病み上がりの令嬢と公爵家の人々

 寝室のドアが叩かれる音で目が覚めた。

 窓から射しこむ光の色はそれほど大きく変わっていない。入室してきたアンナは、俺が目覚めているのを見て申し訳なさそうな顔をする。


「お嬢様。奥様がお見舞いにいらっしゃいました」

「……通してちょうだい」


 ため息交じりに答えて身を起こす。

 軽く寝間着の乱れを直したり髪を整えているうちに、一人の貴婦人が寝室へと入ってくる。その後ろには彼女の専属メイドとアンナが続いた。

 新緑のような碧色の瞳が真っすぐに俺へと向けられる。

 歳は二十代半ば。金髪の眩しい儚げな美女の名前はセレスティーヌ・シルヴェストル公爵夫人。清楚な白いドレスの裾をかすかに揺らしながらベッドから二、三歩の距離で立ち止まると、優しく声をかけてくる。


「だいぶ良くなったようですね、リディアーヌ」

「はい、お養母さま。熱はすっかり下がりました。ご心配をおかけして申し訳ありません」

「そう、それは良かった」


 おっとり微笑むセレスティーヌは一見、少女のように純粋に見える。父との結婚はお互い再婚だったので、これでも出産経験済み、立派な子持ちだ。


『心配ね。笑っちゃうわ。心配していたのなら、今頃になってお見舞いになんか来ないでしょうに』


 俺の病状はメイドから逐一報告を受けていたのだろう。

 回復した後なら伝染る心配は少ないから来たのだ。それでもなお警戒しているのも距離感から伺える。


「無理はしないように。きちんと治るまでは部屋でじっとしていてくださいね」


 他の家族には伝染すな、と念押すような言葉に「はい」と答える。

 これまでなら既に嫌味の一つや二つは言っているところ。しかし、養母の言葉自体はいたって常識的だ。無駄に反発すれば悪者になるのはこっちの方である。

 腹立ちを堪え、掛け布団の下に隠した手にぎゅっと力をこめる。

 僅かな間があった後、セレスティーヌは専属メイドの名前を呼んだ。丁寧に差し出された小袋をアンナが慌てて受け取る。使用人を介して俺に手渡されたそれは、乾燥した花やハーブ入りの匂い袋サシェだった。


「お大事に」


 去っていく養母を黙って見送り、再びベッドへ横になる。若干癪ではあるものの、ほんのりとした優しい香りが眠りにつくのを助けてくれた。





 食事の他はひたすら眠る一日を経て、次の日の朝にはだいぶ体調が戻っていた。

 窓の外からは今日も明るい光が射しこんでいる。俺はベッドの上で伸びをしてから床へ下り、カーテンを払って外を覗いた。

 気持ちのいい青空。

 芝生や噴水、花壇を備えた公爵家の庭が陽光によってきらきらと輝く。こんな日に散歩をしたらさぞかし気持ちがいいだろう。


『ええ。お母さまがいた頃はよく一緒に散歩したわ』


 セレスティーヌからは一度も散歩に誘われていない。

 お茶会の誘いはたまにあるが、参加しても話しかけられるのは兄と義理の妹ばかりだった。何度かそんなことを繰り返してからは誘われても断るようになり、溜まったストレスは使用人への八つ当たりという形で晴らされることになった。

 前世における姪っ子を思い出す。

 彼女の母親──俺の姉の態度を真似するせいで呼び捨ては当然、遊んでとしきりに呼びかけてくるわ、やんわり断ると泣き出すわ。すると姉に俺が怒られ、姪っ子はさらに増長する。親が思う以上に子供はその影響を受けているものなのである。

 遠い目になったところでノックの音。振り返れば、入ってきたのはアンナだった。朝の挨拶と体調確認を済ませた後、今日の予定を告げられる。


「奥様より、本日も部屋で休むようにとのことです」

「そう。なら、本でも読んでいようかしら。それと、さすがにお風呂に入りたいわ」

「かしこまりました、手配いたします」


 着替えの応援に来たのは昨日とは別の若いメイドが二人。

 朝食は昨日よりも豪華になった。スープはしっかり具入りだし、二口分ほどのチーズが付いている。デザートにはアンナがりんごを剥いてくれる。

 ベッドから解放されるためにももちろん完食を──と、


『何よこれ。ニンジンが入ってるじゃない!』


 スープの中にオレンジ色をした根菜を発見。

 リディアーヌは好き嫌いが多い。料理に少しでも入っていただけでも取り替えさせるのが平常運転だ。勿体ないことこの上ない。

 俺は悲鳴を上げる自意識を押さえてニンジンをぱくり。思った通り甘くて美味しい。偏食の大部分は忌避感が原因だ。前世の俺は普通に食べていたので抵抗は薄い。食べて美味しいのがわかるとぎゃーぎゃーうるさい女の意識も黙った。


