妹令嬢と不安な日
「お母様、本当に何かが起こるのでしょうか?」
シャルロット・シルヴェストルは食堂の定位置へ腰かけたまま、隣に座る母──セレスティーヌへ尋ねた。
時刻はおやつの時間を過ぎたところ。今日はできるだけ家族一緒に過ごそう、ということでシャルロットとセレスティーヌ、それから兄のアランが集まっている。
書き物をしていた母が手を止めて振り返る。いつも通りの優しげな微笑み。
「心配ありません。万が一、何かが起こったとしても貴女達の事は必ず守ります」
「っ」
一瞬、息が詰まりそうになった。母の返答はつまり、普段よりも「何かが起こる可能性」を高く見積もっているということだ。
(でも、起こるとしたら一体どこで……?)
ちらりと窓の外、冬の静かな空へと目をやり、ここにいない父と姉の事を想う。
ジャンは城で執務中、リディアーヌは学園の卒業式および卒業記念パーティーに出席している。それだけ聞くと危険とは無縁に思えるものの、実際は片や有事に備えて待機、片や危険かもしれない場所に飛び込んでいった状態だ。
はあ、と、息を吐く。
屋敷内の主要な場所は暖炉や暖房の魔道具によって快適に保たれている。そのため、吐いた息も白くなったりはしない。しかし、リディアーヌ達はどこかで寒い思いをしているかもしれない。
魔法を覚えて以来、風邪で臥せった事もないリディアーヌなら寒さも軽く吹き飛ばしてしまうかもしれないが。
「お姉様は本当に凄いです」
この一年、何度も繰り返してきた言葉。
リディアーヌは天才だ。類稀な魔法の才を持ち、公爵令嬢としての勉強も疎かにせず、さらに服飾業にも貢献し、剣術まで習い始めている。
《紅蓮の魔女》。
対立派閥の令嬢から広まったとされる異名。師である《漆黒の魔女》を連想させた上で良くない印象を与えてくる。本人もあまり好きではないと言っていたが、彼女は知っているだろうか。畏怖と尊敬を籠めて魔女の名を用いる者が増えているのを。
あれはしばらく前の事。
親しい友人達とのお茶会の際、リディアーヌに対する嫌がらせが話題になった。姉が一部から嫌われているのはシャルロットも知っている。何かされる度にやり返している事も。ただ、具体的に何をされて何をしたのかはあまりよく知らない。
『面白い話ではないし、食事の席で言うこともないでしょう?』
と、父や母に個別で報告をしているからだ。
まあ、姉がドレスを駄目にしたとか泣いて帰ってきたとかそういう事はなかったので、大した事はないのだろうと思っていたのだが。
『屋外でのお茶会の際、リディアーヌ様のお傍に蛇が出たとか』
『会食形式のパーティーで食事に虫が入れられていた事もあったそうです』
次々と出てきた話題に「ひっ」と声が出そうになった。想像しただけで恐ろしい。現実にそんな事が起こったら泣いてしまうかもしれない。そこまで行かなくともパニックになって冷静な対処なんてできないだろう。
しかし、リディアーヌは動じなかった。
何かの魔法で蛇を眠らせると使用人につまみ出すよう指示を出し、虫入りの料理へ手を付けることなく「好みではないから」とやんわり下げさせたらしい。
その際、「運が悪い」「好き嫌いは直すべきでは」と殊更嘲笑った令嬢は植物の蔓に足を取られて「蛇だ」と大騒ぎをし、粒の大きなコショウを虫と見間違えて使用人をひどく叱責したとか。
『まさか、お姉様が魔法で……?』
『証拠はありません。元を正せばリディアーヌ様の被害も作為的なものでしょうから、深堀りされる事はまずないでしょう』
『受けた被害と対処の差を見ても、どちらの器が大きいかは一目瞭然です』
本物を前に動じなかった令嬢と、見間違いで大騒ぎした令嬢。局所的な正しさなど簡単に覆ってしまうのが貴族社会ではあるが、だからこそ、どちらに付いた方が得策かという打算も加わる。
リディアーヌが殊更に正しさを振りかざす人間ならもっと反感があったかもしれない。
受けた仕打ちに対して「目には目を」でよりスマートな嫌がらせを返す彼女のやり方は常に正しく在れるとは限らない貴族達にとってむしろ受け入れやすかった。
