第78話 在るがままの自分
木々の合間を縫うように建てられた簡易組立の天幕から、細身の男が這い出してくる。最低限の睡眠と毎朝のストレッチを終えた研究者。テントを出て、首を左右に揺らす。自分以外に誰もいないことを確かめるように、周囲を見渡す。目を伏せ、頭を振り、それから研究機器の前に陣取る。
ウィルナーは一人、少女の帰りを待っている。
「ふぅ……」
半刻も経たず、手が止まる。
三日前からこんな様子が続いていた。
集中を欠いている状態をウィルナーは自覚している。身が入らないのはジーヌがいないことが原因なのだろうと見当も付いている。しかし同時に、自分の我が儘で竜の少女を求めてはいけないとも認識している。
ウィルナーが判断に時間を要したように、ジーヌには一人の時間が必要なのだ。
「とは言ってもな……」
とは言え、である。
自分の気持ちは整理した。ならばジーヌの為に何かしよう、にもジーヌは不在。仕方なしに研究を進めようとするが、先に語ったように集中力は皆無。だからといって只々ぼうとしているのは性に合わず、日に八時間は気分転換と称して近辺を歩き回って過ごしている。食べられる植物を拾って乾燥させたり、川で釣れもしない糸を垂らしたりしている。
要するに、思考しなくて済む作業を片っ端から片付けていた。
物を考えられないわけではなかった。日常を進める中でも、脳はしっかり働いている。何のことを考えているかは単純で、ひたすらジーヌのことを考えていた。思考がジーヌに占有されていた。
やはり余計なことを言ってしまっただろうか、とか。
いつ戻ってくるだろうか、とか。
帰り道が分からなくなってはいないだろうか、とか。
考え込むあまりにどこかで行き倒れたりはしていないだろうか、とか。
ジーヌに対しては逆に失礼な心配だった。彼女はただの美少女ではない。最強の竜の力と記憶を受け継いだ、至高の美少女なのである。
「あぁ……今日もほとんど何もできなかった……」
茜色に染まり始めた空を見て、ウィルナーがぼやいた。
一週間。
たかが一週間、されど一週間。愛しの少女がいない日々もそれだけ続けば永遠の苦痛に等しい。そう、ウィルナーは苦痛を感じていた。研究ができない以外でここまで辛い思いを感じることがあろうとは。新鮮ではあるし、未知を知れた快感はあるが、しかしあまり味わいたいものではない。
ウィルナーが苦痛だったのは、少女がいないこと自体でなく、どこにいるのか分からないという状況だった。たとえばトラウィスの街にいるときは、街のどこかにいることが確定していた。仮に姿を確認できなくても、サイカや門番に訊けば居場所を確かめられるだろうというある程度の保障があった。
約束や決め事があればいい。
ジーヌはなんだかんだ言って律義だ。決めたことは何としてでも守る。
だが、今回。ウィルナーとジーヌは合流場所も時間も定めていない。どこへ行き、いつ戻るかも知らないまま、思い込みのような希望を頼りに少女の帰りを待ち続けている。
心配だ。不安なのだ。
縋る約束もないままで、どこかで大切なものが失われていないかが。
「食事は……、一応取ろうか」
干物を手に取り、齧る。嚙み砕いて、飲み干した。
ウィルナーは半ば以上、人間というより意識の発生した機械だ。活動するためのエネルギーを食事という形で行う必要がなくなっている。ただ、完全に機会をなくしはしない。ウィルナーには必要なくとも、ジーヌには食事が必要だ。これからも彼女と共に過ごすつもりならば、食事という文化を意識から抹消するわけにはいかない。
食事だけではない。人間として、もしくは生物として、最低限度の生活にあたる一通りの行動は残しておくべきだ。たとえ彼に必要なくとも、ジーヌにとって必要ならば。
「……ふむ」
そういえば。
食事も久々だったが、入浴もここ三日ほど行っていないと気付く。防水どころか汚れもほとんど付かないように加工してあるが、気分的に不安定なのはそういう理由もあるやもしれない。
白衣および内に着込んでいた衣服を脱ぎ捨て、川へ向かう。
浅瀬に腰かけ、調合した薬剤を泡立てる。
水辺に、どころか一帯に生物の気配はない。元々脅威となり得る害獣が少なそうな場所を選択したのもあるが、旅の拠点として長く使っていたせいで近辺の動物を狩り尽くしてしまった。跳ねる魚もいない静寂の中で、水音は一人分。泡で肌を擦る音、汲んだ水を頭から浴びる音。水が水を叩く音。自分の行動に伴って、音が大気に響き渡っていく。
身体と頭を洗い終わって、腰を落ち着けて、目を閉じる。
