兄の目的、妹の手段 -空飛ぶ兄は、妹に物理で殴られる-

夏々湖

第1話  まずは空を飛んでみよう

「ケイくん、やめようよ。あぶないよ」

 歳の頃は五、六歳であろうか。茶色い髪の少女が、そばに立つ黒髪少年に話しかけている。

 大きな平屋建ての屋根の上、物干し竿に洗濯物が干されはためいている。

 ケイと呼ばれた少年は、自分の身体ほどの大きさの木の板を背負い、キリリと前方を見据えて口を開いた。

 

「大丈夫だって。飛竜ワイバーンが飛ぶとこずっと見て覚えたんだ。僕だって飛べるはずなんだ!」

「ケイくん!」

 ケイは走り出した。背負った板に斜めに風があたるように、前傾姿勢を保ちながら屋根の端を目指す。

「僕は、飛ぶんだ、必ずっ!」

 最後の一歩を踏み切って、その小さな身体を空中に押し出す。

『ふわっ』と丹田のあたりが取り残される感覚と、お尻から地面に吸い込まれるような落下感を感じた時、ケイは……いや、ケイは、前世であったことを全て思い出した。


          ♦︎

 

 沢井ケイは航空自衛隊の戦闘機パイロットである。二十五歳で任官し、以来九年、日本の空の防衛の最前線で飛び続けている。空の上での識別名、TACネームはツインケイ。三歳年下の双子の妹が官舎を訪ねてきたときに決まってしまった。

 正直、かなり恥ずかしかったことを覚えている。妹は二人ともかなりインパクトのある人間なので、しばらく基地内の話題の中心にもなっていた。


『空を自由に、飛びたいな』

 

 日本人なら誰でも聞いたことのあるこのフレーズ。幼少期の景はこの言葉に支配された。

 頭の上にプラレールから外したモーターとタケトンボを載せて、モーターに髪の毛を巻き込まれて大泣きしたのは三歳の時。臨月を迎えている母親は怒る気力もなく、絡んだ髪の毛をハサミで切り落とした。

 

 翌週、双子の妹が生まれた。一卵性双生児の『こと』と『かな』である。

「いつか、お兄ちゃんが空に連れてってやるからな」

 生後二日の妹と面会して、最初の誓いがそれだった。

 

 翌年、ホテルマンをしている父の転勤で茨城県小美玉市へ引っ越した。小さな景にとって、新しい街は衝撃であった。

 家から数キロの場所に自衛隊の飛行場があったのだ。航空自衛隊百里基地、日本の首都防衛の要であり関東で唯一の戦闘機配備基地である。

 景が幼い頃はF-4EJ戦闘機と、F-15J戦闘機が配備されていた。金切り声をあげて離陸していくF-4戦闘機を眺めながら、それに乗る自分を思い浮かべた。離陸直後に、垂直としか思えない角度で上昇していくF-15戦闘機に右手を重ねた。

 

 小学校に上がる頃には、もう戦闘機パイロット以外の将来は考慮しなくなっていた。ただひたすら、戦闘機に乗るための準備を開始した。

 学校が終わればトレーニングがてら自転車で基地のフェンスまで行き、ジェットエンジンの音をBGMにして勉強をする。基地警備隊の人とも仲良くなり、基地のことを色々教えてもらったりもしていた。

 

 週に一度、剣道場に通い心身も鍛えた。三年生になる頃には、保育園に通う妹二人も剣道を始めた。

 

「おにいちゃん、おにいちゃん」

 と、くっついて回る琴。

「ことー、ことー」

 と、琴にくっついて回る奏。

 仲は良いけどなんとなく歪な兄妹は、それでもすくすくと育っていった。

 

 景が中学生に上がる頃には、妹二人の異常性が明らかになってきた。まず、二人とも学力が普通ではない。大学受験の物理学参考書を読みふける琴。そして、琴に勉強を教えている奏。小学生の放課後の過ごし方としてはなかなかおかしい。

 

 剣道場では、中学一年男子の景が、小学三年女子の奏にかなわなくなりつつある。景だって高い目標に向かって鍛えているのだ。同年代の男子と比べても身体能力は高い方だと思っていた。しかし、妹に負ける……研鑽が足りないのか?だが、パイロットになるためには剣道ばかりしているわけにもいかない。

 

 妹達に追いつかれない、かつ、パイロットを目指す道。景は高等専門学校への進学を決めた。

 この場合、空に上がるのは二年遅くなる。しかし高専での学習は必ず空の上でも役に立つと信じて勉学に励み、県内にある工業高専を卒業、同年、五十倍もの難関を勝ち抜き航空学生として採用された。

 

 それからも何度もの適性試験を潜り抜け、25歳でF-15戦闘機の操縦士として夢の一端を掴んだ。

 それから九年、何度か所属飛行隊が変わったものの、まだ空を飛び続けることができている。それが何よりも嬉しかった。

 

           ♦︎

 

「スクランブル!」

 運行管理者ディスパッチャーの指示が飛ぶ。

 ここは宮崎県にある航空自衛隊新田原基地、対領空侵犯措置のためのアラート待機所である。日本領空を侵犯する所属不明航空機などの下に最速で駆けつけ、領空に入らないよう、または領空から即座に退去してもらうよう警告を行う任務のための施設だ。