シャルロットは自分の知らない姉の活躍(?)に感嘆すると共に、絵に描いたような嫌がらせに僅かな寒気を覚えてしまう。
『私も気を付けなくてはいけませんね』
姉のようにはいかなくともせめて動じないように……と。
『ご心配なさらなくとも、シャルロット様に悪意を向ける方はまずいませんわ』
『え? ……あの、それは何故でしょう?』
『もちろん、セレスティーヌ様とリディアーヌ様がいらっしゃるからですわ』
シャルロットの交友関係は母セレスティーヌの知人・友人から娘や従兄妹へと繋がったものだ。つまり親の派閥がそのまま適用されていると考えていい。下手に手を出せば公爵夫人の派閥が黙っていない、という暗黙のプレッシャーがある。
そして「友人をいじめたら泣かせる」と公言して止まないリディアーヌの存在。養母の派閥を引き継ぐ事なく独自の派閥を広げ続ける彼女は自身よりも身内への攻撃に反応する。よりによって妹であるシャルロットを狙う馬鹿はいないと言う。
『私がいじめられたら、お姉様が助けてくださるのですか?』
『ええ。もちろん私達もお助けいたしますが……』
『リディアーヌ様が動かれるのであれば過剰になってしまうかもしれませんね』
その後、シャルロットは姉に尋ねてみた。
『お姉様は、私がいじめられているのを見たらどうなさいますか?』
自分でも馬鹿な事を聞いたと思う。試すような真似自体が恥ずかしいし、もし思ったような答えが返って来なかったらと思うと恐ろしくなる。
だというのに、リディアーヌはなんでもなさそうにこう答えた。
『もちろん、倍返しよ』
「リディアーヌは悪い見本ですから、参考にしてはなりませんよ」
母の声でシャルロットは我に返った。
気づくとアランも気づかわしげな表情でこちらを見ていた。大丈夫だ、わかっている。微笑みながらこくん、と頷く。
姉と同じ事をしようとするのはもう止めた。この一年、自分なりに自分の出来る事を探してきたつもりだ。その結果、今のところは「母のようになる」というごく普通の目標しか見えていないが、リディアーヌのように積極的な開拓に向いていないシャルロットはせめて与えられた事をしっかり吸収しようと務めている。
その上で敢えて言うのなら、
「お母様。女性は危機に陥った際、どうやって身を守れば良いのでしょう?」
「一番は自ら対処しなければならない状況に陥らない事です」
自分の身に危険が迫るかもしれない。そんな実感からあらためて浮かんだ疑問に、セレスティーヌは端的な回答を返してきた。
「あらかじめ護衛を用意しておく。危険と思われる場所には近づかない。危険が迫った際には迅速に退避する。まずは基本を徹底する事です」
「女性を守るのも男の仕事だからね。護衛やメイドだけじゃなくて周りにいる男だってシャルロットを守ってくれるはずだよ」
日に日に男らしく格好良くなっていくアランが斜め向かいの席から微笑んでくれる。彼は「念のために」と腰へ剣を下げている。訓練でも滅多に使う事のない真剣だ。自らが言った通り、何かがあれば父の代わりにシャルロットやセレスティーヌを守ってくれるつもりなのだろう。
残念ながら、一番守られるべき
「お姉様が女性でも剣術を、と仰ったのが今は少しわかる気がします」
呟くとセレスティーヌが眉をひそめ、アランが苦笑を浮かべた。
「シャル。本当に止めた方がいいよ。リディは言っても聞かないから仕方ないけど」
「どうしても護身が必要なのであれば魔法を訓練しなさい」
「魔法、ですか」
それもリディアーヌの領分だが、母の言い分が正しいのもわかる。魔力は女性貴族の方が男性貴族よりも高くなりやすい。それに、魔法は剣と違ってドレスを着ていても道具の用意がなくとも使用できる。女性が身を守るのにはもってこいだ。
ただ、シャルロットにはまだ魔法が使えない。
「……早く魔法が使えるようになりたいです」
「魔法の目覚めには個人差があります。焦ってはいけませんよ」