「お嬢様がニンジンを……!?」


 驚愕の表情を浮かべたアンナが「後で報告しないと」と呟くので思わず苦笑して、


「大袈裟よ。好き嫌いもなくしていこうと思っただけ」

「では、次はセロリに挑戦しませんか?」


 嬉々として薦められた俺は「う」と小さく呻った。それは前世でも苦手だった食材である。


「……ごめんなさい。セロリはもう少し時間をかけさせて」


 せっかく格好をつけたのに、なんとも締まらないオチだった。

 食事が終わるとほっとひと息。昨日たっぷり眠ったので眠気はあまりない。椅子に座って食休みをしているうちにアンナは食器を片付け、それからまた戻ってきた。

 どうやら今日も彼女が俺の担当らしい。

 父も養母も、それから兄も義妹も専属の使用人を持っているが、俺に専属はいない。どうして俺だけいないのかと言えば、まあ、我が儘娘に仕えたいと思うメイドがいなかったのだろう。着替えの時のメイドも事務的で情は感じられなかった。


「ねえ、アンナ? もしかして、わたしの世話を押し付けられたんじゃない?」

「えっ、いえ、あの、それは」


 こちらをちらちらと伺いながら動いていた少女メイドは明らかな動揺を見せた。

 誤魔化すように視線を逸らしたりもしているが、正直、ちっとも上手く行っていない。怒ることはなく、むしろ微笑ましいと思いながらじっと見つめていると、やがて観念したように教えてくれる。


「今日のお世話係を代わって欲しい、って、ジゼル先輩から頼まれました」

「そう、ジゼルに。……もしかしていじめかしら?」

「い、いえ、そんなことは!」


 今度は意外にしっかりとした否定。


「私は去年入ったばかりで、お屋敷のメイドの中で一番若いんです。実家も男爵家なので、仕事が多く回ってくると言いますか……仕事を早く覚えられる分だけ忙しいと言いますか」

「なるほど、ね」


 公爵家ともなるとメイドも貴族出身者であるのが当たり前だ。

 男爵は貴族階級の中で最下位なので、アンナは下に見られているのだろう。いじめではないにしてもパワハラである。


 ──同僚である以上、身分差は関係ないだろうに。


 とはいえ、俺が言えたことではない。契約社員の学歴カーストに社長令嬢が文句をつけるようなものだ。お前に何がわかる、と余計に反感を買ってしまう。


「余計なことを聞いてごめんなさい」

「とんでもありません」


 アンナはふるふると首を振って、


「そう言っていただけるだけで十分です。それに、今のお嬢様はとてもお優しいですから」

「本当?」

「はいっ。このままでいてくださると、私はとても嬉しいです」

「……アンナは正直ね」


 明るい笑顔に胸がきゅん、と、締め付けられるのを感じた。俺なんかには勿体ないくらいの良い子だ。真面目すぎて損をするタイプ。こういう子と前世で仲良くなれていたら、それだけで救いになっただろうに。


「ありがとう。できるだけ手がかからないようにするから、よろしくね」

「はい。こちらこそよろしくお願いします、お嬢様」


 とりあえず、暇つぶし用の本を一冊選んでくれるようにお願いすると、アンナは笑顔でそれに応じてくれた。





 アンナとの距離を縮めたのは今後の活動をやりやすくするためでもある。

 悪役令嬢を潰すと決めた俺だが、女性社会の戦いは殴り合いでは決着をつけられない。必要なのはもっと複雑で曖昧な「力」だ。

 知力に権力、財力、気品や話術、知識、礼儀作法、芸術的センスetc……。

 中でも最重要に近いものに「味方の多さ」がある。誰でも一度くらいあるのではないだろうか。正しいことを言っているのに周囲からの理解が得られず悔しい思いをした経験が。喧嘩になった時に勝者を決めるのは正しさではなく周囲のジャッジ。そのために味方が必要になるのだ。


 現状、リディアーヌ・シルヴェストルに好印象を抱いている者は少ない。


 特に女性の理解者はほぼ皆無。我が儘放題だったのだから当然だ。

 屋敷を支配する養母・セレスティーヌに勝つには少しずつでも味方を増やし、態勢を整えていかなければならない。

 基本的な戦い方はきっと他の悪い女たちと変わらないだろう。

 善人でも賢くもない俺にできるのはそれが限界だ。





「これは……絵本ね」


 アンナが持ってきてくれたのは、私室の本棚にあった中で一番簡単だという本だった。

 文字が二割に絵が八割。さすがにどうかと思ったものの、絵本に使われているのは日本語とも英語とも似ていない異世界の言語だ。喋る方はなんとかなっても、文字は意識して学ばないと身に付かない。八歳の俺はまだ自由に本を読めるレベルではないのだ。


