第26話 雪原の激突
先に気付いたのはジーヌだった。膝丈まで積もる雪を分け入っていこうとする猪を引っ掴み、樹の陰に隠れる。
「ナンダ……モゴゴ」
「しー! 黙れ。竜がいる」
人差し指を立て、口元に添えて「静かにしろ」とぼたんに合図。
陰からそっと様子を窺う。遠方、宙に浮かぶ影。左右の翼で自在に空を飛ぶ竜、どうやら周囲を哨戒中のようだった。
ぼたんは成長した竜の実物を見るのは初めてのようで、怯えた様子で震えていた。安心させようと背中を撫でながら、ジーヌは観察を継続する。
遠くから見ても分かる、大した強さではない。ジーヌなら二息程度で焼き払って仕留められる、と思う。問題があるとすれば、万が一にも仕留めきれなかった場合だ。もし取り逃すことになってしまえば、彼らを統べるであろう氷の竜にジーヌたちの存在が伝わることになる。それは絶対に避けなければいけない。
ジーヌはぼたんを落ち着かせ、雪原に放った。
「いいか、ぼたん。近くに竜がいるとウィルナーに知らせろ」
「ドウスルツモリ、ダ……?」
「オレは奴らの隙を探る」
避けるにしても殺すにしても、こちらだけが位置を把握できている状況は有利だ。
「急がなくていい。静かに向かえ」
「……ワカッタ」
そう言って、ぼたんは雪に埋まった。凍り付いた雪の層を掘り進んでいるおかげで、見た目ではどこを進んでいるのか気付かれることはなさそうに思われた。
少女は気配を消し、竜に近づく。足音を立てないようゆっくりと歩を進め、狙える距離にまでたどり着く。ここで手のひらを裂き、血を流し、息を吹きかければ竜に炎が向かう。真っ先に狙うべきは翼、そして喉。一息目に二か所の機能を停止させれば、移動と伝達を阻止して息の根を止めることが可能だ。
戦うか、逃げるか。
やるべきか、やらざるべきか。今ならどちらでも選べる。
少女の暴力性に従えば、逃げるという選択肢などあり得ない。竜の少女はかつての同類を殺すことに躊躇いがない。新鮮な研究素体を得るにあたっても、目の前で殺すのが最も効率的な手段だ。
そこまで考えて、それでもいまだ逃げるという可能性が消えないのは――
ジーヌは身体を震わせた。
寒いからだ。
いつしか天候は悪化しつつあり、空は晴天から厚い雲に覆われようとしている。今にも雪が降り出しそうな気配の中、ジーヌは寒さを感じていた。気温が下がったから、という単純な話ではない。雪に慣れ、寒さに適応し、ウィルナー製の耐寒装備を身に纏ってなお、竜の少女は再び寒さを感じるようになったのだ。
冷気が強まっている。
それはすなわち、原因に近いことを意味している。
氷の竜が近くにいる――故に少女は、逃走の選択を捨てきれずにいた。
「…………」
ウィルナーのいる場所からここまで、そう遠くはないはずだ。仲間たちと合流するまでにできるだけ多くの情報を掴んでおきたい。ジーヌは竜に集中し、様子を眺める。
「……にしてもアイツ、何やってんだ?」
眺めるほどに疑問が浮かぶ。竜は一匹で宙を移動し、敵を探しているように見えた。しかし、長時間眺めていると竜の哨戒には違和感が付きまとう。どうやら竜には幾つかの道順が定められているらしく、そのコースのうちいずれかを選択し、巡っているようだった。
法則性があるということはつまり、裏をかくことが容易い、ということだ。
何故そんな方法で周囲を探っているのかとジーヌは首を傾げたが、ともかく、仕掛けるタイミングを計りやすいことは確かだ。竜の背後から襲いかかれる位置を把握するべく、少女はさらに移動を繰り返す。最適と思しき地点で立ち止まり、ほんの一瞬だけ気を抜いた、
瞬間。
少女の側頭部に強烈な一撃。
太く筋肉質な竜の尾が少女を捕らえた。踏ん張ることもできずにジーヌは真横へと吹き飛んでいった。巻き込まれた木々が根元から倒れ、衝撃で雪が舞い上がる。
咆哮。獲物を仕留めた、と言わんばかりの鳴き声。
それに否定を返すように、雪の霧を火炎が払う。
「――かッ! 二匹目か!」
舌打ちをしながら現れた少女は、自分を襲ったもう一匹を睨みつける。
ジーヌが意識を向けていた竜とは別に、上空から彼女を急襲した竜。一匹を餌に、もう一匹が獲物を狩る。一匹で充分すぎるほど強かった帝竜メリュジーヌは決して行わなかった、考えもしなかった、群れでの狩りの形である。
獲物の生存を認識し、竜の一匹が飛びかかってくる。ジーヌは高速で迫る爪をわずかに身体を逸らしてかわし、両手で掴む。勢いを利用し、背負い投げるように地面へ叩きつけた。そうして飛び上がる。
動けない竜を直下に、少女は上空に向けて炎を放つ。