 

 スクランブルの指示が出た時、待機中のパイロットは五分以内に空に上がらなければならない。

 「あと十五分で五分待機終了だったんだけどなぁ」

 などと余計なことを考えている余裕はない。ただ愚直に訓練で繰り返した手順を守り離陸の準備をする。

 

 待機所の隣はすぐに格納庫ハンガーになっている。景は待機している二機のF-15J戦闘機のうち、奥側の二番機に取り付き、梯子ラダーを上る。片足をコクピットに下ろすと同時に始動用補助エンジンJ F Sのスイッチを回した。

 JFSのタービン音を確認しつつ、コクピットに身体を納めヘルメットをかぶる。

「右エンジン、スタート」

 機体脇の整備員に声をかけ、機体後方クリアの返事で右エンジンをスタートさせた。

 右エンジンが落ち着くまでにシートベルトを締め、耐Gスーツのホースを繋いで身体と機体を一つの部品としてまとめていく。

 続いて左エンジンを始動する。エンジン回転数が上がり、エアインテークが離陸に備えて下を向いた。

 風防キャノピーを閉じる頃には整備員の最終点検も終わり、火器のセーフティピンが抜かれた。作業員の手に規定本数のセーフティピンが握られていることを確認し、機体と地上機器との接続を切ってもらう。

 

 一番機に乗る編隊長が管制塔の指示を受け、復唱する。新田原基地を離陸したのち、方位120度、高度33,000ftで進出、四国南方沖250浬付近に向かえとの指令である。

 いつものロシア軍や人民解放軍の哨戒飛行とはちょっと違う雰囲気だ。このあと、離陸してから状況説明があるだろう。

 

 車止めチョークを外すハンドサインを出して、OKのサインを待ちブレーキをリリースしてスロットルを押し込む。アラートハンガーは滑走路にほど近いため、すぐに滑走路端ランウェイエンドにたどり着いた。編隊長が管制塔にレディを伝えると、その場で離陸許可が出る。

 一番機のエンジンが唸りを上げ、アフターバーナーの青白い炎が浮かび上がる。二番機に乗る景も五つ数えてからスロットルレバーを押し出し、一番機に追従した。

 プラットアンドホイットニーのF-100エンジン二機が唸り力強く加速していく。F-15J戦闘機はあっという間に離陸速度の百五十ノットを超えた。

 「VR」とコールし操縦桿スティックを軽く引く。前輪を浮かせながら加速を続け、「V2」とコールしながら機体を空気にのせた。

 

 滑走路端を出る頃にはランディングギヤも収容する。スクランブル発令から四分弱、ほぼ訓練通りの時間である。

 

「コントロールよりワンダー、ツインケイへ。敵味方不明機アンノウンは四国室戸岬南方250浬を高度4,000ft、速度80ノットで北北東に向けて進行中。機種不明、形態不明、だが大きい気配もある。早期警戒機ホークアイも向かわせるがイーグルの方が速い。目視観測を第一任務とする、オーバー」

「ワンダーラジャー。やけに遅いが飛行船かなにかかい? オーバー」

「コントロールよりワンダー、反応が一定しないため推測でしかないがホークアイE - 2 Dからのデータでは数十メートル以上の大きさと見られる。反射波は2.7秒周期で変動している模様。詳細不明につき、まずは向かってくれ、エンド」

「ワンダーラジャー」

「ツインケイラジャー」

 軽く左にロールさせ、指示された方位120へと機種を向け高度をとっていく。

 

 今日の一番機はTACネームワンダーこと和田三佐、ベテラン中のベテランパイロットだ。景も若い頃から世話になり、ここまで育ててくれた恩人だと思っている。

 見た目はゴツく言動も荒っぽいが、操縦はとても丁寧で繊細な飛び方をする不思議な人だ。今日も綺麗な機動でぴたりと向きを決め、指示された高度まで機体を持ち上げていく。

 

 数分で高度33,000ft、速度は550ノットに到達する。今いる場所は雲が少なく海面も見えているが、向かう先は白く見える。

 計算上では30分ほどで目視距離に接近予定、しかしこの天候では手間取るかもしれない。少しだけ憂鬱になったところで通信が入った。

 

「ワンダーよりツインケイ、なんだと思う?」

「ツインケイよりワンダー、飛行船だとすると速すぎます。大型で低速というと、あとは海自のUS-2みたいな飛行艇ですが、こんなのアドバンスドホークアイが見間違えるわけないですし、なんでしょうね。オーバー」

「まぁ、行ってみるしかないな」


 上空から見下ろす海面上には、雲が広がり始めていた。

 視線の先にあるヘッドアップディスプレイに、新たなコマンド高度と方位が表示される。

「そろそろおろせってか? まだこっちのレーダーには何にも映ってないけど……」

 データリンクシステムで送られてきたアンノウンまでの距離は50浬を切った。そろそろ高度と速度を落とさなければ通り過ぎてしまう。速度はともかく、33,000ft、およそ一万メートルの高度が持つエネルギーを消費するのは、なかなか大変なのだ。

