病み上がりの令嬢と公爵家の人々 4

「お久しぶりでございます、リディアーヌ様。お加減はいかがですか?」

「ええ、お陰さまですっかり良くなりました。また本日からご指導、よろしくお願いいたします」


 体調が回復しきった翌日から予告通り勉強が再開した。

 スケジュールとしては朝食後に勉強。昼食を挟んで勉強。ティータイムを挟んで勉強。一時間から一時間半の授業が一日に三回行われる。日本の大学はたしか一コマが一時間半だったはずなので、驚くほどハードというわけでもない。

 ただ、授業以外の部分──食事はもちろん廊下を歩く時もマナーの練習をさせられているようなものである。

 この国でも一週間は七日。そのうち日曜日にあたる一日だけが休みで、後の六日間は毎日勉強に充てられる。リディアーヌが暴れる気持ちもわからなくはない。


「では、これまでのおさらいから始めていきましょう」

「はい」

「教本の十八ページから始めます。ページを開いて三行目を見てください」


 勉強は大きく分けて三種類。座学と実技、そして芸術だ。

 座学では教本を用いて読み書き計算を始めとした様々な知識を修得。実技は礼儀作法やダンスなどを実戦形式で。これらはそれぞれ一人の教師が担当し、残る芸術──歌や楽器、裁縫などは個別に教師がつく。

 一対一なので授業は俺に合わせて進んでいく。多少は待ってもらえるということであり、理解しないと話が進まないということでもある。なので気を抜く暇がない。

 ドレス姿で背筋を伸ばし、ペンとインク壺を使ってメモを取りながら、小学校から高校まで十年以上「座って授業を聞き続けて」きた経験を活かしてついていく。新しいことの連続に四苦八苦し、教師が終了を告げた時には思わずほっと息を漏らしてしまった。


「リディアーヌ様、本日は真面目に話を聞いてくださって助かりました。この調子で進めていくことができれば、勉強の遅れも早いうちに取り戻せるでしょう」


 休み明け最初、座学を担当した初老の平民女性は驚きつつそう言ってくれた。

 俺は彼女へ「これまではご迷惑をおかけしました」と謝る。


「亡き母に顔向けできる立派な令嬢になれるよう、精一杯努めていきたいと思っております」

「まあ、それはそれは。でしたら、シャルロット様と机を並べる必要はないかもしれませんね」

「え?」


 勉強がこれ以上遅れるようなら姉妹揃って勉強しては、という話が出ていたらしい。

 誰かと競い合った方が勉強は捗る。方法は間違っていないし教師としても一石二鳥だが、十中八九、セレスティーヌの嫌がらせだろう。

 姉の立場からしたら妹に追いつかれるのは屈辱。不快な気持ちになって捗るはずがない。余計に不貞腐れた結果、シャルロットに追い抜かされる未来が見える。


「あの子にも迷惑はかけられませんもの。心を入れ替えたつもりで頑張ります」


 午後の授業は実技。こちらは中年の貴族女性が担当だ。礼儀作法等は同じ貴族に教わるのが一番ということで、子育ての一段落した夫人が務めることが多いらしい。

 確か、この教師は伯爵夫人だったか。

 彼女は「ごきげんよう、リディアーヌ様」と挨拶をすると、さっそく本題へと入ってきた。


「奥様より『歩き方の乱れが気になる』と相談を受けております。まずはそちらから確認させてくださいませ」

「かしこまりました。よろしくお願いいたします」


 公爵と伯爵では身分が違うが、学びの場における教師の権力は強い。公爵夫人である養母の依頼ということもあって指導は厳しかった。

 部屋の端から端まで真っすぐ歩くという単純な課題でさえ何度もやり直しをさせられる。また、その度に「もっと顎を引いて」とか「歩幅は一定に」「歩調が速いせいでスカートが乱れています」と指摘が飛んでくる。