指向性を持った爆炎、伴って放出される空気が逆方向への推進力を生み、ジーヌは隕石のような速度で落下していく。
「ザコが! 潰れろ!」
竜の頭頂部に渾身の踵落としが直撃する。頭蓋の砕ける音が辺りに響いた。
即座に一匹を仕留めたジーヌが、もう一匹に狙いをつける。囮役の竜はすでに遠くへと逃げ去っていた。距離から見るに、最初から一匹が逃げる前提の役割分担をしていたようだ。
追いつけるか――と考えたところで、少女はそれ以前の問題に気が付いた。
方向がまずい。竜が逃げている方角にはウィルナーたちがいる。
少女の気付きと同時、竜が進路を変えた。
向かう先には愛する者の姿があった。
「………ッ」
走る。が、間に合わないことを確信する。
ジーヌが追いつくよりも早く、竜はウィルナーを襲うだろう。先ほどのような爆発を推進力に変えた高速移動は細かい調整が効かない。直線的な移動しかできず、まともな状態の竜相手では避けられる恐れがある。体当たりできればいいが、外れてしまえば簡単に勢いを殺すこともできない。
炎を吐くにしても避けられる。もし当たったとしても竜を焼き殺すには熱が足りない。距離が遠すぎる。雪原の炎では火力が減衰し、肌を焦がすのがせいぜいだろう。
突撃が当たることを祈って、賭けに出るしかないのか。
せめて、熱を加えれば燃え上がるような、燃えずに燻っているような何かがあれば――
「――――」
少女はそこまで考えて、直後、叫んだ。
「盾ェ!!!!」
竜の咆哮が聞こえた方に進んできていたウィルナーは、少女の声に危険を察知した。だが、少女の声を頭で処理しているようでは遅い。声を聞き、脳で処理し、身体に命令を下すだけの時間があれば、竜の爪は研究者の身体に到達する。
『盾』という言葉は直接的な危機を意味する言葉ではない。通常の判断能力を持つ人間ならば、その一言で危険を悟って反射的に動けるはずがない。
だから、それはウィルナーに向けた言葉ではない。
「任せろ!!!」
それは、自分を盾だと信じて疑わない奴に向けた言葉だ。
焔の男は炭化した四肢を広げ、肉の盾としての役割を全うすべくウィルナーの前に立った。いずれかを狙っていた竜の標的は立ちはだかる焔の男に固定され、刃のように鋭い爪は焔の男の身体を貫かれんと迫る。
しかし、それよりほんの少しだけ早く、ジーヌの吐いた炎が焔の男に触れた。
男の内に溜め込まれていた熱が、着火を切っ掛けにして一斉に放出される。爆発的な気流に押されて竜の爪の軌道が僅かにずれ、焔の男の胴体を掠めた。巻き上がった炎は竜の皮膚、全身を焼き、顔面に至り目を焼く。視界を失った竜は滑るように墜落し、苦痛の叫びを上げながら雪原を転がった。
炎に身を焼かれ、竜はそのまま動かなくなった。
「無事か!」
少女がウィルナーたちと合流する。
「イキテイル」
「私も大丈夫だ。だが……」
ウィルナーは焔の男を見て言った。
元から半分以上炭化していた男の四肢は、さらに焼け焦げたように肩や太股のあたりまで炭となっていた。指先にいたっては、数本欠けてしまっている。灰が辺りに零れている様子からすると、燃え尽きてなくなったのだろうか。
「呼吸はあるから生きてはいる。ただ、君の炎を受けて炭化が進んだようだね。過剰な火力を扱うほどに肉体を失うのかもしれない」
「……盾の役割は果たしたか」
ジーヌは言って、
「それよりも、ウィルナー。伝えたいことが……」
と続けようとした直後に意識が遠のく。ふらつき、倒れそうになったがかろうじて踏みとどまる。ウィルナーはそこで少女の顔を見て驚いた。ジーヌはまるで死人のような、真っ青な顔をしていた。
「ジーヌ、君の方こそ大丈夫か?」
「血を使いすぎた……」
ジーヌは炎を扱うのに自らの血を用いる。
血を流せば流すほどに火力は上昇し、血を燃やせば燃やすほどに強くなる。が、少女と成り下がってしまった彼女の身体では、流す血の量にも限度がある。
空気を爆発させることを利用した高速移動。遠距離まで届く炎の息。どちらも大量の血を消耗し、その合計量は少女の身体が耐えられる出血量の限界に匹敵していた。
意識を失うわけにはいかなかった。けれど、もはや限界だ。少女は立つことさえできなくなっていた。
倒れる寸前のジーヌを、ウィルナーが抱きかかえる。
「……近くに、奴がいる……。お前は逃げろ、ウィルナー……」
ちゃんと伝えられたかな。
確認も取れないまま、少女の意識は闇に沈んでいった。
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