第108話 感情の行方

 舞台は移り、神の居る街スクルヴァン。


「…………」


 街の中央に座する聖教会本堂、その一室。沐浴をする女がいる。清廉潔白、全身に清い気配を纏う白の女。ソラである。身に付けるは薄布一枚。頭から水を浴び、俗世との関わりを絶つ。水滴が肌を滴る様は神聖な絵画を思わせた。

 神の御前に立つ前に、ソラはこうして身体を洗礼する。常の行いだ。神託を授かる身は、白の巫女は清らかなる乙女でなければならない。

 全身を残らず灌ぎ、布で拭う。着衣の乱れを正し、神託の間に移動する。部屋は沐浴の水場と繋がっており、さほど歩く必要も、第三者の介入もない。白の巫女の素肌を誰にも見せぬよう考え作られた構造だ。神託の間に入る。壁面、それと天井には単純ながら崇高さを備えた意匠が施されている。尊き神の御姿を表したものだ、とかつて教わった。

 ソラは祭壇の前で膝をつき、祈りを捧ぐ。

 神はあの日――首から上だけ残した異質な様で戻ってきた日――より姿を見せていない。少々眠りにつくとの言葉が最後。神の座もとい定刻になれば祈りを捧げる日々を続けるも、以降一度の導きもない。

 ソラを含むスクルヴァンの民は妄信的に神に縋っている。神託がないことは皆の心を曇らせ、不安を増幅させる。一刻も早く御言葉が欲しい、というのが住民の総意だろう。確かにその筈だ。


「…………」


 なのに。

 相変わらずの静寂にどこか安心してしまう自分がいた。

 白の巫女。最も神に近く、神の意思の代弁者。そんな自分が神を信じ切れていないなど、他の誰にも、何より自分に申し訳が立たない。あってはいけないことだ、と表情と思考を引き締めた。先日からどうにも調子が悪い。動きも、心も、何もかもが鈍い。どうやら大切なものが欠けてしまったようだった。

 部屋を出ると、巫女たちがソラの元に集まってきた。今日も神託の有無を尋ねようと迫る烏合の衆。秩序も規律もあったものじゃない。誰もが心の安寧を求めている。


「白の巫女様、本日は……」

「いえ。何もありませんでした。私たちに街をお預けになって、神はいまだ眠っておられます」

「……そうですか」


 分かりやすく身体に出す者こそいないが、落胆していることはすぐに分かった。当然だ、今の街は少しだけ平時と様子を異にしている。

 神の令により、信徒がここ聖街スクルヴァンに集う。方々から集まった人々で街はごった返したものの、聖教会が用意していた仮住まいを与えられ、神の帰還を待っていた。

 それから少し経ったある日。

 北方雪原を起点とした大災害が発生した。地上の生命を一掃する熱波は、幸いにも、スクルヴァンまでは到達しなかった。神の思し召しだと人々は歓喜した。ああ、事実、それは神の思うがままだろう。信徒集結の命を下したのは他ならぬ神なのだから。

 帰る場所を失った住人たちの受け入れは、一先ずは滞りなく進んだ。住まいは事前に整えられており、食料等の備蓄は余分にある。一時的な平穏は容易に形作られた。だが、帰る場所を失った信徒たちを街の住人として受け入れるか否かを迫られたとき、神の意思なく決めていいのかという声が上がった。

 大勢の信徒を住人として招き入れるのなら、スクルヴァンという街自体を大規模に改修する必要が出てくる。当面の生活を凌ぐだけではいけない。新たな住人のための生活を、新たに築かなければいけない。逆に信徒を切り捨てる場合、街の外で大量の死者が出ることになる。そもそも切り捨てるという判断を、神ならぬ身で下せる者がいるのか。たとえ判断したとして、素直に従うものなのか。

 思考を捨てた住人たちは、責任を背負うこともできず。

 ただ神を待つことになったのだ。

 今日も神託がないと知り、集まった巫女たちは別々の方向に散っていった。住民たちの不満を聞き、宥めることが最近の彼女らの仕事となっていた。


「……あの。ソラ様」


 巫女の一人が遠慮がちに声を掛けてくる。年若い少女だった。


「ええ、はい、なんでしょうか」

「あの……」


 少女は僅かな間だけ俯いていたが、意を決したように顔を上げる。


「人々は憔悴してきています。御言葉を待つのも限界です。白の巫女であるソラ様が命じれば、彼らは神の意思と同義に取るでしょう」

「…………」

「招き入れるにせよ、切り捨てるにせよ、貴方様の意思で判断することはできないのでしょうか? 白の巫女が決定した事項なら神も肯定するのでは……」

「……………………」

「…………、申し訳ありません……」


「いいのよ」とソラは少女に微笑んだ。少女は一礼し、走り去っていった。

 聖街スクルヴァンは神の居る街だ。故に、神を騙ることは許されない。内容の差異、必要不要の状況判断は影響しない。神と嘯いて住人を動かしたこと自体が悪なのである。少女はその罪を白の巫女に願った。本来ならば投獄、極刑に処されてもおかしくない罪過だ。

