第4話 竜の研究者
ウィルナーは、恐ろしいとされる生物を恐れない。
ウィルナーは、恐ろしいとされているすべてのものを恐れない。死も。絶望も。竜でさえも。
彼が恐ろしいのは未知だけだった。
数多くの物語を読み解いたウィルナーには気がかりが一つあった。平和の象徴たる勇者とその結末については、どんな物語でも仔細まで描かれている。だが、敵対者である竜は違った。敵対者として描かれながら、その生態、思考、描写はどんな物語においても省かれていた。彼は両親に言った。竜について知りたい、調べたい。だが両親はそれを決して許さなかった。彼の発言が広まると、街を追われるほどの騒ぎとなった。そんな世界だ、ウィルナーの本心を理解しようとする人間などどこにもいなかった。
ウィルナーは知りたかった。
竜のことを。高い知性を秘め、人間と意思疎通が可能であるにも関わらず大昔から脅威として立ちはだかるその意図を。種として根付いた意識なのか。超常存在から下された指令がゆえなのか。理由を、意図を、知って納得したかった。未知を払いたかった。
幼いウィルナーは、竜を調べるうちに帝竜の存在を知った。寝物語に聞かされた伝説が実在していることにウィルナーは感激した。神、あるいは悪魔とも同一視される、伝説上の生命。大人は子供にそれの実在を隠している。恐怖と絶望に耐えられる年齢となるまで、帝竜が実在する事実を隠蔽している。皆それを恐れるからだ。
ウィルナーは。
ウィルナーだけは、恐れなかった。
彼が恐ろしいのは未知だけなのだから。
サンプルが足りない。ウィルナーは伝承を漁りたいわけでも、歴史を学びたいわけでもない。実在する竜の生態系を、知能と思考を、生き方を知りたいのだ。だから直接接触することにした。生き証人にすべてを訊いてしまうのが最適解だと考えた。意思疎通が可能ならば、聞いて知ることだってできるはずなのだ。
追われるように街を離れ、一人旅を続け、ようやくたどり着いた。
ウィルナーは帝の座に就く竜と出会った。
そして、
「――――」
少女は意識を取り戻した。視界に飛び込んできたのは、至近距離で向かい合うウィルナーと猪という光景。自分がどれだけ気絶していたのかを考える前に、反射的に身体が動いた。
少女の爪による一撃。放たれたそれを、猪はとっさに身を引いて躱した。
「イキテイル……?」
「オレがあれくらいで死ぬか馬鹿! ウィルナー、大丈夫か?」
どうやら猪は最初の突撃でジーヌが死んだと思い込んでいたらしい。困惑している様子の猪を嗤いながら、ウィルナーを守る位置に陣取った。
「ちょうど話が盛り上がってきたところだったのに……」
「オイ仲良しか? なァ? オレだけ帰った方がいいか?」
「冗談だ。助かったよ、ジーヌ」
「マジでお前そういうとこ直せよな」
ジーヌの戦線復帰で空気が弛緩する。猪は敵意と戦意を取り戻し、突進の構えを見せた。
「ツギハ……コロス……」
「不意打ちじゃなきゃ問題ない。来いよ」
少女は不敵に笑いながら、猪を挑発した。
「受け止めてやる」
「シネ……!」
猪はジーヌに向かって突撃した。猛烈な勢いで少女と猪がぶつかり、衝撃と音と土煙が辺りに広がった。
煙が晴れる。
少女はその小さな掌で猪の突進を真っ向から受け止めていた。地面には後退した分の跡が僅かに出来上がっていたが、見た目の変化はそれだけだった。
ジーヌは猪の頭を握り、そのまま持ち上げた。下手な家屋ほどもありそうな巨大な猪が、小さな女の子にまるでお手玉のように弄ばれている。細腕のどこにそんな力があるのか、これは真実なのかと疑ってしまうような現実が、決定的な勝敗を示していた。
ジーヌは猪に尋ねる。
「お前はこいつと話をしていたのか」
猪は答えない。答えることができない。
「興味深いだろう。オレもそうだ。こちらを恐れず話しかけてくるこいつが不思議で、興味深くて、気になって仕方なくなった」
何故か。
恐怖しているからだ。
少女の手から伝わってくる気配が圧倒的過ぎて、声を出すことすら出来なかった。