 

「ワンダーよりツインケイ、会敵準備にかかる。パワーアイドル、5,000まで下げ、オーバー」

「ラジャー」

 スロットルレバーを引き寄せ、エンジン出力を絞る。右前に位置する一番機の位置にあわせながら、スティックを前に入れ少しずつ高度を落としていく。

 高度7,000ft付近から、ときおり雲の中に入るようになった。速度は300ノット強、もう少し落とさなければならない。

 高度5,000ft、目標高度まで降りてきた。数キロごとに雲の塊があり、視界があまり取れない。

 

「ワンダーよりコントロール。こちらのレーダーには未だ感なし。視界も良くない。もう少し下げても良いか? オーバー」

「コントロールよりワンダー。高度変更を許可する。アンノウンの高度は現在4,000ftそろそろ十一時方向に見えてるはずだ」

「ワンダー了解、下降する」

 編隊長機が高度を下げるのに続き、景もあとを追う。高度が下がり雲の下に抜け出すと同時にアンノウンを発見し、そこで思考が止まる。


 

 ドラゴンがいた。


 

「え? え?」

 何度見直してもドラゴンである。全長は五十メートルほどであろうか。深緑の体色にブラウンじみた一対の翼、長い首と尾。悠々と翼を羽ばたきながらドラゴンが飛んでいる。

 

「ワンダーよりコントロール……目標視認ターゲットインサイト。だが、これは……」

「コントロールよりワンダー、報告は正確に素早く」

「あ、ああ……ドラゴンが飛んでる……」

 他に報告のしようがない。

「コントロールよりワンダー、冗談を言ってる場合ではない。正確な報告をどうぞ」

「か、カメラ。ターゲットの撮影を行う。持ち帰ったら確認してくれ」

 

 二機の戦闘機は速度を極力落とし、後方からドラゴンに近づいていく。本来の領空侵犯措置の場合、一番機は相手機体の左前方に、二番機は真後ろに位置取りをする。

 しかしこのドラゴンは速度があまりにも遅すぎた。 現在のドラゴンの速度は80ノット、およそ時速150キロメートル。武装した状態のこのF-15は、その倍近い速度が無ければ失速してしまう。それでもギリギリの低速度を保つためにフラップを一段下げ、一番機がドラゴン左手後方よりから近付く。 

 景もドラゴンの後方につくために一度高度を下げ、機首を上げながら速度を落として行く。ドラゴン後方一キロメートルほどの場所で高度を合わせた。この位置からなら追いつくまでおよそ三十秒、撮影しながら近付いていった。

 

「こちらは日本空軍です。貴機はまもなく日本の領空を侵犯します。直ちに変針してください。こちらは日本空軍です」

 ワンダーが英語で定型文を送信する。通じてるのか通じてないのかわからないのは、ロシア軍もドラゴンも違いはない。

 

 景の乗る二番機がドラゴンまでおよそ500メートルほどの場所まで近付いた時、ドラゴンがいきなり振り向いた。

 その長い首を後ろに向けると、彼我の距離が一気に縮まる。

 

「おわっ!」

 

 反射的にスティックを左に倒したあと手前に引き寄せ、スロットルレバーを押し出した。

 速度はわずか150ノット。急激なロールからの機首あげ動作により翼から風が剥がれ落ち、操縦感覚が消える。鳴り響く失速警報を聞きながらエンジン出力が上がるのを待つ永遠にも感じる数秒間。海面までの距離は4,000ft、1,200メートルほどしかない。機首が下向かないことを祈りながら右ラダーを当てる。

 

 並の戦闘機であれば、この時点で左翼を中心としたスピンに入り間違いなく墜落したであろう。

 

 しかし、世界一落ちにくい飛行機として名を馳せているF-15は踏ん張った。インジェクタから吹き出した燃料がタービンを加速し、圧縮されたガスが機体を加速させる。スコーンっと落ちていく低重力状態から、翼と機体が風を掴みなおして前へと進んでいく力強いGを感じるようになると失速警報もなりを潜める。

 

「ツインケイ‼︎」

「大丈夫です。戻ります‼︎」

 飛行機の制御を取り戻した景は、高度を戻しながら300ノット近くまで加速する。このぐらい速度があれば、戦闘機動も可能である。景はドラゴンから離れつつある機体を、4G程度の旋回で戻して行く。

 

「ワンダーよりコントロール、ドラゴンが突然変針した。現在は先程より速度を落として北上中。周囲を回りながら観測を続けるが、正直なにが起きるかわからない、オーバー」

「コントロールよりワンダー、了解した。あまり刺激しないよう距離を取ろう。最低距離2,000ftで監視を続行。すぐに応援を送るので、到着次第任務交代とする」

「ワンダーよりコントロール、了解」

 

 通信を聴いていた景もそれに合わせて機体を巡らせていく。ドラゴンの前方から350ノットの速度で右方2,000ftを抜けるコースを選んだ。

 あと二秒でドラゴンの脇を通り抜けるというタイミングで、目の前に虹色がかった鏡が出現した。

 

 そこで、景の記憶は止まっていた。

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