第6話 二人は一人
沢井
人間の子供は生後最初の三ヶ月で『自分に体がある』ことを覚える。そして生後一年ほどをかけて『自分』と『それ以外の人』が違うことを認識する。二歳になる頃には鏡の自分と他人を識別することもできるようになる。
奏は二歳を過ぎるまで、琴と自分を完全に同一の存在だと感じていた。琴は奏であり、奏は琴であった。
二歳をすぎた頃から、琴が何にでも
「なんで?なんで?」
と疑問を持つようになった。
そして、奏は悩んだ。
「なんでおみずのくるくるすると、おみずでるの?」
(え? 何かわからないことある? え? 私、これわからないの? 水道のくるくるのとこ、おそらくらせんがあって、つうろが広がってお水ながれるんだよね…)
この時はまだ奏は琴で、琴は奏であった。
決定的になったのは、琴が兄に疑問をぶつけた時である。
「おにいちゃん、なんでひこうきってそらとぶの?」
(え? あれだけおっきな羽根に風があたればすごい力になるよね? ひこうきとか、みためスカスカだし、飛んでもおかしくないよね)
そして、琴と一緒に兄の出してきた資料を読んでいて理解する。
(わたし、ことじゃないんだ……こともわたしじゃないんだ……)
(やだ……わたしはことがいいの。ことといっしょがいいの。わたしはことになるの)
この日、奏にとって琴は憧れのプリンセスになった。
琴は物理学にのめり込んだ。必然的に奏も物理を勉強する。そして、奏の異常性が周囲に発覚した。
天才。それも並の天才ではなかった。記憶力、理解力、思考力、反射、運動、どれをとっても完全無欠の能力を発揮した。
両親は奏を英才教育の専門家に預けることまで考えたが、奏の拒絶反応が凄まじかった。奏は琴から離れる気なぞ、一ミリも持っていないからだ。
小学校に入っても、奏は琴にベッタリだった。三年生のクラス替えで教室が別れた時、始業式から二週間ぶっ続けで、琴のクラスの前で号泣を続け、ついにクラス編入を果たした。
こうして、学校ではアンタッチャブルな児童として高成績を納め、スクスクと成長していった。
保育園の年長さんの頃、兄が習っている剣道場に琴も通いたいと言い出した。当然奏もついていくことになる。
剣道を習い始めると、当然ここでも有り余る才能を発揮した。奏としても、これは琴を守るために役立ちそうだと真剣に稽古を続けた。
景も琴も中学三年で道場を辞めたが、奏だけはその後も続け大学卒業後に竹刀を置いた。最終段位は五段になっていた。
インターハイベスト16、全日本学生剣道選手権四位の記録も残している。
小学生からは、琴の希望で体操クラブにも通った。柔軟性、体幹強化、筋強化、バランス感覚、身体制御、反応向上、距離感、全てが剣道にも役立ってくれた。
また、学校の制服のままタンブリングで側転からのバク転バク宙を披露したりすると、老若男女問わず人気者になった。
実は琴も同じことができるのだが、制服のスカートでやる勇気はない。奏が披露するのを恥ずかしそうに眺めているだけであった。
中学に上がる時、兄が家を出て寮生活をすることになった。
当然琴は荒れた。それはもう、ひどく荒れた。琴が兄のことで荒れると、それを宥められるのは奏だけしかいない。なぜなら、奏は琴だったから。
琴が兄に向ける感情を正確に理解しているのは奏だけである。
両親はひどいブラザーコンプレックスだと思っている。学校の友人たちには、『許されない恋』扱いされていたりする。しかし、その実態は神とその信者でしかない。
琴が兄を否定することは決してない。そして、奏が琴を否定することもない。したがって、奏は兄を否定できない。
兄が家を出る……それは、奏の心にも多大な影響を及ぼした。
高校も、当然琴と同じ学校を選んだ。さすがに小学生の頃のように、クラスが違ったからと言って大泣きしたりはしなかったが、休み時間ごとに必ず遊びに来るので、限度を知らないシスコンとして有名であった。