「興味を持った。関心を持った。そうして話に付き合っているうち、なくてはならないものになった」
猪は竜を喰った。竜の知性を身につけ、言葉を理解し、策略を練りまた力を得る。そうすることができるだけの知能を手にした。ウィルナーの予想通り、死した竜の機能を継承している。半ば竜になっているといっても過言ではない。
だからこそ。
少女に逆らってはいけないと分かる。
半ば、だから気付くのが遅れた。殺意をぶつけられても、一瞬の接触があっても気付けていなかった事実に、猪はやっとのことで気付いたのだ。
「弱くてすぐに死んでしまうこいつのことを、見守っていなければいけないと思った」
勝てるわけがない。逆らえるわけがない。
この少女に――少女の正体に。
「いいか、猪。竜を喰うのも、街を襲うのも、正直どうだっていい。だがお前はウィルナーを襲おうとした。それは決して許されない」
どうして人の姿を成しているのか。
死んだはずではないのか。
滅びたはずではなかったのか。
様々な疑問が猪の脳裏を過ぎり、答えを得ることもできないまま消えていった。何を考えようとも、目前の現実が絶対の回答。死んだはずだった。滅びたはずだった。それでもその存在は、こうして生きている。
「こいつはな……オレにとって、何よりも大切な男なんだ。手を出すんじゃねえ」
竜は厄災である。
恐怖の具現。人類の脅威。
天にも等しい力を持つ、災禍の生命。
人々は幾たびも文明を築き上げ、歴史を作り、刻み、残し――そして、幾度となく竜による滅びを迎えた。永劫と見紛う破滅の繰り返しには常に、頂きたる帝の竜の存在があった。
傲慢で、荒々しく、癇癪に喚く。
ただ圧倒的なまでの暴力だけで竜を統べた王。
神話に謳われた最強にして最恐のドラゴン。長き戦いの末に討ち果たされたはずの帝竜。
その名を、メリュジーヌと云う。
少女は息を吐く。竜の少女の血が染み込んだ、猪の額に向かって息を吐く。
炎上。ジーヌとの接触箇所から発火した炎は瞬く間に猪の全身を覆い、さらに火力を強めた。持ち上げられたままの猪は逃げることもできず、喉を引き裂いたような断末魔を最期に絶命した。
ジーヌは焦げた肉塊を地面に転がした。ところどころ炭化してしまっている。
「雑な焼き上がりになったけど、不味くはないだろ」
「食糧難は解消されたな!」と笑っているが、少女はどこか恥ずかしそうだ。勢い余って告げてしまった言葉を悔いているようにも見える。
ウィルナーはジーヌに尋ねる。
「それよりも、先ほどの言葉だが」
「……ああ。そうだよ、オレはお前のことを何よりも大切だと想っている」
「ジーヌ、君は……」
「…………」
「君はそこまで私の研究を大事に思ってくれていたのか。ああ、私はまだ理解が足りていなかったようだ。より一層の努力と研究を約束しよう。君と私の目的を達成するために」
そ、う、じゃ、ねえ!! だろ!!!
ジーヌは咆哮しそうになったが、ギリギリで抑え込んだ。
×××
世を混沌に陥れる竜、神話に謳われた最強にして最恐のドラゴンは、長き戦いの末に討ち果たされた――しかし、闘争の果てに人類が得たものは平和ではなく、さらなる混沌だった。頂を失った竜は次の王となるべく争い、多くの命と力を失った人間は竜の争いに巻き込まれないよう各地に隠れ住む。
そんな世界……、
……とは、極力関わり合いにならないようにしながら、各地を旅する二人組がいる。
「だから言ったんだ。オレがいた方がマシだってな」
一人はジーヌ。
鋭い牙と短い尾を持つ、身長百三十もない少女。
帝竜メリュジーヌが転生した、恐るべき戦闘能力を持つ竜の少女。
「はいはい、その通りだね。人が君の言うことを聞くわけもないけれど……」
一人はウィルナー。
薄汚れた白衣と眼鏡の似合う痩躯の男。
かつて帝竜と親しくなった、未知だけを恐れる竜の研究者。
喧嘩したり、文句を言い合ったりもするけれど――ドラゴン少女と研究者はいつでも一緒に終末世界を生きていく。
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