第45話 正体の行く末
いつもよりずっと身体が温かい。
原因ははっきりしている。研究者の細い身体に、竜の少女が抱きついているせいだ。強く、身体が折れてしまいそうなほど、強い力で抱きしめられているのを感じる。
「ウィルナー……」
少女は一心不乱に自らの肌を擦り付けている。
匂いを上書きしようとしている。
部屋を案内され、寝床に就く前にジーヌは「不快だ」と言った。ウィルナーから普段と違う香りが漂っていることが、無性に苛立たしいのだと。全身を洗ってもどこかに残っている異質な香りが影響して、気分が悪くなるのだと。
ウィルナーはジーヌの主張を否定した。
違う香りがする、という状況そのものに対しては、既に「どちらの感情にも振れない」という裁定が成されている。ジーヌが恋を探究する工程としてテストした行動のうち、纏う匂いの変化については検証済みだった。ウィルナーが土や水、街や人と接触した後、その匂いが付着していても感情に特別な変動はなかった。
であれば、と別の見解を意見する。
別の匂いがすることではなく。ジーヌはほとんど知らない、ウィルナーだけと交流を持つ女性の影を感じる状態が、ストレスなのではないか。
たとえば、街ですれ違った見知らぬ人間。ジーヌはそれら人間のことを知らないものの、ウィルナーは街の住人について知ろうとしていない。ウィルナーが街に溶け込もうとしていない以上、多少の会話はあれど親しくなることはない。だから、そういった人間たちの匂いがしたところで、気にするにも値しない。
たとえばサイカ。彼女とウィルナーの関係は、ある意味で特別なものである。その繋がりについて、そしてサイカという女のプロフィールについて、竜の少女はおおよそを把握できている。故に、サイカと彼女に関わる人間の気配を感じたところで、どうともならない。
故に上記は危惧の対象になり得ない。
だが、ソラの場合。
白の巫女のことを少女は知らない。しかしウィルナーは巫女の名前を、立場を、ある程度の性格を理解している。人となりを説明された。説明できるほどには、ソラという人間に対して関係性が生じているということだ。知らない間に、知らない交流が成されていたということだ。
だから、つまり、怖いのだろう。
ウィルナーは告げた。
知らないうちに、知らない誰かと親しくなっている可能性が怖い。結果、知らずウィルナーを失う展開に陥ってしまわないか恐ろしい。自分の下から離れていく結末が頭の片隅を過ぎってしまう。
おそらく、そんな恐怖が、少女の不快さの正体だろう。ウィルナーは指摘した。
「細けえこと言わずにさっさと横になれ!」
問答無用、と竜の少女は解説大好きな研究者をベッドに押し倒した。とにもかくにも、ジーヌの側としてはウィルナーから知らん巫女とやらの匂いがしているのが嫌で堪らないのだ。
そうして、残り香を自分の香りで上書きするように、肌を触れ合わせているのである。
「……ジーヌ」
肌を摺り寄せる少女の頭を、ウィルナーは撫でる。
幼子そのものであるかのような、穢れを知らない少女の髪を、指で梳く。
喪失への恐怖。離別への恐怖。そういった感情は、一般的な人間の恋愛に広く散見される兆候だ。そう、人間に近しい。
可能性に恐怖する。
空想と現実の境界が曖昧になる。
思い込みが作る幻覚に苦悩する。
それは人間特有の症状だ。
仮に、竜の少女ジーヌではなく帝竜メリュジーヌがここにいれば。ウィルナーの隣に誰かの影を見ることも――万が一にも見たとして、そこに苛立たしさを感じることもなかったろう。気に入らなければ、葛藤するのではなく燃やし尽くすだけ。暴虐に、残虐に、力を振るうだけだったろう。
だが、今のジーヌは、そうしない。
不快を露わにし、快に直そうと試みている。
ジーヌの行動は証拠だ。竜でもなく、人間でもなかったはずの竜の少女が、僅かではあるが人間に近づいてきている証。人間に好意を抱き、恋を定義しようと行動を重ねるうち、一歩ずつ確実に人間に寄ってきている証明。
ただし、このまま順当に人へと変化する、とは思えない。
まじないのように、研究者の心に引っかかっている言葉がある。帝竜メリュジーヌがウィルナーに頼んだ、ウィルナーが誓った約束が、安寧の未来に否を突きつけている。
人の姿をしていても、その子の本質は竜だ。だから――
「っ」
「今、オレ以外のこと考えてたな」
皮膚を千切られるような痛みが、思考を現実に引き戻す。
首元を噛まれたのだ、とすぐに気付いたが、気付かない振りをする。不機嫌そうに膨れている少女の頬に触れ、親指の腹で拭うように撫でる。
「そうでもない。君がメリュジーヌだった頃のことを考えていた」
