第82話 復讐の時
孫のソラに連行され、老人シドは自室に戻ってきていた。「じゃ、また後でね」と言い残してソラは部屋を出ていった。白の巫女である彼女に余暇は多くない。
一人になった部屋で、盲目の老人は嗤う。
「竜が来る! 神が出る! か!」
それすなわち、老人の計画が発動する時も近いことを意味している。
聖体を守る強固なセキュリティ。今でこそアクセスは不可能だが、竜が攻めてきた暁には必ず穴が生じる。そこを突いて、先んじて人工意識を植え付けるのだ。
チップを胸元から取り出す。
二センチ四方にも及ばないこの小さな回路上に、意識が再現されているという。
スクルヴァンを訪れた二人組――研究者ウィルナーと少女ジーヌ――より預かった複製意識。メリュジーヌの意識データが内蔵されたこれを聖体に組み込むのだ。すると意識を取り戻した聖体、蘇った帝竜メリュジーヌは、その苛烈さで聖街スクルヴァンを焼き尽くす。
聖街は消滅する。
神は滅びる。
シドの目的が果たされる。
「……楽しみじゃ。楽しみじゃのぅ……」
夢見る少年のような表情で部屋をうろついた後、思い立ったように本棚に手を掛けた。ほんの僅かに横へずらし、それから収納してある本の場所を入れ替える。差し替えた本を棚に押し込むと、本は棚を貫き壁に突き刺さる形で収まった。
「よしよし」
歯抜けになった本棚を、改めて横に引く。
本棚のずれと連動するように床の一部が持ち上がり、地下への道が開いた。
「楽しみは確認しに行かんとなぁ」
シドの姿が地下道へと消えていく。ほどなくして壁に埋まった本が、次いで本棚と床の扉が元の位置に戻り、最後に壁に埋まった本の残りが復帰する。シドがいなくなったことを除いて、部屋が完全に元の状態に戻った。
のち、扉を叩く音。
「そういえばおじいちゃん、一つ言い忘れてたけど――」
無人の部屋を見て、ソラは頭を抱えた。
×××
苔だらけの地下道に老人の足音が響く。
地下道には灯りがない。夜より深い闇に包まれている。
それでもシドが平然と歩いていけるのは、彼が地下道の構造を完全に網羅していることが理由として挙げられる。彼はかつての立場において、存在を気取られぬよう多くの場所を回る必要があった。今はもはや放棄され、住人の記憶からも抜け落ちたこの地下道は彼専用の通り道だ。
そして、理由はもう一つ。
シドは視力を失っている。失っている以上、灯りの有る無しに影響を受けない。彼は音で世界を掌握している。
老人は、よく笑う。
相手に気味悪さを感じさせ、近づきたくないという印象を与える目的もあるが、そちらはあくまで副次的なものだ。本来の目的は音の反響による外界知覚。反響定位と呼ばれる音による物体の位置特定はいくつかの動物たちが可能な能力だが、シドもその能力を身につけている。
笑い声、足音、周囲の水音。
周辺の音を頼りに、シドは視覚に依らない探索が可能なのだ。
「ひぇっ、へへ……」
ただ、もちろん、そういった能力は視覚と合わせることでなお一層の力を発揮することが可能なものだ。元々は、目が見えないという不利を補うための役割ではなかった。
開けた視界、と、音で聞く世界。
元々の気配の薄さと合わせ、二つの感覚で周囲を掌握し動ける人間は一般人とは異なる遥か高みにいた。少し違えば、勇者と呼ばれていたかもしれないほどに。
「へっ……」
迷路じみた細道を曲がり、崩れかけの石をどかすと目的の地下施設へと到着する。以前ウィルナーとジーヌを連れてきた道ではない、彼だけが把握する道だ。
極寒の地下施設を進み、聖体――メリュジーヌの亡骸のもとへ。
欠損した肉体は完全に機械部品に取って代わられ、少なくとも外見上は完成しているように見える。動作に問題はないだろう。
聖体。神の半身。
竜が攻めてきたときに、神はその力をもって撃退するという。
神の力とは、要するに
神は、自身の意識をメリュジーヌの肉体に埋め込み、動かそうとしているのだ。
メリュジーヌの肉体を利用してこの世に君臨しようと目論んでいる。
だが、そのタイミングこそセキュリティに穴が開く。メリュジーヌの人工意識を介入させるとしたら、そこ以外にはあり得ない。神の代わりに帝竜を蘇らせ、街ごと神を消し去ってやる。
「上手くはいかせねえさぁ……」
意思のない民衆は、竜の亡骸を操る神を見ても一切の疑問を抱かないだろう。ただ神を崇め、自分たちを守ってくれることを信じ、縋るのみ。
そんな景色、まったくもって馬鹿げている。
シドは聖街スクルヴァンが大嫌いだ。
ある日を境に、大嫌いになった。
殺してやろうと思うようになった。滅ぼしてやろうと。
神の威光という幻覚に惑わされた盲目の民。真面目に、真っ正直に、信じることだけが正しいと洗脳された巫女たち。神。シドの大切なものを奪った神。その言葉。
シドはそれらを何も信用していない。
街の誰もを信用せず、愚か者を演じ続け、復讐の時を待った。手段は手に入れた。時期も迫っている。実現の時は近い。周囲の何もかもを信じなかった故に時間は掛かったが、信じなかった故にここまで辿り着くことができた。
「なぁ、ジーヌよ。ウィルナーさんよぉ……。わしはここまで来たんじゃ。やっとな」
彼は、自分だけを信じている。
かつて自分が見た光景を信じている。
意思籠ったあの光景を、時折瞼の奥に見る。
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