第112話 烈火の対峙
運が良ければ。
或いは運が悪ければ。
その一撃で勝負は決していただろう。超高度からの落下で加速したジーヌの蹴りは、確かに必殺と呼ぶに値する威力だったのだから。
「――――」
「有り得……!」
だが神は躱した。反応するより早く相手の命を刈る絶技を、神は間一髪で回避した。
理由は二つ。一つは確信していたから。ジーヌとウィルナーは間違いなく街の滅亡に合わせて襲撃してくると予測しており、心構えができていた。ジーヌの足が神の肉体に触れる寸前、気配を感じたその瞬間。頭で考えるより先に反射で身体が動いたのである。
そして、理由のもう一つは、神の内部に蓄積された熱エネルギー。もしエネルギーの溜まっていない平常時であれば、反応ができても避けることは叶わなかった。少女の落下襲撃はそれほどの速度を持っていた。しかし、そうならなかった。神は溜まっていたエネルギーを回避用途に転化した。
隕石のような落下速度に対し、光のような反応速度で応えた。
結末は、先に記した通りである。
何をどう間違っても掠るくらいはするだろうと考えていたジーヌは、掠りもしなかったことに驚愕した。驚き、緊張し、筋肉が硬直した一瞬を神が見逃すはずもなく。
「ふっ――」
鋼鉄と培養細胞で再構築された巨大な尾が、少女を払いのけるように側方へと振るわれた。
直撃する。垂直落下に横方向の衝撃が加算され、軸をずらして斜め下方にすっ飛んでいく。少女は勢いを殺し切れずに地面に墜落、爆音と土煙が辺り一面を覆った。
浄化とは異なる騒ぎの気配に、祈るばかりだった民衆が動揺する。何事かと立ち上がり、調べようとする者もいた。
愚鈍な民に向かって神が告げる。
「黙って跪いていろ。ただ祈り、時を待つがいい」
その一言で、民の声は収まった。
しんと静まり返った街の中、土煙を吹き飛ばして少女が立ち上がる。傷ついたふうはない。
「もう洗脳だなァ。巻き込まれたら死ぬだろうによ」
「流石に頑丈なようだ」
神の言に、ジーヌは「そうでもねえさ」と軽口を返した。
「想定していたよりもかなり高所からの落下になってな。速すぎて止まれねえし、というか避けられると思ってなかったし。尻尾の叩きつけ受けたとこも痛いし。お前が考えるほど無傷な感じじゃねえよ」
「ならば諦めるといい。すぐに死ねる」
「嫌だね」
「そうか」
応答は端的に。激突は即座に。
地上から脚力のみで跳ね上がった少女は、神の目前で合掌した。手のひらに付着させていた血が空気を飲む。目くらましにしては熱すぎる炎が空中で爆ぜた。
塵で神の視界が閉ざされる、が。
「無駄だ」と爪を一振りすると、粉塵は瞬時に消えた。――少女の姿ごと。
「――はッ!」
無論。爪に裂かれたわけでも、二度目の墜落を経験したわけでもない。
ジーヌは神の背後に転移していた。
当然ながら竜の少女にテレポーテーションのような能力はない。少女はただ空中を移動しただけだ。なのに神はその移動を追えず、転移したように錯覚した。何故なら音がしなかった。燃える音、爆ぜる音、移動のために必要な火炎がまるで感じられなかったからだ。
今までジーヌが行っていた移動方法は、血の爆破炎上に指向性を持たせることを前提としたものだ。具体的には『移動の前に爆発を起こし』『真っ直ぐに高速で移動する』行為の繰り返し。加速と停止の前には爆発音が付き物で、音と熱を検知すれば移動先の推定は容易い。
はず、だった。
神が振り返ろうとするも、それより早く少女の爪が装甲にぶち当たる。金属が溶け落ちそうなほどの熱を受けた肌が甲高い音を響かせた。ジーヌを捕えようと神の手が伸びるも、目標物はするりと流体のように隙間を抜ける。
胴横、股下、頭の上。空を滑るような軌道。
変幻自在に宙を舞う少女の姿を神は捉えることができない。
華麗に
「どうした、神サマよォ!」
「…………」
過去の動作に対策を打ったはずの神は、しかし少女の動きを予測できていない。滑るような、舞うような挙動に惑わされて動きが安定しない。
答えはシンプル。爆発を用いない新たな移動手段を竜の少女は実践していた。
「……なるほど」
痛撃を浴びながら、残り火を見た。
線のように伸びた炎痕。
揺らめく火。
爆発ならぬ烈風。
神は理解する。毛髪か、糸のような道具に血を染み込ませたか――少女は線状に張り巡らせた炎を使って空気中に寒暖差を生じさせ、気流を生み出していた。小さな身体を風に乗せて、空を滑走し、攻撃と回避を行っている。
それだけではない。発生した気流は渦とを巻き、神の飛行動作を阻害する。
攻防一体の戦法――空中戦はジーヌに分があるようだった。一方的に攻め立てられる関係ならば、後は神の耐久力とジーヌの体力の比べ合いになる。
だが、だというのなら尚更に、わざわざ空に留まる必要はなかった。
両翼からの噴流方向を切り替え、地面に直行する。
「逃げんな!」
竜の少女が曲線軌道で神を追いかける。くるくると身体を捻転させ、神の胴を貫かんと突撃する姿はまるで炎の弾丸。焼死を与える至高の兵器。一度ならまだしも、二度、三度と当たれば表皮装甲の破砕は免れない。