動きを止めれば、自然、音は聞こえなくなる。
だから、気付いた。
誰かが静寂に踏み込んできたことを。
「――――」
ウィルナーでなければ見逃してしまうほどの小さな音。誰か、は、ウィルナーに自分の存在を気付かせまいとするかのように、ゆっくりと密やかに川へ侵入してきた。
困った。ウィルナーは全裸だ。完全に油断していたため、武器になりそうな物を何も持ってきていない。身体一つで何者かと相対した場合、ウィルナーの敗北可能性は十割だ。生まれて十時間の赤子にも負ける自信がある。
驚かせた隙に逃げるくらいしか打てる手がない。
そうこうしている間に何者かは背後、数歩の距離にまで接近してきているようだった。もはや一刻の猶予もない。後ろを振り返って大声で喚き立て、直後に全力で脇を駆け抜ける。これしかない。
覚悟を決め、振り返る。
「こっち見んな馬鹿!!!」
「ぐあああああああああああああああああ!!!!!!!」
何も見ること叶わず、強烈な目潰しを受けて視界が消失する。一瞬にして眼球機能が失われたが、自動修復が始まっているので時間を置けば復旧するだろう。
しかし、それよりも重要な情報は聴覚から入ってきた。
「ジーヌだな?」
「そうだ」
一週間ぶりの声。
愛しの少女の声だった。
いつも通りの変わらぬ様子に、不安も心配もあっという間に消えてなくなる。
「……まったく、急に動きやがって。虫みてえだ」
「すまない。こちらを傷つける猛獣の類かと思った」
「全然違えだろうが!」
あながち間違っていない気もする。
「まァ、いいや。とりあえず向こう見てろ」
「君のせいで何も見えないが?」
「細けえことグチグチ言うな。さっきと同じ姿勢してろってことだ」
言われた通り、おそらく川岸と思われる方角を背に座り込んだ。
「それで良い」と満足げな声が届き、それから背に肌が触れた。柔らかで、熱っぽい。少女の素肌だとすぐに理解した。どうやら背と背を触れ合わせているような状態らしい。
「はァ……」
「どうした?」
盛大にため息。鼓動の早まりを悟られないよう、平常心を保って尋ねる。
「上手くいかねえなァと思っただけだよ。本当は、こっそり近づいて急にくっついてやろうとしていたんだが……」
「気付かない方が良かったか」
「それはそれで警戒不足って指摘したろうけどな」
どちらにせよ痛い目は見ることになっていたらしい。安定の暴力性である。
「じゃ、なくて。いいかウィルナー、そのまま聞け」
「分かった」
「何も返事をするな」
傲慢で、残虐で、けれど律義な竜の少女。
こちらが答えを提示すれば、返す答えを用意する。戻ってきたということは、つまり彼女の一人の時間が終わったということだ。
少女は、しばしの沈黙を挟んで、切り出した。
「およそお前の予想通りで、言う通りだ。……オレはメリュジーヌじゃねえ。けど、素の性格を隠してるってのも少し違う」
素の性格を出してもいい、というウィルナーの話は的外れだ。
少女は続ける。
「最初の頃はよ、けっこう無理してたんだぜ。生まれ変わったメリュジーヌに相当する少女を演じなきゃ、ってさ。頑張ってた。けど、今はもう演じてるって感覚がなくなった。振りをしているわけじゃない。メリュジーヌの記憶と少女の意思を混ぜ込んだものが
少女が背を触れさせる。
腕を重ね合わせ、男の背に頭を預け。
「結局さ、お前がどっちを愛してると言ったところで、オレの在り方はもう変わらない。オレはメリュジーヌの記憶を引き継いだ少女を元に、意図せず変質してしまった成れ果てだ」
お前が愛していると言ったのはそういうものなのだ、と告げ。
控えめに、指をほんの僅かに重ねた。
ウィルナーはジーヌの指を絡め、握りしめた。
「…………。お前が、自分の意思を出してもいい、そっちも愛してるとか言ったときさ。かなり戸惑った。……戸惑ったけど、今さらだとも思ったけど、正直ちょっと嬉しい気持ちもあった。認めちゃいけない気持ちだろとか考えまくったけど、伝えておくことにした」
背中が熱い。腕も、指も、さっきよりずっと熱かった。
「……まァ、なんつーか、さ。ちょっとだけ、自分を肯定していいんだなって思ったよ」
「ところでウィルナー、服は? 近くに見当たらないけど」
「拠点に置いてある」
「羞恥心とか無いのか?」
「機械は大抵剥き出しで稼働しているだろう」
「じゃあもうお前いつでも全裸でいろよ」
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