第36話 癒しのひと時

 ジーヌは日が昇ると同時に目を覚まし、散歩に出掛ける。帝竜メリュジーヌであった頃から変わらない習慣だったそれは、今では頻度を落として三日に一度くらいの確率で発生するようになっていた。

 ジーヌは隣で眠るウィルナーにぶつからないよう、細心の注意を払ってテントを出る。太陽の光を浴び、体内時間をリセット。背筋を伸ばしてから、小走りで駆け出した。軽い運動を兼ねた周囲の探索に向かう。

 それからきっかり三十秒後。

 少女がテントを離れたことを確認してから、ウィルナーがテントから現れた。

 ウィルナーはジーヌについて様々なことを知っている。が、朝の時間だけは少女が何をしているか知らず、調べもしていなかった。意図的な放置である。

 少女は研究を生業にしているわけではない。ならば研究に付き合ってもらうだけ、ジーヌにはストレスがかかることになる。必然、かかった分のストレスを発散する時間が必要になるだろうとウィルナーは考えた。そうして設けたのが朝の時間だ。日が昇ってからウィルナーが目覚めるまでの間、少女は完全な自由を手にすることができるのだ。

 そんな時間であるはずの早朝に、徹夜したわけでもないウィルナーが起きてきたのには理由がある。


「さて。追いかけるか……」


 抜き足差し足忍び足。気配を消してジーヌの後を追う。

 朝の時間、何をしているか調べもしていなかった。自由な時間を与えるべきだと考えたのは確かだが、さらに言うとウィルナーはジーヌが何をしているかそこまで気にならなかったのである。

 ウィルナーは、少女を研究素体として重要に思っていた。その為に快適な生活を送ってもらうことこそ至上の命題で、ジーヌ個人が何を楽しみにして、どういった生活を送っているかは正直なところ割とどうでも良かったのである。

 だが、そんな状況はもはや過去の話だ。

 ウィルナーはジーヌのことを愛おしく思っている。好意を抱いている。好きである。彼は自身の愛情をとうに自覚してしまっている。

 そりゃあもう、好きな相手のことなら何でも知りたいと思う。

 少女は朝、どういったことをしているのか。知りたくて仕方ないので、追跡を計画した。少し前からタイミングを計っていたのだが、遂に今日、実行に移したのであった。

 ウィルナーは音を立てないよう気を付けながら、森の中に走っていった少女を追いかける。

 少女の服には昨夜のうちに極小の発信機を取り付けている、手元の受信機と合わせて少女の位置を把握することが可能だ。走って追おうものならあっという間に見つかるだろうし、見つからなくともどうせ運動能力が違いすぎて追いつけない。自分の運動機能の貧弱さには自信があるウィルナーなりの対策だった。


「いた」


 十分ほど歩いていくと、ジーヌの姿が確認できた。気付かれない程度に離れた場所から竜の少女を観察する。

 少女はじっと一点を見つめていた。視線を辿ってみると、どうやら土色の肌をした兎が隠れているようだった。地面とほとんど同化していて見えにくい。

 どうやらジーヌは兎を捕まえる気のようだ。普段は垂れ流している殺意をひた隠しにして、ゆっくりと兎の背後に近づいていく。食料の足しにでもするつもりなのだろうか。

 もう数歩という距離まで来て、ジーヌは兎に飛びかかった。兎が逃げようとするも時すでに遅し、見事少女の両手は兎を握りしめていた。

 生きたまま持ち帰るのか、あるいは焼くのかと少女の様子を見守る。


「お前は死んだも同然だ」


 少女は捕まえた兎に死を宣告すると、左腕で抱えるように持ち替えた。空いた右手を兎の頭の上に置くと、そこで手を小刻みに揺らした。撫でているらしい。撫でているのか。

 愛でている。

 少女が兎を。


「…………」


 思わぬ可愛い行動にウィルナーはどうしたらいいのか分からなくなって、とりあえず自分の胸に手を当ててみた。よく分からないが鼓動が早くなっていた。興奮しているようだ。理由はよく分からない。死んだも同然だから何をしたっていい、という理論なのかもしれないが、そこから飛び出してくるのが頭なでなでという女の子らしい可愛い行動なのが本当に分からない。心が苦しい。もしかしたら尊さを感じているのかもしれない。尊みが凄い。兎って君、ジーヌ、ずるいと思われるその組み合わせは。

 ウィルナーはいったん落ち着くことにした。

 深呼吸を繰り返す。

 途中で、枝にぶつかって音が響いた。


「ッ、誰だ!」


 とっさに木の陰に隠れる。いや、隠れる必要などないのかもしれなかったが、反射的に隠れてしまった。見つかってまずいというわけでもなかろうに。


「こっちの方から聞こえたな……」


 ジーヌが近づいてくる。それはいい。それはいいのだが、どうして警戒している様子なのに右手は兎を撫でたままなのか。違和感がとんでもない。

 ウィルナーは感情の落としどころを見出せず、どころか急に面白くなってきた。

 笑いそうになる。なんとか抑え込む。

 ジーヌの姿を窺う。

 少女は兎の頭を撫で終え、続いて背中や首を撫で回している。兎が逃げ出そうと必死にもがいていたが、少女の腕は器用に兎を押さえ込んでいた。抱かれるのがあまりに嫌そうな兎の絵面を見てしまい、ウィルナーの腹筋が崩壊した。


「ぶふっ!」

「……その声、ウィルナーか?」


 ジーヌが木を回り込み、腹を抱える研究者を発見した。


「何笑ってんだ?」

「ずっと兎を撫でているのが可愛らしくて」


 指摘されてようやく、ジーヌは撫でる手を止め恥ずかしそうに兎を解放した。最初はともかく、音の発生源を探りながら撫でていたのは無意識の行動だったようだ。

 顔を炎のように真っ赤にさせながら、少女は呟く。


「忘れろ……」

「うん? どうした、らしくもない小声で」

「忘れろってんだよォ!!!!」


 爆発超加速を利用した高速の飛び蹴りが、男の腹部に直撃した。

 忘れはしなかったが、いたずらに話題に出さないようにしようとは決意したウィルナーであった。

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