第6話 抱擁の威力

「ジーヌ。起きてくれ」


 眠っていたジーヌを、ウィルナーの声が呼んだ。


「んぁ……なんだよ。まだ夜じゃねえか……」

「いや、日付が変わってから三時間以上は経っているから、朝と言っても良いと思うんだ。あと四十分ほどで日も昇る。少しの早起きなら構わないだろう」


 外は暗い。研究機器の灯りが瞼に刺さる。

 目を擦りながらまだ眠そうなジーヌと対照的に、ウィルナーは目が爛々と輝いている。ただし不健康の証拠にくまが出来ているので、どうやら徹夜したようだ。にしてもジーヌを起こすのはかなり稀な行動なので、脳内物質の影響で多少なりテンションが上がっている可能性が高い。

 ここ最近、竜を喰った猪をサンプルとして入手してからというもの、ウィルナーは普段以上に研究に没頭している。徹夜をやめろと止めても言うことは聞かない、無理やり失神させても目覚めれば実験に戻ってしまう。熱心なのは何よりだが、身体を壊しては元も子もないのにと思う。

 ウィルナーに対してだけは思いやりのあるジーヌである。


「で、何があった?」

「出来たよ」

「何が?」

「ヒサシブリダナ」


 猪がいた。

 おそらく寝ぼけているのだと思ったので、ジーヌは歯を磨いて顔を洗って、日課の散歩に出かけて、じき昇ってきた太陽の光を身体中に浴びて体内時計をリセット。すっきり爽快、素晴らしい朝の目覚めを味わったあとでウィルナーのもとに戻ってきた。

 猪がいた。

 ただし、以前と比較して遥かに小さい。まるで、子供がままごとで使うぬいぐるみのようなサイズ感。ジーヌはミニ猪の頭を鷲掴みにすると、持ち上げてお手玉のように弄ぶ。


「ヤメロ……! ヤメ、チョット……ヤメテ……ネェ……」

「やめてあげてくれ」


 ミニ猪を勢いよく地面に突き立てる。半身が埋まった。


「何? 夢?」

「夢じゃない。私が再現したんだ」


 これまた珍しく、薄い笑みを浮かべるウィルナー。本来ほとんど表情が変化しない男なので、うっすらだとしても笑っていると分かる時点で相当鼻高々の様子だ。


「久しぶりだと言いながらも、彼とあの猪は同一存在ではない。細胞を培養、増殖、性質変化させて生み出した新たな彼に、『過去の彼』のことを説明したんだ。あの猪の振りをしているだけさ」

「ネタバラシ、ツマラナイ……」

「ははっ、問題ないさ。君自体が実に興味深く、面白い」

「ソウイウモノカ?」

「そういうものだよ。ああ、そうだ、君に名前を付けなければ……」

「イラナイ」

「必要さ。今後、君と呼び続けるわけにもいかないだろう」


「…………。ケッ」


 猪とばかり会話し、楽しそうに笑うウィルナーを睨みつける。

 面白くない。

 もとい、猪が妬ましい。

 猪を殺すことはできる。余裕だ。一瞬で灰にすることが叶う。潰してもいい。だが、それを実行した場合、間違いなくウィルナーとの関係性に亀裂が生じる。

 何日も夜通し実験と検証を繰り返して、ようやくウィルナーが生み出した命だ。たとえクソ猪の生まれ変わりみたいな見た目をしていて、少し力を込めて握ったら潰せそうな貧弱さで、暴力を振るったら気持ち良さそうな触り心地をしていて、しかもウィルナーの興味を集める羨ましくも妬ましい状況にあるとしても、やっとのことで生み出した研究体だ。衝動的に殺すのはいけない。

 ジーヌは少女になってから、我慢を覚えたのだ。

 でも、やっぱり妬ましい。ずるいと思ってしまう。ウィルナーがあれほどの笑顔を向けることは滅多にあるものじゃない。別に能面のような無表情のウィルナーが嫌なわけじゃないし、十分にかっこいいと思っているのだけれど、それはそれとしてやはり色々な表情が見たい。ジーヌに向かって笑ってほしい。

 ジーヌはウィルナーの興味と表情を独占したい。

 元とはいえ竜の皇帝なので、少女は基本的に欲張りだった。


「あー、もうお前らずっといちゃついてろ! 馬鹿! クソチビ猪! 頭ウィルナー!」


 苛立ちが抑えられなくなり、ジーヌは大声で喚き立てた。見た目は少女だが性能は竜なので、子供らしい癇癪でさえ咆哮となりウィルナーの鼓膜を破壊しかける。ミニ猪は音圧に敗北し、失神した。


「鳴かなくてもいいだろう。ジーヌ、どうしたんだ」


 ウィルナーはジーヌに尋ねる。屈んで少女と目線の高さを合わせながら、頭を撫でた。


「だってお前……オレの前でそんな笑ってくれないし……」

「笑顔が見たいのなら、にらめっこでもしようか?」

「勝てる見込みがねえよ……」


 本格的に泣き始めそうな気配に危険を察知し、ウィルナーの脳は高速に動作した。至近距離で音の直撃を受ければさすがのウィルナーも耐えられない。笑顔を作ればいいのだろうか。いや、取り繕ったような笑みではジーヌは満足しないだろう。

 ウィルナーは、ジーヌに興味がなくなったわけではない。興味がなくなるはずがない、ジーヌはいつだって最高の研究対象だ。興味を、好奇心を引き立てられる至高の存在だ。課題が山積みとなっている最良の素体なのだ。一つ検証が終われば次、次と忙しなく、いつでも観察を行っているので常に真剣な顔になっているだけである。

 しかし、それをジーヌに伝えたところでやはり納得はしないだろう。

 ジーヌは説明を求めているのではない。ジーヌの要求は、ウィルナーの笑顔だ。理由とかどうでもいいから自分に向く笑顔さえあれば一先ずは問題解決となるはずだ。

 現在、ウィルナーの笑顔はミニ猪と結びついている。

 ウィルナーはジーヌにミニ猪を手渡した。


「なんだよぅ……」


 ジーヌは失神して動かないミニ猪を受け取った。泣き出す寸前だからか、やたらと素直である。少女はぬいぐるみほどの猪を胸元に持ってくると、両腕で抱えるように抱きしめた。


「最高の組み合わせだ……」


 それは聖画のようだった。

 最も興味深い研究対象と最もホットな研究対象がコラボした奇跡の光景。この世に神はいる、ここに、と喧伝して回りたい欲望が溢れた。視界が歪む、泣いているのだと理解する前にウィルナーは心のままに行動した。

 つまり、ジーヌを抱きしめた。


「……は、あ、え? はァ!? 何!!?」


 悲しみと妬ましさの感情を困惑が上塗りする。ジーヌは自身が置かれている現状を把握して、混乱しつつもだんだん恥ずかしくなって何もかもどうでも良くなった。一瞬だけ、本当に一瞬だけだが、このまま時が止まればいいのに、という乙女チックなことまで考えた。


「ジーヌ、君は……本当に素敵だ……」

「あっ、ヤバ……。ちょっと今、射抜かれたかもしれない……」

「狙撃か? どこからだ」

「違えよ馬鹿!」


 言葉を返しつつ、ジーヌはウィルナーの腕から抜け出した。直前までの思考を振り返り、襲いかかってくる羞恥心で少女の頬は紅潮した。火でも纏っているようだ。身体中がこわばって変に力が入る。

 腕に抱かれたままのミニ猪が泡を吹いた。

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