(099)   Area 3 Sea オヤジさんと海

 --オヤジさんと海-- #僕


 翌朝目が覚めても、体はまるで借り物のように自由がきかず、鉄の塊ようにズシリと重たくて、僕はベッドから出ることができなかった。それから三日三晩、僕はまるで一度も眠ったことが無いかのように、最低限の食事する以外はずっと、まさに泥のように眠り続けた。


 仕事もせずに眠ってばかりいてはいけないと、目を覚ますたびに体を起こしてはみたが、結局目眩がして座り続けることすらできなかった。


 僕の体は、まるで何年も使っていなかった機械のように、すべての関節がギシギシと音を立てて、まったくと言っていいほど使い物にならなかった。


「すみません。何の役にも立てなくて……」僕は申し訳なさすぎて、食事中に俯いて言うと、永薪えいまきさんは「気にするな」とだけ言って、食器を片付けると、一人黙々と仕事を続けた。


 部屋の天井を見つめながら、何でこんなに弱いんだろう、どうして何もできないんだろうと自問自答した。けれど、体が動かない事実は変わらず、考えれば考えるほど余計に惨めになるだけだった。


 それでも、四日目の午後には数時間は起きていられるようになり、それから数日すると、部屋から出て食堂のキッチンの奥の椅子に腰掛けながら、永薪さんの仕事を眺めていられるようになっていた。


   ◇     ◇     ◇


 永薪さんの店に来て、あっという間に十日間が過ぎた。


 その頃には、朝から晩までほぼ一日中、永薪さんについて回れるようになった。——とは言っても、役に立っているとはお世辞にも言えない状態で、永薪さんの後ろをついて回る僕の姿は、生まれたばかりの雛鳥が親鳥を追いかける姿と大差なく、どちらかというと足手まといになっていた。


 それでも、じっとしていられず、四六時中永薪さんについて過ごした。そんな生活を数日続けると、日々の仕事の流れがある程度頭に入ってきた。


 早く仕事に慣れて役に立ちたかった。


 けれど期待とは裏腹に体調がなかなか良くならず、全快には程遠かった。簡単なことさえまともにできず悩んでいた僕に「少しずつ慣れていけばいい」と永薪さんは繰り返し、何度も言った。


 どうして会ったばかりの赤の他人に対してそこまで寛容でいられるのか、僕には不思議でならなかった。


   ◇     ◇     ◇


 永薪食堂のある商店街は、DA3の中でも特に古い東側のエリアにあった。


 商店街は昔は賑わっていたのだろうけれど、今では閑散としていて人通りもまばらだった。

 実際、ほとんどの店のシャッターは下りていて、もう何年も営業していないようだった。細々と営業している幾つかの店も、お世辞にも繁盛しているとは言えない様子で、店内に客の姿を見ることはほとんどなかった。


 そのさびれた商店街のはずれにあるとは思えないほど、永薪食堂は活気に満ち溢れていた。


 特に毎晩の八時ごろは、仕事帰りの常連客がひっきりなしに出入りし、繁華街の店のように賑わっていた。食堂の閉店時間は特に決まっておらず、ここに来る誰もが、急かされることなく食事を楽しんでいた。


 常連のお客さんは皆、永薪さんのことを、オヤジさんとか、永薪のおやっさんと呼んでいた。

 僕は始めの頃は永薪さんと読んでいたけれど、なぜかしっくりこなくて、オヤジさんと呼ぶようになった。


 オヤジさんはいつもどっしりと構えていて、波風を立てない静かな海のような人だった。


 けれど、ふとした瞬間に寂しそうな顔をすることがあった。その顔を見るたびに、僕の頭には、この店に来た日にオヤジさんが呟いた『もういないんだね』という言葉が蘇ってきた。そして、僕は知らず知らずのうちに悲しい顔をしてしまっていた。


 ただ、自分のことは案外わからないもので、ある日「どうしたんだ、そんな顔して」と、オヤジさんに言われるまで、自分が悲しい顔をしていたなんて気づきもしなかった。


 オヤジさんの表情が僕の気持ちを映す鏡だったのか、僕の表情がオヤジさんの気持ちを映す鏡だったのか、今となっては知る由もないのだけれど、思い返すと、いつも二人揃って同じような表情をしていたように思える。