『失礼ね。この本なら余裕だわ。お母さまに何度も読んでもらったもの!』


 脳内で声。ああそうか、と、記憶をたどって納得する。


「懐かしい。お母さまの本だわ」

「奥様のお話、ですか?」

「いいえ」


 不思議そうに首を傾げたアンナに微笑んで答える。


「セレスティーヌ様じゃなくて、わたしの本当のお母さまのこと。この本の主人公はね、お母さまによく似ているの」


 絵本の筋書きは、大まかに言うとシンデレラに近い。王子様に見初められた伯爵家の令嬢が苦難を乗り越えて王妃となる話だ。

 俺の母、アデライドもこの作品の主人公同様に伯爵家の令嬢だった。嫁いだのは王家ではなく公爵家だが、それでも家格的にはギリギリだったらしい。許されたのは類稀な美貌と聡明さ、それから善良な性格のお陰だったのだと母の専属だったメイドから聞いたことがある。

 そんなわけで、リディアーヌはこの絵本を「お母様の本」と呼んでいるのだ。

 アンナは「そうだったのですね」と微笑んで、


「お嬢様は、この本がお好きなのですね」

「そうね。この本を読むと、楽しかった頃のことを思い出せるもの」


 だからこそ、辛い、読みたくないという気持ちあった。

 荒れたままの俺ならきっとそっちの方が強かっただろう。しかしもう、悲しみに暮れてばかりもいられない。


「お母さまは優しい人だったわ。だから、お母さまがいなくなってとても悲しかった。……でも、嫌な子になったわたしを見たら、お母さまはきっと悲しむわ」


 立って歩かなければならない。

 あらためて決意しながら、浮かんできた涙を指で拭う。直後、俺の顔が何か柔らかなもので包み込まれた。


「……辛かったのですね」


 アンナの声と、女性特有の甘い匂い。

 抱きしめられている。これは大丈夫なのか。いや、女同士だし子供なのだからいいんだろうが。

 一瞬パニックになりかけながらも、結局、そのまま身を任せる。すると今度は幼い少女としての感情がこみ上げてきた。

 リディアーヌは愛情に飢えている。

 父は十分に愛を注いでくれているものの、男親と女親は違う。だから、こうしてアンナに抱きしめられるのは、ある意味最も求めていることだった。再び溢れ出す涙。アンナは俺が泣き止むまでずっと抱きしめていてくれた。


「申し訳ありませんでした、リディアーヌ様」


 優しく穏やかな声が、するり、と耳に入り込んでくる。


「正直に言えば、私もあなたのことが苦手でした。理不尽に罵られて悲しくなったこともあります。……でも、私も、お嬢様の悲しみから目を背けていたのですね」

「……そんなのっ。別に、アンナは悪くないわ」

「いいえ。駄目だったんです。使用人だからと、小さなお嬢様のお気持ちに寄り添えていなかったんですから」


 そっと、身体が離された時には少しだけ名残惜しい気持ちになった。

 しかし、公爵令嬢としてもさっきのような醜態は晒すべきではない。間違っても「もっと」などと言ってはいけないと、強いて表情を作り直す。

 それから、もう一度アンナを見て、


「……ありがとう、アンナ」

「いいえ」


 すっきりとした笑顔が返ってきた。


「こちらこそありがとうございます、リディアーヌ様。あなたのことを、教えてくださって」


 今後のためだと言ったばかりだが、アンナとこうなったのは偶然だ。

 アデライドの本を指定したわけではないし、差し出されることも予想していなかった。涙だって本当の気持ちから生まれたもの。

 しかし、お陰で彼女とより仲良くなれた。

 これでいいのかもしれない。

 悪女の真似はできても同じことはできない。アンナは信頼できると思ったから心を開いた。打算はなくせないが、悪意も好意もできるだけ隠さないでいたい。


「いっそのこと、このままアンナにずっとお世話してもらおうかしら」


 照れ隠しのように呟くと、意外なことに、嬉しそうな表情が返ってきた。


「それは、専属にしてくださるということですか? でしたら、是非お願いします」


 専属に指名されたメイドは主人の身の周りの世話やスケジュール管理等が主な仕事となる。信頼されれば嫁ぎ先にも付いていくことができるし、給金アップや専用の部屋がもらえるなど待遇も良くなる。

 善意ばかりの反応ではないだろうが、それでも、本当に検討したくなるくらいには、アンナの言葉は助けになった。

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