第4話  物理は全てを解決する

 沢井ことは物理学者である。

 帝国大学の理学部物理学科から大学院物理専攻へと進み、二十七歳で博士(物理)を取得、そのまま帝国大学にて研究を続けている。

 

 琴は三つ年上の兄と、一卵性双生児の妹の三人兄妹であった。そう、過去形である。

 

 三年前、航空自衛隊パイロットであった兄が任務中の事故で殉職したのだ。

 なんとも奇怪な事故であった。日本の南方に突如現れた巨大生物が、空を飛んで日本に向かってきた。その姿は西洋の伝説のドラゴン、いや、現代の創作物に描かれるドラゴンそのものであった。


 三年前のあの日、日本は平和な朝を迎える筈であった。しかし、その平穏は航空自衛隊の早期警戒システムによって破られた。

 

 突如四国沖に発生したレーダー反応を脅威と判断した西部航空方面隊は即座にスクランブルを発令、待機していた新田原基地の戦闘機二機が現場に急行した。この時、その脅威の撮影を行っていた一番機は、二番機が撃墜される瞬間も映像として記録していた。

 

 まず、このドラゴンらしき生物が、どこからどう見ても飛行不可能にしか見えない。

 身体の大きさと比較して、翼が小さく、貧弱すぎるのだ。

 

 地球上で何かを飛ばそうとした場合、いくつかの選択肢がある。

 

 ひとつ、揚力。翼を持ちベルヌーイの定理にて圧力差により翼を持ち上げ飛行する、いわゆる重航空機である。

 

 ひとつ、浮力。飛行船、熱気球など、占有体積全体の重さを同体積の空気よりも軽くしてしまうもの。高速移動や大量輸送には向かないものの、その独特の飛行感覚は捨てがたいものである。

 

 ひとつ、推力。ロケットやミサイルが空を飛んでいく原理である。ジェット戦闘機等の垂直上昇バーチカルクライムも同じ力の使い方だ。

 

 ひとつ、勢い。ただ、勢いつけてぶん投げるだけの簡単なお仕事である。キャッチボールでボールを投げるのも、マスドライバーで宇宙まで荷物を送り込もうとするのも、やってることに変わりはない。

 

 ひとつ、電磁力。リニアモーターカーが空を飛んでいるかと言われると自信はないが、宙に浮いているのは確かで有る。

 

 ひとつ、エアクッション。ホバークラフトやエアホッケーの原理で有る。グランドエフェクトを利用した推力のひとつと考えても間違いではない。

 

 しかし、あのドラゴンはこの中のどれにも当てはまらなそうな飛行を続けていた。

 そして運命の瞬間……二番機がドラゴンの脇をすれ違おうとした瞬間、ドラゴンの斜め前に虹のかかった鏡の様なものが浮かび上がり、兄の乗った戦闘機はその鏡に衝突して爆散した。

 速度350ノット、およそ時速650キロメートルの速度で鋼鉄の壁に激突した様な状態であった。機体は粉になるほどの衝撃を受け、コクピットなど残骸も残らなかった。

 

 しかし、この時のビデオデータから分かったこともいくつもあった。衝突の瞬間、鏡の表面に見える虹の膜の様なものが割れて飛び散っていく。そして、衝突した機体が落下した後には、クリアな鏡面が映り込んでいた。

 

 琴は国から依頼された調査研究のために、膨大な予算を使った壮大な計画を立てた。

 準備のための基礎理論から新技術の構築、資材確保、許認可、新素材の開発、巨大建造物の建築。全ての難問を平行作業でまとめ上げ、いよいよ最後の仕上げに取り掛かろうとしていた。


            ♦︎


 ドラゴン事件はあまりにも謎が多かった。まず、ドラゴンとは何なのだ。国は事件の後、ドラゴンの死体を回収しようとしたがあまりに巨大なため、分割を試みた。

 

