(010)   Area 32 After the storm 戦いのあとで

 --戦いのあとで--#カイ


 僕たちが北田さんと落ち合うのを空が待っていてくれたかのように、北田さんの黒のワンボックスカーに乗り込むと同時に、大粒の雨が降り出した。僕たちは、しばらくの間、行き場を失ってしまったかように、誰も何も言わず車の中で黙っていた。


   ◇     ◇     ◇


「出発するね」


 雨の勢いがおさまり、小降りになって来た頃、北田さんがぽつりと呟いて、車を発進させた。


「どこに向かっているんですか?」

「まずは、特別開発地区外に用意した隠れ家に身を寄せるつもりだ。しばらくして、騒ぎがおさまった頃に、それぞれが行きたい場所に行いけたらいいと思っている」


 一日の疲れが出て来たのだろう、三列目の座席から、リクとミエの寝息が聞こえてきた。レインもリクとミエの間に丸くなって眠っている。僕と博士は二列目に座っている。しばらくすると、僕もウトウトし始めたが、完全に眠りに落ちることはなかった。


   ◇     ◇     ◇


 車を走らせて小一時間経った頃、博士が独り言のように小さな声で僕に問いかけてきた。


「カイ、どうして千波は、MCUにあんな小細工を仕掛けてまで、MCUを完成させたんだろう……」

「母さんは、あなたのためにMCUを開発していたけど、もしも不備があった場合や、悪用されてしまった場合に、MCUを複製できないようにしたかったんです」


 僕は、自分でも驚くほど、淀みなく明瞭に答えた。


「カイ、いつそんな話を聞いたんだ?」

「僕は物心つく前からに、MCUやMCPに関することを子守唄や昔話のように母から聞かされていたんです。僕が胎児の頃は母はいつも、『カイ聞こえる?』と言って、いろいろな話をしていました。きっと、自分と同じように僕の耳がいいことを感じ取っていたんだと思います」


 博士は目を見開き、息をしていないのではないかと思えるほど、静かに耳を傾けている。


「母さんは、あなたと話がしたかった。母さんは、あなたはいつも無口で心を閉ざしていたと僕のひいおばあちゃんから聞いていました。ひいおばあちゃんも僕や母さんと同じように耳がよかったから、聞かなくてもいいことや知らない方が幸せなことをたくさん聞いて生きていた。


 ひいおばあちゃんは、あなたについての噂もたくさん耳にしていた。あなたは、開発者として、家族にも同僚にもばらしてはいけない国家機密レベルの機密事項を数えきれないほど抱えて生きていたことを知っていた。


 あなたが、自分という人間がそばにいるせいで、家族を危険な目に合わせてしまうかもしれないという思いに囚われて、家族との距離を取っていたことにも気がついていた。母さんはそんなひいおばあちゃんから、あなたのことを聞いて、あなたのことを知りたいと思ったんです。


 母さんはあなたを救いたかった。一緒にいるのにまるで同じ場所にいないかのようにして生活していたあなたが、本当はどんな人で、どんなことを望んでいたのか聞いてみたかった。そして、あなたの心を自由にしたかったんです。


 ただ、あなたに笑って欲しかった。あなたの辛い記憶を消して、たわいもない事について、楽しく話をしたかっただけなんです。


 博士。ひいおばあちゃんは、あなたが自分自身を凍結したことを知っていたんですよ。


 そして、凍結が解ける日のことも知っていた。あなたはすべてを欺いて、家族の前から姿を消したつもりだったかもしれないけれど、ひいおばあちゃんは、あなたの凍結が解ける前の年に亡くなるまで、あなたの帰りを、凍結が解ける日を何十年も待っていました」


「そんな……。そのことを千波はずっと知っていたのか?」

「うん。知っていたよ。それに、あなたが解凍された後、姿を消したことも知っていた。でも、なぜかな、僕も母さんも、あなたと出会った時、あなたが門崎雲海だとは思わなかった。もしかしたら、ひいおばあちゃんの話から、あなたが無口でかたくなな人だと想像していたからかもしれない」


