第89話 凍結の心身

 分かっていたことではあった。

 神を倒す――倒せなければすべてが終わる。説明にもならないそんな少女の言葉を聞いた時点で、ウィルナーは覚悟を決めていた。根拠のない滅亡をジーヌは確信していて、だからこそ、どれほどの無理をしてでもやり遂げるつもりなのだろうと理解できたからだ。

 覚悟を決めていた、つもりではあった。


「……にしても」


 ユランの力が必要だ、と少女は言う。

 無謀が過ぎるのではないか? と竜の研究者は内心めちゃくちゃ思っていた。

 神とまともに戦ったら勝てるはずがない。だからこそ、ウィルナーは勝つための策を用意しなければいけない。まともにぶつからないよう策を巡らせ、準備を万全にし、そして研究成果の使用も検討する必要がある。ただ、ウィルナーが考えていたのはそこまでだ。ジーヌと自身、せいぜい加えてもぼたん。あとは環境、状況と、自身が誇る研究と知識だけが利用できる武器だと考えていた。

 思いもよらなかった発想である。

 一ミリの可能性さえ見出していなかった、と言い換えてもいい。

 敵の敵は味方とは言うが、氷刃竜ユランはメリュジーヌを討った人類に、そしてウィルナーに強い憎しみを抱いている。凍結あげくに粉々にされた過去を持つ男としては、とても協力関係を築けるとは思えない。


「どんな手を使うつもりだ?」

「言葉じゃ無理だろうな」


「じゃあ何を」と言うウィルナーを遮って、ジーヌは薄い胸を張った。


「力だ!」






 ……………………。

 …………。

 ……寒い。

 寒い、寒い、寒い。

 最初に発生した感情は、親の愛とは程遠い孤独に対してだ。

 触れれば折れてしまいそうな四肢。飛翔動作にさえ耐えられない強度の翼。成長の見込みがあればまだ良かった。けれど何の間違いか、その竜は育つよりも弱る方が早かった。外環境に適応するより早く細胞が衰え、死に至る。致命的な欠陥を抱えた肉体。竜としては例外的に貧弱な身体で生まれたその竜は、生を授かってからすぐに親から見捨てられた。

 竜は万事を知る。

 本能で万象を理解する。

 だから親はその竜を手放した。そいつの弱さと儚さ、価値のなさを知ったからだ。

 生まれた場所で、生まれた直後から、その竜は一人きりになった。北の平原、ただっ広い緑の丘で竜は孤独に鳴いていた。泣いて、はいなかった。自らの境遇を嘆いてはいても、それを行動に反映する余裕はなかった。泣いていれば死ぬだけなのは瞭然だ。

 寒い。

 とても、寒い。

 ずっと吹雪に晒されているようだった。寒い。つらい。逃げ場を探し、居場所を探し歩き、獣に襲われ、傷ついた。その竜はいつだって外傷だらけだったけれど、傷がどれだけ増えようと、そんなことはまったく気にならなかった。ただひたすらに寒かった。寒い。誰もいない。頼る相手も、頼れる自分も、何もない。出来ることが無い。先に見えるのは死だけ。なのに。

 ……寒い。

 寒いのは嫌だった。寒いのは怖かった。寒さから逃れたかった。けれど自分の身体にはここから飛び立つ術も、ここから逃げ出す脚も備わっていなかった。求める姿に変わるよりも先に末端から劣化していくのだから、何をしたって無意味だと思った。

 ……寒いのは嫌いだ。

 寒さは孤独で、寒さは恐怖で、寒さは死だ。竜という種族に限らず、あらゆる生物に根付いた意識。竜は寒かった。寒さにしか思い至らないほどに、寒かった。だから苦痛の日々を続けてまで生きる理由はないと判断した。

 竜は眠りに就いた。生きる気が失せたのだ。次に目覚めることがあれば、きっと死後の世界に辿り着いているのだろうと。自身には似合いの結末だと。竜は目を閉じた。

 それでも。

 竜の無意識は生存の術を模索した。

 無意識下で行ったことはシンプルだ。物事は強靭な芯さえ残っていれば成立する――命でさえも。外から崩れ落ちる肉体は諦め、骨子だけを強くした。どうやって強くしたか、も単純な話。その竜は寒さばかりを知っている。使える道具は寒さしかない。ゆっくりと、じっくりと。内部だけを寒さに適応させていった。芯だけは決して喪失しないように自らを凍結させ、迫りくる死を克服した。

 寒いのは嫌いだ。それは孤独の証だから。

 寒いのは嫌いだ。それは恐怖の形だから。

 寒いのは嫌いだ。それは絶望の記憶だから。

 それでも寒さに縋らなくてはいけない。彼が持ち得た唯一の武器だから。

 竜が目を覚ましたとき、緑の丘だったはずの平原は一面の銀世界へと変貌していた。自分がやったのだと自覚するまでに二週間。冷気を操る修練を重ねて五年。次第に氷の竜として認知されるようになる。刃のように鋭い一撃で標的の命を刈る氷の竜。氷刃竜ユラン。生まれた頃の弱さはいつしか霧と散っていた。成長を犠牲にして、竜は力を手に入れた。

 力と居場所を得た。

 死ぬだけの未来は回避した。

 ……けれど、やっぱり寒い。どうしようもなく寒い。

 氷刃竜ユランは恐怖している。絶望している。怯えている。

 彼は幼いままに停止した。自分の評点を上げぬまま、強さを手にしてしまった。死ぬだけだった自分、逃げて逃げて逃げただけの自分。親が育児を放棄するほどに価値のない自分。そんな自分よりも弱い世界ならそこに一切の価値はない。どこにも意味を見出せない。

 ……寒い。

 寒いだけじゃ、嫌だ。

 孤独を嫌がって、恐怖を嫌がって、絶望を嫌って、死んで何もかも放り出そうとして、それでもこうして生き延びてしまったことに理由が欲しい。

 温もりを知りたい。

 子供の我儘じみた願いを、ずっと抱えていた。


 キミに出会うまでは。



「ん……」


 微睡みの中にあったユランが、ゆるやかな目覚めを迎える。

 二人分の足音が最短距離でユランに向かってくる。

 荒れ狂う冷風の合間、空気溜まりの隠れ家は配下の竜たちにも場所を教えていない。凍える風が行く手を阻む、自然の要塞だ。氷刃竜ユランをよく知る相手でもなければこうも容易く辿り着くことなど叶わない。

 だから、足音が誰のものかはすぐに分かった。


「メリュジーヌ、の残りカス。それと、……ウィルナーとかいう人間かな。何故ここに? 何をしに来た?」


「いや……」と呟いて、首を振る。


「どうでもいいや……どうでもいい。壊そう。殺そう。ボクの温もりは失われてしまったんだから」


 足音から距離と位置を掌握する。

 極寒の気流に翼を乗せ、弾丸のように自らを射出した。

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