第59話 回想紀行 -帝竜の堕ちた山-(中)
「だから――メリュジーヌ。一つだけ、頼みがある」
「いいぜ。言ってみろよ」
「――――」
……ウィルナーの頼みを、メリュジーヌは聞き入れた。
そして、長い長い時が経過した。
山に引き籠ってからどれほど経つだろう。
メリュジーヌは破壊活動を止めた。気ままに生き、襲うのを止めた。場所を転々として自由を謳歌していた帝竜は、一か所に住み家を定めた。破壊と争乱の中心にいた帝竜メリュジーヌは、誰にも何も告げずに隠遁した。
人類の歴史においては、彼女のそんな行動は「力の衰えを感じて逃げ出した」と記載されている。が、しかし、真実は異なる。メリュジーヌは世間との関係を断ち、研究者を守ることにした。彼と、彼の心を守ることに決めたのだ。
男の切なる願いに応じ、帝竜は姿を隠した。
その山、その洞窟にはウィルナーの研究施設がある。如何な実験も出来るよう、作り上げた。
山に引き籠ってすぐ設備を整えるべく行動を始めた。サイカ協力の下で継続的な資材経路を確保し、研究場所を作り上げた。ウィルナーは急いでいた。誰にも知られないうちに、誰にも見つからないうちに、それを生み出さなくてはいけなかった。
帝竜メリュジーヌを失わない為に、それを生み落とし、完成させなければいけなかった。
「…………」
ウィルナーはそれを見つめている。
彼の背丈ほどの機器を満たすのは濁った液体。わずかに濁っているのは、電解質や糖分、細胞が液体中に含まれているためだ。特定の体液を模した液体は、機器の中に浮く生命を感染症から保護する役割を担っている。母の腕が愛し子を抱くように。
機器の中には、ひとつの生命が浮いている。
液体中の生命は、一見すると人間に思われた。顔の作り、胴体から四肢の生え方は生まれる前の人に相違ない。
だが、生命には尾が生えている。ちょうど尾骨の位置から小さく、人間であれば存在してはならない尾のような部位が発達し始めている。同様に、額の上部には左右それぞれにコブができている。日々成長するコブは、いつか角と呼ぶほどの大きさになるだろう。
尾も角も、人間には無い。
竜の特徴だ。
「……反応なし、か」
資料に筆を走らせ、呟く。
予感はあった。おそらく作り出すこと自体はできるだろうという予感。
竜には異常な適応力がある。あらゆる場面において、理解と把握、肉体の特性変化まで可能な竜種の特徴。万物への対応。適応。
通常、別種間の受精は行われない。精に種ごとの特異性があるため、交雑は防がれる。だが、そこに適応が成されればどうだろう。竜の細胞が種ごとの特異性にさえ対応してしまうことがあるのではないか。
予感は的中し、見事竜の細胞と人の細胞は結合した。子宮相当の設備で育成を続け、育つごとに環境を変え、人らしい肉体にまでなった。
試行錯誤は不要だった。試みた者がいなかった、いや、試みる機会が発生し得なかったのだ。竜は生命体として頂点に位置し、他種を狩って生きる。他種の細胞と交わる場面などなく、故にこれまで判明しなかった。
竜と人間のハーフ。
両者の特性を継いだ胎児が、こうも簡単に生まれるのだ。
「……もう、出してもいいものだろうか」
分からない。分からないことだらけだ。
人間の胎児であれば、とうの昔に母体から生まれ育っている。竜の子であるとしても少々遅い。少しくらい動いてもおかしくないはずなのに、胎児は指の一本さえも動かさない。
生きてはいる。状況は常に記録している。胎児の身体では確実に血が巡り、生命活動が行われている。
ならば、何故。
どうして動かない。
「くそっ……」
不安になる。心配する。自分の命を掛けることには何の不安もないのに、誰でもない誰かの命が掛かっていると思うと途端に恐怖が押し寄せてくる。
未知は怖い。分からないなら試して、解決すべきだと理解している。
けれど、喪失も怖い。
怖い。
失わない為の策であったはずなのに、そこでも、また。
「…………。また悩んでんのか。難儀な奴だ」
頭を抱えていると、上方から声が降ってきた。
「メリュジーヌ。起きたのか」
「そんなに悩むのなら、一度出してやればいい」
帝竜はよく眠るようになっていた。力を蓄えている、気にするなと言っていた。
蓄えているというよりも消耗を抑えているのだ。極力拠点を離れないように、食料調達やら何やらで離れる機会を減らすために。見つかる可能性を出来るだけ下げているのだ。
ウィルナーの為に。
「お前の頼みを聞いて、オレは研究を守ってるが……じゃなけりゃ、そんなもん叩き割ってる」
胎児を囲う機器を指して、メリュジーヌは言った。
「殺す気か?」
「死んだらそれまでだろ。オレだって、お前だってそうだ」
「…………」
開けてやれ、という圧を感じる。
ただ、何も考えずに言っているのではないと感じ取れた。冷たいだけに聞こえる竜の言葉は、されどウィルナーには胎児への信頼が見え隠れしているように思えた。