 博士は何も言わず、僕の目をただ見つめている。


「母さんは、あなたが生きていると信じていた、だから、母さんは研究をやめなかった。亡くなったひいおばあちゃんの夢を叶えたかったんだ」


「夢?」


「そうだよ。夢」


「ひいおばあちゃんは、あなたを自由にしたかったんだ。余計な記憶を消して、ただ出会った頃のように笑って欲しかった……」


「そっか、千波が、どうして記憶制御装置をあれほど求めていたのか、私にはわからないはずだ。まさか、私のために作ってくれていたなんて。そのせいで、千波が苦しむことになるなんて……。もっと早く、自分のことを千波に伝えるべきだった。もっと早く気づくべきだった」


「おじいちゃん。人の気持ちなんて、わからなくて当然だよ。悪意なんてなかったんでしょ?それでも、お互いのことを思っていたからこそ、あなたは姿を消したし、ひいおばあちゃんはあなたの帰りを待っていた。そして、母さんはひいおばあちゃんの夢を追い求めた。

 その結果がMCUだっただけだよ」


   ◇     ◇     ◇


 雨が強さを増してバチバチと窓に降りつけてくる。


 僕の中にある記憶はまだちぐはぐで、オヤジさんの食堂に連れて行かれた日、車で目覚めるまでに何があったのかは、いまだに思い出せない。


「博士、四月八日に何があったのか教えてください。僕はあの日、第四脳科学研究所のMCUで記憶制御されたんですか?」

「まだ記憶が曖昧なのか?」

「色々思い出してきたけど、どこまでが夢や想像で、どこからが本当にあった出来事か、わからないんです」

「そうか。単刀直入に言うと、記憶制御されたかはわからない。

 四月八日、私がカイを食堂に連れて行く数時間前、カイは第四脳科学研究所のMCUのキャスケットに入っていた。その時、停電が起きて、カチカチとMCU内の照明が瞬いたんだ。

 MCUは非常電源にが切り替わり、しばらくするとキャスケットが開いた。通常は、制御室ですべての工程が完了したか確認するんだが、あの時は、警備員が確認に来る前に急いであの施設から逃げ出す必要があったから、ちゃんと記憶制御が完了したのか、それとも記憶制御が始まる前の段階ですべての工程がキャンセルされたのか、確認することはできなかった。

 それでも、車の中で目覚めた君は明らかに様子がおかしく、私のことも覚えていない様子だった。だから私は記憶制御が完了したのだと——そう、思い込んでいたんだ」


 僕は驚きはしなかった。ただ、僕の記憶にはぽっかりと穴が空いていて、その穴は今の僕には埋められないように感じていた。それでも、事実だけは知りたいと思った。


「あの、母はもう死んでいるんですよね……」


 答えを聞いてしまったら、本当のことになってしまう。けれど、聞かずにはいられなかった。できれば、このまま消えてしまいたかった。事実を知らなくて済むのなら、ここで人生が終わるのもそう悪くないと思うほど、僕は母さんの死を恐れていた。


「……ああ、そうだ」


 今までに見せたことがない深い悲しみが、博士の声に滲み出ていた。わかっていたのに涙が溢れた。


「オヤジさんは、僕の父親なんですよね」

「思い出したのか?」

「いいえ……父さんのことは、断片的に思い出してきていて、でも、顔を思い出せないんです。だから、なんとなく、そんな気がしていただけです」


 僕は、ずっと右手の人差し指にしていたオヤジさんのシルバーの指輪を、左手の親指と人差し指で、無意識のうちに回していることに気がついた。そっか、この指輪に刻まれている 『S to C』のSは総司のS、Cは千波のCだったんだ。