「そうだよ、シャル。僕だって十歳になってからだったし、遅い子の方が優秀になりやすいっていう話もあるんだ」
「はい。わかってはいるのですけど」
姉のリディアーヌが魔法に目覚めたのは今のシャルロットより年下である八歳の時だ。わかっていてもついつい焦れてしまう。
魔法が使えるようになれば。
今の無力感からも少しは解放されるのだろうか。何しろ、今のままのシャルロットでは何かあった際に守ってもらうことしかできない。
屋敷には警備の兵や魔法の使えるメイドがたくさんいるので心配ないとは思うものの──もし、この食堂に何者かが飛び込んできたら? アランが剣で立ち向かい、セレスティーヌは魔法で応戦するだろう。
(……私も)
膝の上でぎゅっと手を握る。すると、母の手がその上に重ねられる。驚いて顔を上げれば、セレスティーヌはにっこりと微笑んでくれる。
「大丈夫ですよ、シャルロット。貴女にも必ず目覚めの時は来ます」
「シャルは母上の娘なんだ。きっと立派な魔法が使えるようになるよ」
「はい。ありがとうございます、お母様、お兄様」
波立っていた気持ちが落ち着いていく。シャルロットは笑顔を浮かべると深呼吸をした。それからあらためて母の手の温もりを意識して、
(あれ?)
どことなく違和感を覚える。母の体温、息遣い、肌の感触。どこがどうとは言えないものの、なんとなくいつもと違う気がしたのだ。
見れば、顔色も少し良くないような。
「あの、お母様。もしかして体調が悪いのではありませんか?」
「え?」
驚いたようなセレスティーヌの顔。誤魔化されたくはない。そのままじっと見つめていると、やがて観念したようなため息。
「母上。指揮の仕方は私も父上から聞いています。辛いようでしたらお部屋に戻っていただいても──」
「いいえ、アラン。大丈夫です。休む程の事ではありません」
「本当ですか、お母様?」
「ええ」
頷いたセレスティーヌはゆっくりと、そして内緒話のような声音で口にする。
「食欲が少し落ちているのと、不定期に不快感がある程度です。風邪ならば薬を飲めば治りますが、これは病ではないでしょうから」
「それって……」
もしかして。
シャルロットの脳裏にある一つの事柄が浮かんだ。それは確かに病気ではないし、休んだところで根本的に良くなる事はないだろう。
おめでとうございます、と声を上げたくなるのを堪えて母の顔を見上げる。気持ちが溢れて笑顔が強まってしまっているのはまあ、仕方ないだろう。
「お母様、お医者様には?」
「近いうちに診察をお願いする予定です。あまり早いと判断もつきかねるそうですからね」
「判断……そうか。母上……!」
「まだ何とも言えませんから、他言無用でお願いしますね」
遅れて理解するアラン。すかさず口止めをするセレスティーヌ。その指示は控えていたメイド達にもしっかりと伝わり、一人残らず「はい」と返事があった。
兄もまた神妙な顔をして「お大事に」と言った。めでたいことなのだからもっと喜べばいいのに。それとも、笑顔を堪えようとしてあんな顔になったのだろうか。
(お姉様は、どんな顔をなさるでしょう?)
想像しようとしたら、何故か露骨に顔をしかめるリディアーヌの姿が浮かんだ。母と姉は未だに仲直りをしていないらしい。時々、シャルロットやアランがぽかんとしてしまうほどぴったりと呼吸を合わせたりするのだから、もう変なわだかまりは解いてしまえばいいのに。
(お姉様、か)
これからはもっと頑張らなくてはならない。
一家の末っ子として甘えるだけではなく、自分の家族の力になれるように。
胸に力が湧いてくる。ぽかぽかとどこか温かい光。それは空が暗くなって父や姉が帰ってくるまでの間、シャルロットを勇気づけてくれた。
その夜。
就寝中のシャルロットが身体から光を放っているのを専属メイドが発見し、ちょっとした騒ぎになった。
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