共学であるため、琴も奏も色々なシーンで男子生徒に告白もされたが、神に仕える巫女ムーブの琴が靡くことはなく、琴しか見てない奏が靡くこともない。
ひたすら物理の勉強を続ける琴と、物理だけでなく他の授業も琴に教えなければならない奏を、遠くから羨ましそうに眺める男子の図も名物となっていた。
琴が進路を定め、帝大受験を決めたのは高校二年の時である。当然、奏の進路も自動的に決まる。
成績的には奏は全く問題なし。琴は理系と英語以外は少々怪しかった。
琴専属家庭教師をしながら琴の生活の世話をし、琴と同じ部屋で眠る。奏は琴であり琴は奏ではない……そんなアンバランスな関係のまま、大学を受験し国立帝国大学理学部に入学した。
大学では、剣道を続ける奏と研究室に入り浸りの琴で少しだけ生活に違いが出てきたが、それでもやはり世間的には『ベッタリ』な二人であった。
大学を卒業すると、琴は博士課程へ、奏は修士課程へと進み、無事に修士を取得。就職も問題なく、この木なんの木で有名なコングロマリットに入り在宅ワークを続けている。
♦︎
琴が鏡の調査に赴いて二週間が経とうとしていた。これほど長く琴と離れていた記憶は、奏にはなかった。もう、今にも心が崩壊しそうになりつつも、あと数時間で会えるならばと気合いを入れる。
「久しぶりなんだから目一杯オシャレしよう!」
クローゼットを開き、服を取り出す。黒のワンピーススーツに黒のタイツ、黒い帽子……奏のオシャレとは、イコール琴のコスプレであった。
メイクも髪型も琴に合わせる。なんなら喋り方も表情も合わせられる。両親にも見分けがつかないのだ。なぜか兄にはバレたが、信仰心の差かもしれない。
迎えのタクシーが来るまであと一時間。母とお茶をしながら帰りの予定の話をする。
四国沖鏡までのルートは、ほぼ琴と同じものであった。百里から木更津、そして四国沖へ。家を出てから三時間でフロートのヘリパッドに到着した。
ローターが停止してからハッチが開く。今日は天気も良く初夏の南の海の、明るい光が差し込んでくる。
「お疲れー」
琴が顔を出してきた。
「あちゃー、奏、そのカッコできたかー」
「だって琴と会うの久々なんだもん。良いべー」
軽く訛りながら上目遣い。二秒で琴は落ちた。
「はいはい、わたしも着替えるよ。挨拶前に宿舎行こ」
二人は手を取り合い、琴の宿舎へと入る。作業着姿の琴が着替えのためにスーツケースを開ける。奏は琴が持っていっていた服を完璧に把握していたため、双子コーデというより鏡コーデにすることができた。
そこから、会う人会う人、挨拶をするたびにみんな固まった。
「え? 鏡? え? 四国沖鏡降りてきた?」
「二人! 沢井博士が二人?」
「ああ、天国はここにあったんだぁ」
変な反応もあるが、概ね思った通りに皆を驚かせることができたようだ。
「はぁ、話には伺ってましたが本当に良く似てらっしゃいますなぁ。これは眼福眼福」
田中教授も何やらご満悦である。
今日、上に上がるのはいつものメンバープラス奏、そして今日は報道関係者も八名が一緒に上がることになっていた。実験用資材を下ろしてあるので、マルチコプターへの負担は普段と変わらない。
研究室に入る前に、事前に取材を受ける。当然メインは琴なのだが、写真は奏と並んだものがほとんどだ。
インタビュー映像も並んで座る。こうなると楽しくなってきて、いつも以上に張り切って琴のふりをする。
時折、レポーターが琴と奏を取り違えて質問するシーンも見られた。
「それでは、お二人はこのあと鏡の前に立ったらどうされますか?」
「はい、お兄ちゃんの帰還を祈願します」
琴の中では兄はまだ生きている。神なんだから死ぬわけないのだ。
「姉の願いを聞き入れない兄を折檻します」
琴が生きていると信じているのだから、兄は必ず生きている。だけど琴を悲しませる兄をそのまま許すわけにもいかない。
ならば折檻だ!