 車は、山に挟まれた古い高速道路を走り抜けていく。特別開発地区にいた時のような街の喧騒は、ここにはない。


「どうしては博士のタブレットをオヤジさんが、父さんが持っていたんですか?」


「私が総司にあげたんだよ。総司だけは、私が門崎雲海だと知っていたんだ。

 総司が私の正体に気づいたきっかけは、今から二年ほど前に、私があのタブレットに保存してあった千波の幼い頃の写真を総司が偶然見てしまったことにある。

 凍結体としての眠りから覚めた後、神作仁という名で偶然を装って総司と出会ってから、私と総司は思いがけず友人となった。そして、総司の友人として千波やミエ、カイを見守っていた。

 本当はずっと、友人として総司と関わり続けたかったが、千波の幼い頃の写真を総司が偶然見てしまったため、無理に正体を隠し続けて総司に疑われたままでいると、千波にまで正体がバレてしまうかもしれないと思い、総司だけには私が門崎雲海であることを知らせたんだ。その時、総司は淡々とその事実を受け入れて、私の気持ちを尊重して、千波には私のことを伝えず、そのまま友人として接してくれた。

 タブレットを総司にあげたのは、千波が死んでしまった直後だよ。

 総司は自分が長年家族をないがしろにしたり、極端に自分の価値観を押し付けてしまっていたと悔やんでいた。特にミエやカイが幼い頃は、自分の理想だけを二人に押し付けて、愛情を持って接することができず、二人と関わることからずっと逃げていたと言っていた。総司は家族が崩壊してしまった後に過ちに気がついたと言っていた。本当に不器用な男だった」


 博士は感傷的になるということもなく、淡々と語り続けた。僕には、博士が俯瞰ふかんして今までの自分を振り返ることで、精神的に崩れないようにしているように見えた。


「でも、私も総司のことを責めることはできないな。私も結局、いろいろなことを言い訳にして、家族を蔑ろにしてきた。私はずっと身を隠すことによって大切な人たちを守っているつもりだった。でも、結局誰も、幸せにできなかった。あの時どうすれば妻や娘をもっと幸せにできたんだろう。どうして、凍結体となって大切な人の目の前から消えることしかできなかったんだろう……」


「博士。僕はひいおばあちゃんや母さんの気持ちをすべて代弁できるとは思わない。だけど、僕は、二人は、僕とひいおじいちゃんがこうやって話をしていることを喜んでくれると思うよ」


 博士が、ひいおじいちゃんが、時間を失って、家族を失って、喪失感を抱えて、一人で生きてきたことを思うと、僕はもう、ひ孫の僕が、ただこうやって、今一緒にいられるだけでも奇跡なんじゃないかと思えた。


 北田さんは、博士と僕の会話をどこまで聞いているのだろう。もしかしたら、車を自動運転にして眠っているのかもしれない。


 窓の方を向いた博士が、どんな表情をしているのか、僕にはわからないけれど、大柄の博士が妙に小さくなったように感じた。


   ◇     ◇     ◇


 雨が小雨に変わる。脳科学研究所から遠く離れた場所を走っているんだと思ったら、緊張がほぐれてきて、気がつくと瞼をつぶっていた。


 僕は不思議な夢を見た。


 母さんが僕に呟いている。

 楽しかったことや、もっと一緒にしたかったことを……。

 僕は壊れていく母さんを救うことができない。

 僕は自分を壊すことしかできない。

 私のことなど忘れてしまってもいいから、幸せになってと、母さんは言って、

 僕は忘れたくないと叫んだ。

 僕はMCUの中にいる。

 瞬く光に飲み込まれて、僕は僕のことを忘れた。

 白い空間に置いてけぼりで、僕は目覚めることができない。

 僕を運んでいる人が誰かわからない。

 いや、今ならわかる。博士が僕を連れていく。

 暖かい場所へ、柔らかな光のなかへ。

 オヤジさんは無条件に優しくて、ミエは僕の頭を撫でた。

 母さんは誰よりも笑顔でいる。

 天国かな?

 いいや、ここはただの夢。

 覚めたら、もう父さんや母さんはいない。

 僕は失ってしまった。

 僕は二人を取り戻したかった。


 目覚めると、空がほんの少し明るくなっていた。あと数分で朝日が昇ってくるだろう。

 こうして僕らはまた、今日という日を生きていくのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る