 男子高校生としての経験は役にも立たない。

 逆に男のプライドを削り取られ、令嬢らしい仕草を刷り込まれていく。下手に抵抗すれば逆に辛くなると悟るのに時間はかからなかった。

 そうして「往復し、最後に一礼する」ところまで課題が進んだところでタイムリミット。


「よく頑張りましたね」


 疲労とストレスでいっぱいいっぱいになった俺の耳に教師の言葉が飛び込んでくる。

 さっきまで駄目出しの嵐だったのに何を言っているのか。

 驚いて見上げれば、「心外だ」とでも言いたげな表情が返ってきた。


「この時間、必死に努力されていたのはわかりました。努力と成果はきちんと評価するのが当然のことです」

「……わたし、先生から褒められた記憶がないのですけれど」

「あら、リディアーヌ様。不真面目で出来の悪い生徒を褒めることはできませんわ」


 この教師は以前からとても厳しかった。

 なので、リディアーヌは彼女のことをかなり嫌っていたのだが──『何よそれ!? もうちょっと手加減しなさいよ!』。うん、方針には納得だが、スパルタにも程があるだろう。俺はため息を吐いて苦笑を浮かべた。


「家庭教師なんて、理不尽に生徒を叩く方がいてもおかしくないもの。先生はとても公正でお優しい方です」


 教師はにこりと微笑んで、


「ありがとうございます。ではリディアーヌ様。せっかくですのでお茶をご一緒させてくださいませ。多少なりとも打ち解けてくださったようですので、もう少し仲良くなれればと」

