめんね」


 突然訪問したのは澄の方だったのに、きぬは眉を下げて心底申し訳なさそうにしている。


「いえ、こちらこそ急に来てしまってすみません。……どこかへお出かけでしたか?」


 襖の向こう、廊下の床板の上に正座をしたきぬの袖は、鮮やかな赤であった。八百屋に行く程度の外出にはもったいない。余所行きの着物である。訊いてみれば、きぬは袖を握って少し頬を染めた。


「あ、そうなの。ちょっと街まで。やっぱり着物、派手だったかな」

「そんなことないです。とても似合っています」


 赤といえども幼い色合いではなく、ややくすんだ紅色。薄っすらと格子柄こうしがらが浮かぶ素朴な意匠だが、小柄で清楚な印象のきぬには、とても似合っている。


 心からの感想だったのだが、社交辞令とでも思ったのか、きぬは「ありがとう」と柔らかく微笑んだ。それから室内に視線を巡らせ、床に無造作に伏せられた雑誌を見て、あっと声を上げる。


「あれ、『黎明』。澄さんも読んでいるの?」


 その声音には邪気がない。幾らか肩の力を抜いて、澄は頷いた。


「はい。『還る鳥』が好きで」

「そうなの。義真さん喜ぶかな」

「奄天堂さんが?」


 話の繋がりがわからず、首を傾ける。その様子を見たきぬもまた、小首を傾げた。


「あれ、宗克さん、言ってないの? 『還る鳥』を書いているのは義真さんだよ。ほら」


 驚愕の事実を、まるで今晩の献立でも説明するような調子で告げ、きぬは客間に入って『黎明』を拾った。『還る鳥』のページを開き、著者の名前を指差してこちらに示してくれる。天山真てんざんまこと。それが作者の名である。


「主人の名前は奄天堂義真というの。でも弟の宗克さんの苗字は小山でしょう。色んなところから文字を拾ってきて、ついでに人間のような読み方に変えてみたら、天山真、だよ」


 突然の暴露に、澄は言葉が出ない。辛うじて視線を遣れば、宗克はやや気まずそうに目を逸らすのだが、彼とて意図して隠した訳ではないのだろう。奄天堂家には毎月黎明が届くのだと、先ほど聞いていた。なるほど、著者の家だから購読せずとも出版社からもらえる、ということか。


 澄の困惑をよそに、きぬは嬉しそうに腰を上げ、茶の間の方へと声を掛ける。


「義真さん義真さん。こっちへ来て」


 反応はなかったのだが、もう一度きぬが呼びかけると、不承不承といったような間が空いてから、のそりとした足音が向かって来る。


「待って。兄貴、今日は義姉さんと一緒だったんですか」


 そういえば、義真はいつの間に帰って来たのだろう。帰宅の気配はなかったので、おそらくきぬと一緒に帰って来たと考えるのが自然である。宗克の驚きに満ちた問いかけに、きぬはあっけらかんと頷く。


「え、うん。そうだよ。さっきね、流行りの甘味を食べて来たの」


 言ってから、宗克を留守番させていたことに負い目を感じたのだろう、きぬは取り繕うように言った。


「ごめんね、宗克さん。義真さんがここ数日お店に通ってやっと予約を取ってくれたんだけど、三人席は取れなかったの。だけどちゃんとお土産買ってきたから。夕餉ゆうげの後に食べてね」


 澄と宗克は思わず顔を見合わせる。店に通わないと予約も取れないような甘味処は、そう多くあるものではない。二人の脳裏には、同じ行列が浮かんでいただろう。


 宗克が、部屋に置いた風呂敷をさりげなく背後に隠す。その中には、あんみつの竹筒が二つ入っていることを知っている。きぬと義真への土産である。何だかんだ言っても、しっかり兄の分も用意していたことを知り、澄は先ほど宗克を茶化したばかりであった。


「義姉さん、ちなみにその甘味って?」

「あんみつっていうの。みつ豆に粒あんを乗せていてね。宗克さん、みつ豆好きなんでしょう? 義真さんがあんみつ食べながら、『宗克が宗克が』って言うから、じゃあお土産買って行こうねって言ったら、いらないだなんて言っちゃって」


 本当に素直じゃないよね、と笑うきぬ。その姿を、やっと現れた義真がなんとも言えない複雑そうな表情で見下ろしていた。


 事の顛末は、あまりにお粗末で拍子抜けた。結局、義真の外出と寄り道は不倫などではなく、美味なものが好きな愛妻のために、話題の店の予約取りに奔走していただけであって、尾行途中に急に消えたのは逃げたからではなく、単純に店に入ったからであったのだろう。


 そして今、この家にはあんみつが三つ。宗克が兄夫妻のために買った二つと、その兄夫妻が弟のために買ってきた一つである。澄は思わず、宗克の耳に囁いた。


「今日は皆さんで二つ目のあんみつ、食べないといけませんね」

「この二つは君にあげるよ」


 彼の腕に押された風呂敷が畳を滑る。澄はそれを丁重に押し返した。


「持って帰ったらその経緯を問い詰められて、お母様に追い出されます」


 宗克はやや顔をしかめてから、微かに嘆息した。今晩、奄天堂家で起こる喜劇を思えば、頬が自然に緩むのを止める術はなかった。

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