 とても大きく硬質な鱗と、その下のこれまた分厚く丈夫な皮膚に阻まれ、解体は思うようには進まなかった。

 

 ミサイルに傷つけられ開いた腹の傷から内臓部にはアクセスできたが、内臓も一つ一つが巨大で取り出すのにも大変な思いをすることになった。

 翅とそれを支える筋肉と腱を取り外し、用途のわからない内臓を回収していく。

 分厚い頭蓋骨を時間を掛けて切断し、脳を取り出す。角や牙はダイヤモンドカッターで削り取らなければ外せないほどの強度をもっていた。


 ドラゴンはなぜ飛んでいた?物理的に飛べる構造では無いのは明らかだ。ドラゴンの推定体重はおよそ70トン。見た目よりは軽いが、あの小さな翅でその体重を支えるのは不可能である。

 たとえ常識外の筋肉がそれを補おうとしても、はばたきの回数が2.7秒サイクルである限り無理だ。

 

 火を吐くって何? ドラゴンブレスってヤツですか? 内臓に「ほのおぶくろ」でも有るってのか? ふざけんなし!

 

 あの鏡なんだよ。バリアーかよ! パリーんって割れるとか光子力研究所ですか?

 

 はぁはぁはぁ……

 世界中の科学者たちが総力を上げて取り掛かったものの、何が何だかさっぱりだよ…との本音がポロリポロリと聞こえてくる。


 そんな中、事件から一月後、琴に依頼されたのは『残されていた鏡の調査』であった。

 

 殉職したのが琴の肉親であることは広く知られていた。あの事件の前日までは、沢井家で一番名が知られているのは琴であった。

 

 若く美しい天才物理学者。それだけでも話題にならないわけがない。その上で、超弦理論を補強するような新理論を発表し話題となったのが博士号取得の翌年。

 世界中の物理実験施設が追試を行い「これはもしかして深淵に辿り着ける?」の段階まであとわずか……の評価も受け始めていた。

 当然、世界各国の大学から招聘を受けていたが応じることはなく、帝国大学に残って研究を続けていた。

 

 肉親の死に関わった研究になるが、政府としてもなりふり構っていられなかったのであろう。日本の大学ならば文部科学省経由で声もかけやすかったということもある。

 

  あの日、ドラゴンが張った鏡は全部で四枚あった。兄の仇で一枚、ミサイルを迎撃した分が二枚、そしてP-1が陽動に動いたときにも一枚貼られていたことが後から判明した。

 

 そして、その全ての鏡が今も黒潮の上空に残っている。

 しかも、最後の一枚は虹色の盤面も割れずにそのまま存在している。

 

 ただ、これを研究するにも、何もない空中にポツンと有るのだ。アクセスするのも難しい。

 最初に行ったのはドローンによる調査だった。高性能のマルチコプターに各種センサーを積み込み、鏡の前まで飛んでいく。

 

 鏡は、裏側に回ると存在を知覚できなくなる。完全に透明でそこには何も無いように見える。しかし、表側からはそこにはっきりと鏡のような反射板があるように見える。

 

 続いて鏡に向かってさまざまの周波数の電磁波を飛ばしてみた。すると、虹色の無い鏡はほぼ100%の電磁波が反射されてきた。虹色の残った鏡は周波数にもよるが、およそ半分以下まで減衰して反射されてくる。

 

 裏側に回って電波を出すと、全ての鏡で反射波を観測できなかった。可視光線と同じく、完全に透過してると考えられた。

 

 音波でも試された。表から流した音は消えてなくなった。裏から流した音は、反対側に抜けていく。

 

 今度は物理的接触を試す。ドローンに探針プローブを取り付け、直接鏡に触ることになった。プローブには温度センサと接触センサが取り付けられている。ドローンを鏡の前に浮かべ、そっと鏡に近づいていく。ドローンのカメラはプローブ先端を見つめている。

 プローブが鏡に触れたところから、少し押し込んでみる。接触センサも温度センサも変わったことは何も伝えてこない。そのままプローブは鏡にめり込むように入っていく。

 