それを、真正面から受けて。
合わせるタイミングで鉤爪を振るう。
「チッ――」
常人なら絶対に躱せない反撃を、常人離れした強者たるジーヌは避ける。反撃と回避の応酬が尋常でない速さで連続する。
風切り音と打撃音。
地上に降りてさえジーヌの手数は圧倒的だった。両者を知らぬ十人がその様子を見れば、十人全員がジーヌの勝利にベットするだろう。神の攻撃は一切当たらず、少女の技はどれも直撃する。神の肉体は焼け、炎に炙られ黒く焦げてきている。勝ちを信じない理由がない。
だというのに。
二人の表情は互い、状況にそぐわないものだった。
それも当然。第三者から見た状況と、打ち合っている当人たちの認識は大きくずれている。防戦一方に見えた神には余裕があり、攻めているはずのジーヌは窮地に立たされていた。
最初のぶつかり合いでジーヌは既に察していた。神の装甲の強靭さと熱的耐性が向上している。皮を破り、内部を破壊するには溜めが要る。高速戦闘の最中、装甲を破るだけの時間を確保することは――
初撃を避けられた時点で、もう。
竜の少女が浮かべる表情はこれ以上ないほどに勝負の結末を示しており。
悲痛な未来は、すぐに現実となった。
「が……、ッ!」
頭突きが少女を捉えた。家々の壁を貫通してもまだ止まらず、少女は一息に数百メートルの距離を吹き飛ぶ。
神が追撃の劫火を見舞おうと狙いを定める。熱が急激に膨張していく。
「疲れたか? 動きが鈍くなったぞ」
「気の、せい……だろ!」
瓦礫の下からジーヌが中空に飛び出した。
「――――」
今度は直線的に、速度だけを考えた爆発加速で一気に距離を詰めてくる。単調な軌道で向かってくる少女に照準を合わせ、炎を放つ。
地を払うはずだった獄炎は少女の肩を焼き殺した。
「ぐゥあ!」
呻き、落ちる。帝竜メリュジーヌ本来の肉体強度をもってしても耐え切れない火力。人工的に収束させた炎の熱は、生命が到達しうる限界点を超えている。
狙ったように神の膝元まで転がってきた竜の少女を、足で踏み、拘束する。
「何をしている?」
「何がだよ……足どけろカス」
「訊かれたことにのみ答えろ。今の行動の意義を聞いている」
神は、足に掛ける力を強めながら言った。
「信徒を庇っただろう」
もしもジーヌが瓦礫の山に埋もれたまま、飛び上がらなければ。神の放った業火は地を這い、祈るばかりの信徒を大勢巻き込んだだろう。しかし少女が移動したことで狙いも動き、炎はスクルヴァン住人を避ける形となった。
明らかに。ジーヌは住人たちを庇って見えた。
「……まあな」と少女は肯定した。
「何故、部外者のお前がそんなことをする?」
「が、ああ……ッおらァ!」
竜の少女は気合一声、神の足を持ち上げて隙間を作り、拘束から抜け出した。
追撃を警戒して構える。
「問いに答えろ。何故庇った?」
少女が答えずにいると、神の口が住人たちを向いた。炎の球を放出する。ジーヌは住人たちの前に立ち、火を振り払った。
「苛ついてんなァおい!」
「答えろ」
「…………」
ジーヌはすっと目を細くし、神を見つめる。それから口を開いた。
「……オレはこんな連中、心底どうだっていい。けど……ソラとかいうあの女にとっては大事なんだろ。空の上から見てたぜ。ウィルナーが生かそうとした女は、自分の命を投げ打ってまでこいつらを逃がそうとしていた」
竜の少女は大きく息を吸い、それからゆっくりと吐き出した。
「焚きつけたのはオレなんだ。少しは報いなきゃ嘘だろう」
「……お前、本当に竜か?」
「この見た目だ。確実に人間じゃねえよ」
自身の頭に付いた角、下半身から伸びる尾を撫でて言う。
「けど、うん。竜でもねえな。オレはジーヌだ」
「…………。馬鹿馬鹿しい」
竜でも人でもない。どちらでもある。だからどちらであろうと尊重する。気持ちを掬い上げようともする。
そんな行動、異常に過ぎる。
そうだ、だいたい合理性がない。戦って勝つしか後がないこの状況で、他者の心を、意思を守ろうとしている。有り得ないといえば、それこそ神の回避動作以上に有り得ない行動だ。理性が蒸発しているとしか思えなかった。自ら勝ちを遠ざけてまで、心などという形のない概念に敬意を表するなんて。
ひどく苛ついている。思考が纏まらない。
帝竜メリュジーヌ。
人も獣も区別なく、情け容赦なく殺戮した竜の王。
圧倒的な力で頂の座に就いた最強の竜。
それを素に生まれたこいつが、
それほどに大切なものだというのか。心が、想いが、白の巫女の無意味な行動が。ただ黙って死を待つだけの肉塊連中が。
「何を偉そうに。一度や二度守った程度で」
神の巨体が少女に迫る。
「お前は何も守れない。命も、誓いも、何もかも」
「言ってろ……!」
ジーヌが吼え、神に向かって突貫した。
炎と炎。
烈火の対峙は続いているが、敗北の色は濃くなるばかり。
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