「…………。ふん」
少女は頭をウィルナーの胸板に押しつけると、腕の力をいっそう強めた。対抗するように、ウィルナーはジーヌの小さな身体を抱きしめ返す。噛み痕から流れる血が妙に心地好く感じられた。
「……時間か」
「そうだな」
寝床から離れると、ジーヌは窓際に歩いていく。はだけた白衣を整えてから、ウィルナーも横に並ぶ。空には月。生命が寝静まる夜、じき指定された時刻になろうとしている。
「よし。行こうぜ」
首を横に何度か、意識を切り替えてジーヌは言う。
「ああ」
ウィルナーは答える。答えながらも内心で、思考を再開させる。
いつか少女が恋を定義するときが訪れるとして――その恋は、はたして人間と竜、どちらに寄ったものなのか。竜の研究者にはいまだ、予測がつかなかった。
×××
「もう到着か。時間にはちと早いぞ」
大聖堂の一角、合流を指示された部屋の中。シドは揺り椅子に腰かけ、穏やかに二人を待っていた。
ジーヌはシドから「この街の秘密を見せてやろう」と言われていた。夜になり、皆が寝静まる頃に合流する。それから秘密の場所へと連れていく。いかにも怪しい誘いではあったが、ウィルナーとジーヌは老人の提案に乗ることにしたのである。
「早いと言う割にはずいぶんと落ち着いている様子だが」
「老いぼれは時間が有り余っとるもんじゃ」
「ひへっ」と獣の鳴き声じみた音を立てる老人に、ジーヌは険しい視線を向ける。しばらく行動を共にしていたとはいえ、根本的な嫌悪感が払拭されたわけではないようだ。
「ったく……。笑ってねえで、重要な秘密とやらの場所にさっさと案内してくれ」
「まぁ待て。その前に、一つ話をしようじゃあないか」
くちゃりと表情を歪ませて、
「解消したい疑問があるのじゃろう。のう、少女の連れ合いよ」
「時間の余裕があるのなら」
ウィルナーが返答すると、竜の少女は肩をすくめた。
「では……さて、順に説明しようかの」
老人はそう前置いてから話し始めた。
「わしは少女を部屋から連れ出し、誰にも見つからぬよう大聖堂までやってきた。目的は、少女を聖体に触れさせるため、じゃ。正当な手順を踏んでいれば、お前さんたちは聖体に近づきはできても、触れることは叶わなかったじゃろう。そうなれば、違和感を抱きはしても確信にまでは至らない。わしはそう考えておった」
「……なるほど」
「力づくで接触することもできたかもしれん。じゃが、その場合お前さんたちは街からの永久追放となっていた。それは、わしにとって避けたい展開じゃった」
だから秘密裏に連れてきたのだ、と老人は言った。
「秘密裏に? 特権的な力を行使して、ではないのか?」
「そんな権力、ありゃせんよ!」
シドは「この見た目の爺さんに何を期待しとるのか」と笑う。
「わしはな、ただの気を違えた老人じゃ。お前さんたちがどう思おうが、少なくともこの街ではそういう扱いを受けておる。記憶も思考も定かでない、重要な役を担う孫に負担ばかり掛ける迷惑な老いぼれじゃ。ただ、少しばかり、人目を避けて行動することに長けていただけの爺。それ以上はないよ」
「…………」
何やら事情がありそうだ。が、ウィルナーは内容の追求を控えた。今は聖体と、これからの行動に意識を集中させるべきだ。
「話が逸れたな……」とぼやきながら、シドは咳払いで軌道修正を図る。
「お前さんたちは、予定通り、無事聖体に触れることができた。だから気付いただろうと思う。聖体は神ではない。そして、あれは決してメリュジーヌの死骸などでもない。ただの偽物、精巧に作られた模倣品じゃ」
「ああ。理解している」
「オレは触れずとも分かったがな」
二人がシドの話に同意する。
聖体に触れた折、ウィルナーが感じた違和感。骨の感触、劣化の度合、そして何よりも、熱が足りない。聖体はメリュジーヌの死後に残った骨ではなく、別の生き物の骨を使って形作られた紛い物だった。
「確かにスクルヴァンの住人たちは、その総力をもって帝竜メリュジーヌを討伐した。死後の肉体は、勝利の証として街に持ち帰られた。多数の人間が記憶しているじゃろう。その、絶対的な事実を前に――では、持って戻ったはずの死骸がここに安置されていないとすれば、はたして何処にあるのか?」
椅子を漕ぎながら、問いを織り交ぜながら、老人は語る。
「少女よ。お前はわしに尋ねたな。『どこに向かっているのか?』――その答えをここで返そう。これから向かうのは、秘匿された地下施設。神の半身が保管されておる場所じゃ」
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