「ちょっと戻して」

 ドローンパイロットに指示をする。パイロットはそっとプロポのレバーを倒しドローンを鏡から離す

 

「っ!」

 プローブ先端が消えている。鏡に入った部分全てが欠けていた。すぐにドローンを呼び戻し、直接観察する。

「鏡面仕上げみたいに消えてるわ……存在そのものを消されたように……」

 

 プローブを交換して、今度は虹色鏡でも同じ調査を行ってみた。すると、今度は虹色盤面にプローブが当たると「カチンっ」と硬質な音がしてそれ以上進むことができなくなった。

 

「虹色部分は物理的な物質として存在してる?」

 次の調査のためにプローブを入れ替える。プローブのセンサを増やしたり、触れるだけにしてみたり裏から差し込んでみたりと色々試しているうちに気がつく。

「あー、これは直接見たいわ……」


 こうして、太平洋上にメガフロートを浮かべ、その上に、補給施設と計測研究施設を建築。直接調査のための専用ヘリコプターを開発して空飛ぶ研究室を実現すると言う、誰だよそんなバカなこと考えるのは! という計画がスタートした。

 

 まず最初に出来上がったのは虹色鏡のフロートであった。ここは陸地からは近いものの、地元の漁業者の反対やフェリー航路の障害ともなるために、恒常的な建築は難しい。しかし虹色はこの場所にしか無いために必ず調査したい場所である。

 

「揺れはしないけど……なかなか怖いわね……」

 琴が感想を漏らす。

『専用ヘリコプター』と言っても、一から開発したわけではない。三機のUH-60をトライアングル状に連結固定し、その下に屋根に穴の空いた研究室をぶら下げると言った力技である。鏡の下からアプローチし、研究室の屋根の穴から鏡を入れ込むような運用だ。

 

「揺れはローターそのものをジンバルとしてこの調査台を支えるようにしてますからね。ただ、突風とか来たら恐ろしいことになりますが」

 

 この調査を始めてからずっとサポートしてくれている内閣調査室の幸田詩琳しおりが返事をしてくれる。

 幸田は一言で言えば『どこにでもいそうな綺麗なお姉さん』だ。あとで思い出そうとしても、今ひとつ印象が薄いが、会えば「ああ!」と感じるような素敵な女性である。

 

「さてと……」

 琴がここに上がる前に、ひと通りの調査は済まされていた。一辺ほぼ八メートルの六角形で厚みは計測不能。虹色膜と鏡面の間には五ミリほどの隙間があることが判っている。その隙間から鏡面に触れると、他の鏡同様に触れた部分が消失する。

 虹色膜の表面は平滑で、表面硬度はとても硬い。スクラッチテストを行ったが、ダイヤモンド針を押し付けて傷をつけようとしても滑るばかりで一切傷つかなかった。

 ミサイルや戦闘機をぶつければ割れることが判明しているので、耐衝撃テストはまだ行っていない。

 

「で、琴先生はここでどんな調査を?」

 幸田が問いかけてくる。

「私の調査ですか? 簡単ですよ。考えるんです。この場所で」

 

 そして、鏡の前の床に座り込み、目を閉じた。


            ♦︎


 小さい頃、琴はいつも妹の奏と一緒だった。起きるのも一緒、寝るのも一緒、食事もトイレもお風呂も一緒だった。

 

 二歳の誕生日を過ぎてから、琴も他の子と同じように

「なんで? なんで?」

 が始まった。小さな子供なら必ず起こすイベントではあるが、なぜか妹の奏は言わずに琴だけが

「なんで? どうして?」

 と質問を繰り返してきていた。


 ある日、景にその矛先が向いた。

「おにいちゃん、なんでひこうきってそらとぶの?」

 この時、景は五歳。すでに完璧に拗らせた飛行機ヲタになっていた。

 紙と鉛筆を用意して、大人が読むような航空工学の本を積み上げて

「よし、お兄ちゃんが教えてやるぞ!」


 再度言うが、琴は二歳である。景は五歳である。

「……翼にあたる風が揚力を……」

「……ベルヌーイの定理が……」

「……熱力学の第一法則……」

「………」

「ふぉぉぉぉおおおお!」

 (おにいちゃんすごい!)