「あ、ありがとうございました。お二人の祈りが届くことを願っております」
何かヤバいものに触れた気がして、女性レポーターがインタビューを締め括った。
いよいよ、姉妹揃って鏡の前へ向かうことになった。
空飛ぶ研究室は見た目もなかなか斬新である。当然奏も興味津々という感じであちこちキョロキョロしている。
「あー、このローター動かしてるブラシレスモーター、うちで作ったばっかのやつだ。ってことはこれのファームウェア書いたのあたしだわ」
むしろ開発者だった。
「おぉ、この
「うっわ、えっろ! なにこの綺麗な溶接! 耐食性チタン合金はチタンの中でも綺麗にするの難しいのに!」
目の付け所がシャ……技術屋であった。
マルチコプターの動作は極めてスムーズだ。いつも通り、全く揺れることもなく高度を上げてゆく。琴はもう慣れたが、奏や記者たちは耳にかかる力をうまくいなせず四苦八苦している。
「耳がー、音がー」
耳を押さえてうずくまったのは、先ほどインタビューをしてくれたレポーターだ。奏も鼻を摘んで色々耳抜きを試していた。そんな中、苦しみながらも無表情に撮影を続けるカメラマンの凄さが目立つ。
「プロってすごい……」
奏がつぶやいた。
高度1,100メートルを超えたあたりで上空に鏡が見え始めた。マルチコプターが速度を緩め始め天井から鏡が降りてくる。
奏の第一印象は
(あ、鏡だ)
であった。なんの捻りもない、見た目だけの感想だ。写真では何度も見ている。動画も色々と見てきた。しかし、実物の印象は(鏡だ)にしかならなかった。
(思ったよりもずっと大きい)
一辺八メートルの正六角形は、正面に立つとものすごい圧迫感がある。対角線長は十六メートルにもなるのだ。
頭では理解していたつもりでも、実際に目にすると驚くほどの大きさに感じられる。
鏡との位置合わせが終わり、マルチコプターが完全に安定した。備え付けのシートに降りてきていた安全バーが上がり、自由に移動できるようになる。
「こちらが『
田中教授がメディア向けに解説を始める。
事故の時、景は一等空尉であったが、殉職したことで二階級特進して二等空佐となっていた。
「その後の調査で、この鏡はなんでも飲み込む不思議な現象を起こすことが観測されました。このあと、実際に飲み込むシーンを撮影していただく時間もとってありますのでご期待ください」
取材で訪れた記者たちがどよめく。そこまで許可が出るとは思っていなかった様子である。
「では、その前に、こちらで殉職された沢井二佐に敬意を表し黙祷を捧げたいと思います」
続いて黙祷の時間が取られていた。
沢井姉妹を先頭に並べ、田中教授とカメラマンが脇による。
琴の護衛も兼ねる幸田は、琴のすぐ後ろに立つ。
「黙祷」
現場責任者である田中教授の呼びかけで、カメラマンを除くメンバーが黙祷をする。
(お兄ちゃんが早く帰ってこられますように)
(兄、早く帰ってこないと折檻が増えるよ)
真剣に祈る全く同じ姿かたちの二人をファインダーに捉えながら、カメラマンはほくそ笑む。
(こんな絵になるもん、一生にそう何度も撮れんぞ……ようし、ようし、そのまま……)
変化が起きたのはその時だった。鏡の表面が膨らみ始め、ケージの鉄桁を飲み込んだ。異変に気づいたカメラマンが声を上げ、数名が目を開けた。
「きゃー!」
女性レポーターの悲鳴が上がった。真剣に祈りを捧げていた琴と奏の反応が遅れた。琴のすぐ後ろにいる幸田は、琴の安全確保のために琴の前に回り込もうとした。
鏡の変化は止まらず、まず幸田が鏡に飲まれ始め、そのまま琴が飲まれる。
「琴‼︎」
奏が叫んだ。
(琴が消えた? ありえない、絶対ありえない! だってわたしはここにいるもの!)
反射的に奏も一歩踏み出し、自ら鏡に飲まれていった。
そのまま膨らんだ鏡は、半球状になったところで変化をやめた。
鏡スレスレの場所に腰を抜かした田中教授が座り込んでいる。同じく腰を抜かした女性レポーターがお漏らしをしてしまい床を濡らしていた。
と、鏡から空気が抜けるような音がし始め、再び平面に戻っていく。数十秒かけて以前と変わらない姿に戻った。
「い、今のは……」
「沢井さん! 沢井さん!」
「け、警報を……すぐ下に連絡を……」
カメラマンはこの状況でもカメラを回していた。三人の人間が鏡に飲み込まれる瞬間の一部始終が映像として残された。
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