 しかし、ソラは少女を見逃した。

 処されてもおかしくないというだけで、そこに神の意思はない。判断も決定も神の手で行われるのだから、彼女は聞き届けて声を伝えればいい。

 何も考えたくない。ソラの意思による行動は彼女の責任になる。何も考えたくない。自分に意思はない。ソラに意思があったのなら、責任を背負う決意があったのなら、とうに発揮されていなければおかしい。大切なものが欠けてしまう前に。


「神よ――」


 祈りの言葉が体内で反響する。とても空虚に聞こえた。



 ×××



 数日後。祈りの儀の最中。変わらぬ沈黙にソラが安堵した直後、一切の前触れなくその声は降ってきた。


「白の巫女」

「……お目覚めですか」


 神託の間に届く尊大な神の声。神が復活したとなれば聖教会とスクルヴァンは歓びに満たされるだろう。誰も責任を負うことなく問題は解消されるのだ。


「最後の神意を授けよう」

「はい。お聞かせ下さい、神よ。貴方様の意思を」

「明日、日が昇ると同時に浄化を行う。人々は地の束縛を解かれ、天上にて真の幸福を得るだろう」

「――それは――」


 最後。地の束縛を解く。神の言葉の意味するところをソラは理解した。

 神はスクルヴァンを――どころか、人々の集う最後の砦となったこの街ごと、人類を――


「白の巫女ソラよ。神の意思を伝えよ。己が役割を果たすがいい」




 ――――――――。

 ――――、

 ――いつの間にか、夜になっていた。忙しなかった日中の時間はすぐに溶けてなくなった。

 巫女たちを介して神の言葉を住人たちに伝えた。一日をかけて周知された情報。混乱は起きなかった。反乱も起きない。思考も意思もない人形たちは、神の言うままを信じ、幸福に至れると涙した。ソラはもちろん泣かなかった。神の代弁者は感動で泣く自由など持ち合わせていないから。

 自由はなく、神の言葉に従い。

 浄化のための準備を終えて訪れた静寂。

 ……急に夜風を浴びたくなって、ソラは教会を離れた。

 街は明日の一大行事に備えて眠っている。起きている人間は一人もいない。完全に活動を停止した。暗闇に沈む景色は、一切の生者がいなくなってしまったかのようだ。寒々しささえ感じる孤独の中、ソラは大聖堂からだんだんと離れていく。居住区を回る。街を巡る。そのすべてを記憶に留めようとするみたいに。

 浄化。それが名ばかり豪勢な死刑宣告であるとソラは理解している。ソラのみならず皆分かっている。分かっていながら楽しみに眠りについている。スクルヴァンにおいて神は絶対だ。もはや洗脳に近い。死をもって幸福を得ると神が言えば民は揃って首を差し出すだろう。聖街スクルヴァンとは、聖教会とはそういうカタチで成り立つ世界だった。

 当然のことだ。

 そんなこと、ソラは誰よりも分かっている。


「…………」


 なのに。

 どうして。

 祖父の最期の言葉を、思い出してしまうのだろう。

 ふらふらと歩いているうち、ソラはスクルヴァンの端まで到着していた。スクルヴァンと外界を隔てる扉はほんの少しだけ開いていた。何も考えず、ふらふらと、夢でも見ているように不安定な足取りで門の外に出る。

 誰も、いない、荒涼と広がる大地。死を象徴するような光景。用意もなくこのまま街を離れれば、貧弱な女でしかないソラはあっという間に絶命するだろう。分かっている。分かっているのに、どうして。


「私は……」


 スクルヴァンなんかより、ずっと、素敵な場所に見えてしまうのだろうか。

 ああ、いや、そんなはずはない。スクルヴァンは理想の街だ。争いはなく、格差もなく、憎しみもない。平穏で満ち足りた生活の保障された聖域だ。頭がおかしい。何を考えている。自己否定。何も考えなくていい、と心の中で訴える小さな私。

 でも、と私は返す。どうしてか考えてしまう。本当に理想だったのか。これまでの行動は正しかったのか。責任から逃げて、何も考えなくて良かったのか。考えなくてもいいことを、考えてしまうのだ。

 私は言い訳をする。ふらふら、ぶれる視界。夢でも見ているようだ。実際に夢を見ているのだろう。街の外まで歩いてきたのも、余計なことを考えてしまうのも、全部夢だから。夢だからに違いない。

 だから、私は――

 こんなところで、誰もいるはずのない時間に。

 話し相手の幻を見てしまう。

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