 (とんだ、とんだよこれ、ひこうきとんだよ!)

 (かみなの? おにいちゃん、かみさまなの?)

 (え? 『神は僕じゃ無い、物理学が神さ』って、なにそれかっこいい!)

 この日、琴にとって景は神になり、物理学は神のツールとなった。


 それから、琴は物理学にのめり込んだ。とにかく目についた現象は全部、何が起きてるのか調べ、なぜそうなるのかを考え、計算して過ごしていた。

 

 幼児の脳はどんなに頑張ってもそれほど難しい問題を理解できるはずがない。琴はそれを子供特有の集中力と記憶力で無理やり覆していく。


 琴には双子の妹、奏がいつも付き添っていた。そして、必死に勉強する琴が行き詰まると、必ず奏がヒントを出してくれた。

 

 小学三年生になる頃には、琴は物理と数学と英語だけなら難関大学受験レベルの問題を解いていた。

 

 中学生になる時、琴の神さま『景』が寮生活するために家を出ることになった。

 

 明日から家には神がいなくなる……ならば神に近づくために、神のツールをもっと使いこなしてみせる!

 琴はますます物理学にのめり込んでいった。


 物理の世界を突き詰めていくと、だんだんと、ただの数学に近づいていく。そして、数字の壁を乗り越えた場所には哲学が鎮座している。

 

 ただただ、頭を搾り、世界の理に同化していく没入感、そして悟り。もっとこの世界のことを知りたい……琴は理論物理学の世界に進み、国内外で高い評価を得られるようになっていった。


 沢井琴は背が高い。どのぐらい高いかと言うと、神であるお兄ちゃんよりも背が高い。

 身長174センチ。奏と双子コーデすることも多く、ハイヒールを履くことも少なくない。

 

 沢井琴は華奢に見える。写真だけ見たら折れそうな儚げな雰囲気を持っている。実物を目の前にすると高身長のために儚げな雰囲気は吹き飛ぶことも多いが、細さの印象は変わらない。

 

 沢井琴は綺麗だと言われることは多いが、可愛らしいと言われることは稀である。

 吊り目がちでスッキリした目、薄めの眉、綺麗なカーブを描く鼻梁、あまり主張しない鼻、ふっくらとした下唇。目つきがキツく感じるのか、中学時代には『かわいい』と言われることがなくなっていた。

 

 もっとも、妹の奏も全く同じ顔なのに、なぜか『かわいい』と言われているのが納得出来ない。

 髪は黒髪ロング。完全に奏の趣味であった。切ろうとすると泣かれるので、いつも肩甲骨下まで伸ばしている。


          ♦︎


 ゆっくりと目をあけた。虹色鏡の前にきて、すでに二時間が経過していた。

 

「うーん、既知の物理法則での説明は難しそうですね。さて、どうひねくりかえしますか……」

 琴は振り返り、幸田に声をかける。

「一度戻りましょうか。あらかた感じは掴めた気がします」

 立ち上がってから、床に座っていた部分をパンパンとはたく。

「次の四国沖の鏡に行くのが楽しみです」

 そして、とても魅力的な笑顔を見せた。

 四国沖の鏡、それは琴の神を連れ去った鏡である。

 

 四国沖にメガフロートが出来上がる頃には、虹色膜についての理論論文を書き上げていた。提出先は政府機関なので査読がつくことはないだろうが、皆の理解の一助になればそれで良いと考えている。


 あの日からちょうど三年が経過した。そして、いよいよ四国沖鏡へ向かうことになった。

 

 

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