「ええ。そういうことでしたら是非」


 了承したら、休憩のはずのティータイムにテーブルマナー指導が始まった。





「……もう疲れた。明日からもこんなのが続くなんて信じられない」


 思い切り弱音を吐きながらベッドに倒れ込む。

 夜のルーティンも終わり、後は寝るだけという時間。はしたなくうつ伏せになっても、それを目にするのは専属になったアンナだけだ。

 その少女は魔法の明かりが灯るランプを手にくすくすと笑って、


「お疲れ様でした、リディアーヌ様。とても頑張っていましたね」

「ありがとう、アンナ。あなたも慣れない仕事で疲れたんじゃない?」

「いいえ。昨日もぐっすり眠れましたし、むしろ元気なくらいです」


 専属使用人には主人の部屋に隣接する個室が与えられる。

 一般使用人用の二人部屋から昨日のうちに移ってきたアンナは、新しい部屋は広くてベッドもふかふかだと教えてくれた。


「おまけに一人部屋ですからね。最高です」

「あら。もしかして、同室の子の寝言がうるさかったとか?」

「寝言ではないんですけど……その、ジゼル先輩は自慢話が多かったんですよね」


 ごろん、と、仰向けになりながら尋ねれば苦笑交じりに答えてくれる。

 自慢話が多い上に仕事を押し付けてくるとは、完全に嫌な先輩である。


「あっ。今の、誰にも言わないでくださいね?」

「言わないわ。わたし、アンナに嫌われたくないもの」


 笑って答えてから、部屋と言えば、と疑問を口にする。


「学園って寮制なのかしら? だとしたら、わたしもいじめに遭うかも」

「私もいじめられてはいないんですが……。確か、学園は通いも許されていたはずですよ。お屋敷から馬車で行ける範囲ですから、リディアーヌ様は心配ないかと」

「そうなのね、良かった」


 ほっと息を吐く。

 まあ、俺の場合はいじめっ子の方が似合うだろうが。嫌味な公爵令嬢とか確実に悪役である。


「寮生活でも私は羨ましいです。我が家には女子を通わせられるほど金銭的余裕がありませんでしたから……」


 アンナは十五歳で働き始めて現在二年目。

 低い家柄の場合、学園へ通う子を選別することも多いらしい。そしてその場合は男子優先になる。家を継ぐのも政治に携わるのも基本的には男子の務めだからだ。

 学園に通えた場合も、多くの女子は良縁を見つけることを目指す。女にとって一番の仕事は丈夫な子供を産むことで、知識や才能を活かすことは二の次なのだ。

 前世の常識とはずいぶん違うが、特別珍しい話ではない。日本の戦国時代だってこういう価値観だった。納得できるかは別として。


「……なら、わたしが連れて行ってあげる。専属なら一緒に学園へ行く機会もあるでしょう?」


 憂鬱な想いを吹き飛ばすように明るく言えば、アンナの表情もぱっと輝いた。


「はいっ。そうできたらとても嬉しいですっ」


 頑張って勉強しなければいけない理由が増えてしまった。

 専属メイドと約束を交わした俺は、英気を養うためにも休むことにした。アンナに「お休みなさい」を言って目を閉じる。姉のような存在になりつつあるアンナ。照明を消してドアを閉じた彼女が帰るのは、これまでと違い、呼べばすぐ駆け付けられる場所だ。

 近くに人がいるというのは、まだ子供に過ぎないこの身にはとても嬉しいことだった。





 勉強漬けの日々が慌ただしく過ぎて。

 二週間が過ぎる頃には俺の変化は確定的なものと認められた。


「まさか、リディアーヌ様がこれほど協力的になってくださるとは」

「これだけ出来るのなら、もっと早くやる気を出して欲しかった」


 教師たちは好機を逃してなるものかとばかりに力を入れて授業を進行。

 俺の方もこの世界の学問に少しずつ慣れて能率を上げられるようになっていく。


『もう少し、日本あっちの記憶が役に立てば良かったんだけどね』


 生憎、前世の経験がほぼそのまま役立つのは計算くらいだった。

 語学や歴史、地理などは完全に覚え直し。後は芸術科目──音楽や美術が辛うじて役に立つ程度。ダンスやテーブルマナーなんてまともに習ったことすらない。

 前世も女子だったならもう少し便利な知識を覚えていたかもしれないが、女子だったらあんな人生ぜんせになっていない。

 まあ、それでも以前よりは断然マシ。

 勉強の遅れは徐々に減っていき、むしろ余裕を作れるのではないか、と言われるように。

 教師たちが遠慮なく知識を詰め込んでくるので毎日いっぱいいっぱいだが、授業のある日でも庭に散歩に出られるくらいにはなった。


 勉強が捗るにつれて養母からの小言も減少。

 苦手な食べ物も克服中なので、以前に比べて食事の時間もかなり快適である。

 これでもっと楽な──箸でどんぶり飯を食らうようなメニューになってくれれば万々歳なのだが、まあ、さすがにそれは無理な話。

 父も俺が真面目になったせいかかなりご機嫌で、


「リディは将来きっと素敵なレディになるな」


 などと臆面もなく言ってきたりする。

 なのでつい「もちろん。そしてお父さまより素敵な旦那様を見つけるわ」なんて返答したら急に涙目になってしまった。アランとシャルロットが「なんとかして」と目で合図を送って来るので、埋め合わせも兼ねてあざといくらいに甘えておいた。


「まだ先の話じゃない。それに、もしお嫁に行ってもお父さまの娘なのは変わらないのだから。ずっと愛しているわ、お父さま」


 少しずつ順調に向かい始めている。

 一気に大活躍とはいかないが、悪女との直接対決なんて頻繁に起こらない方がいいのである。今は力を蓄えるためにも勉強に精を出したいところ。

 ならば予習や復習も欠かせない。

 そんな風に考えていた二週目の休日にて、俺は思いもよらない、そしてなかなかに衝撃的なイベントに遭遇することになった。


「お前がリディアーヌ・シルヴェストルか? ジャンが家から出したがらないと言うからどんな不細工かと思えば、なんだ、まあまあ悪くない顔をしているじゃないか」


 入りの上等な服を着た小生意気なクソガキ──もとい、高貴なお子様が突然押しかけてきた挙句、こちらに喧嘩を吹っかけてきたのだ。

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