「……分かった」
研究者が機器を操作する。内部を満たしていた液体が徐々に減り、代わりに空気が注入される。液体が抜けきった後、機器が開いた。
小さな身体を布で包み、抱く。
「大丈夫だ」
メリュジーヌが告げた、直後。
呼吸した。生まれたばかりの身体が、活動を始めた。
胎児の身体は順調に成長した。当初はコブのようだった角も伸び、尾も伸びた。歯が生えるにつれて牙のように尖った部分も確認できるようになった。数年経てば髪も伸び、その末端は炎のような色に変質していった。
胎児はいつしか少女となった。
だが、やはり思考や言語に不備がある。何年経っても、少女は言葉を喋ることができない。
ウィルナーは原因を探った。未知をなくすために。少女の為に。メリュジーヌの為に、言葉を喋れない理由を調査した。しかし身体に不具合はなく、異常らしい異常も見当たらない。
竜と少女と研究者の日々は、その多くが静寂の中にあった。
さらに時が経つ。
凄まじい数の人間が近づいている、との状況に置かれてもメリュジーヌは落ち着いていた。負けるはずがないという自信は損なわず、守る者がいるという意志を足して、戦いに向かった。
「拠点の場所を見つけられるわけにはいかねえ。連中を殲滅したら戻る」
日々から竜がいなくなり、洞窟には少女と研究者が残された。
少女はいまだ無言であった。
帝竜と人との戦いは激しさを増していった。メリュジーヌは時折戻りはするものの、傷が完全に癒えないうちに再び戦場へと赴いた。竜は結託しないのかと聞いた。オレは仲間を作らなかったからな、とメリュジーヌはぼやいていた。
帝竜は、次から次へと襲い来る人間たちを残らず焼き払った。死を積み上げた。力を振るった。食らい、殺し、戦った。中には勇者と呼ばれるような強者もいた。傷つけられて、傷つけた。負けるつもりはなかった。逃げるつもりもない。最強の個たる矜持をもって、人間たちと対峙し続けた。
少女は無言だった。
傷ついたメリュジーヌを見ても、一言さえも発しなかった。
長い、長い時が経つ。長く苦しい戦いだ。それほど長い時を経ても、少女は変わらなかった。言葉を発することはなく、順調だったはずの身体的な成長もいつからか止まってしまった。
ウィルナーは少女について調べ続けた。
そうしてようやく、原因らしき事象に辿り着いた。
行動ごとに脳の反応が安定しない。まともな応答ができていない。意識が形成されていないのだとウィルナーは判断した。
肉体はある、が心がない。人間と竜、どちらの要素も持つが故に、どちらの意識も生まれなかった。今はただ、欲求と本能のままに行動しているだけだったのだ。
「…………、…………」
どうすればいい。
ウィルナーは動転していた。
メリュジーヌは既にかなり消耗してしまっている。死が迫っている。逃げればいい、逃げてどうにかなるのか? またやり直すだけになるのではないか? そもそも、メリュジーヌが逃げることを肯定するのか?
今から意識を生成する方法を考える? それとも最初からやり直す? どちらも上手くいく保証はない。どちらにしても時間がない。時間がない――
「…………」
違う。
時間の問題ではない。
失いたくないのだ。メリュジーヌも、この少女も。
胎児を機器から出すべきか悩んでいたあの時点から、少女はウィルナーにとって大切な存在になっていた。研究対象としての興味。帝竜メリュジーヌの特性を残す生命体としての関心。当然、そういった要素は強く影響している。
けれど。そうでなくともウィルナーの感情は変わらないだろう。
自らの手で生み、育み、長い時を共に生きた。まるで自分の、そしてメリュジーヌの分身のような少女が失われることに耐えられない。残したいと願ってしまう。
「……あぁ」
気付いてしまえばもう元には戻れない。メリュジーヌの死に備え、メリュジーヌを失わないようにと生み出したはずの少女を、ウィルナーは別の個体として認識してしまった。
いずれかが残っているから構わない、とはならない。
どちらもかけがえのない大切な存在だ。
失いたくない。残していたい。
欠けてほしくない、のに――
「ウィルナー!」
洞窟の入り口で声が響いた。
ウィルナーは走る。どちらも失いたくないのなら逃げるしかない。メリュジーヌを言い聞かせ、発達過程の少女を連れてこの場を離れるしかない。なんとか説得する手段を、と頭を巡らせる。
「メリュジーヌ!」
研究者が見たのは、
「すまん。守り切れなかった」
骨が露出し、肉は抉れ、眼球は潰されている。血も抜け落ち、飛ぶことも、歩くこともままならない。死を前にした帝竜メリュジーヌの姿だった。
「だから――メリュジーヌ。一つだけ、頼みがある」
「いいぜ。言ってみろよ」
「私の恋を、叶えさせてくれないか」
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