 嬉しい顔も、悲しい顔も、ホッとした顔も。誰かと一緒に暮らすって言うことは、ものだけじゃなくて、感情も分け合っていくものなんだと思う。


   ◇     ◇     ◇


 永薪食堂での生活は、初めは何もかもわからないことだらけで、記憶を失った僕には、日常をそつなくこなすことさえ難しく、戸惑うことばかりだった。けれど、オヤジさんや常連のお客さんのおかげで、少しずつリズムをつかんで慣れていくことができた。


 オヤジさんはキツイ見た目とは真逆で、どこまでも温厚な人だった。


 決して、高圧的な態度をとられることはなく、叱られたり急かされることもなかった。忙しい毎日だったけれど、辛い思いをすることはなく、不満に思うこともなかった。


 食堂だけでなく、僕の為に用意された二階の洋室も、とても気持ちよく過ごしやすい部屋で、近所からの騒音もほとんど聞こえず毎晩よく眠れた。


 僕は毎日、朝から晩までほとんどの時間をオヤジさんと共に過ごした。

 仕事を手伝い、ご飯を一緒に食べて、何気ないことで笑った。


 僕の生活圏は狭く、基本的に商店街を出歩くだけで、遠くに出かけることはほとんどなかったけれど、店はに常にお客さんや食材の配達の人が来るので、世の中から孤立したように感じることはなかった。


 もちろんMCPである以上、自分の意思で勝手にDA3を出ていくことは許されていなかったが、食堂での生活は自由で楽しく、特にここを出て行きたいとも思わなかった。


 店に来るお客さんは無口な人が多くて、食堂で働き出したばかりの頃にも、僕に素性や過去を問いただすようなことをする人はいなかった。


 それでも働き出してすぐの頃に、当然と言えば当然なのだが、常連のお客さんに名前を聞かれた。僕が困って黙っているとオヤジさんが、

うみだよ。無口なやつでね』

 と言って僕の肩をトントンと叩いた。それからは、みんな僕のことを海と呼ぶようになった。


   ◇     ◇     ◇


 食堂での平和な日々の中で、僕には二つ気にかかっていることがあった。


 一つ目は、僕がここにやって来た日にオヤジさんが言った言葉の意味についてで、あの日、僕が名前を聞いた時、オヤジさんはどうして『もういないんだね』と答えたんだろう? 僕の質問が聞き取れなかったのかな? それとも、オヤジさんは何か別のことを考えていたんだろうか? とふとした瞬間に考えていた。


 誰にだって表と裏の顔があるのだろうけれど、時々目にするオヤジさんの寂しそうな表情は痛々しかった。でも、その理由やオヤジさんの過去について聞くことはできなかった。


 聞きたいことは山ほどあるのに、上手く話を切り出すことができないまま、時間だけが過ぎていった。


 時間というのは残酷だ、問題が解決できようができまいが、一定の速さで流れていってしまう。僕にはその速度が早すぎてついて行けず、どこかに独り取り残されたような感覚に囚われていた。


 時の流れは僕に味方してくれないんだろうか?


 もう一つ気にかかっていたのは、写真についてだった。

 これは食堂で生活にも慣れて、周りのことが目に入るようになった頃に気がついたことだけれど、オヤジさんの家には写真が無かった。


 一階の食堂にも、二階のどの部屋にも、一枚も見当たらなかった。


 家の中には古い時計や年代物の家具が並び、何年も、何十年もの時を刻んできたかのように感じられるのに、オヤジさんという存在だけが、まるで突貫工事で作り付けられたかのようにどこか不自然で、僕は少なからず違和感を覚えた。


 もしかしたら、時の流れについて行けずに取り残されているのは、僕ではなく、オヤジさんだったのかもしれない。


   ◇     ◇     ◇

 

 僕はこの頃、この街には多くの回復者が住んでいることを知った。 

 この街は、過去を捨てた人や過去を疑う人でできていた。

 この街にいると、ふとした瞬間に寂しさを感じた。


 それでも、目まぐるしい日々に流されている方が心地よかった。

 面倒なことやわからないことは考えないようにして、後回しにしていた。


 今思えば、その頃から頭の中は疑問だらけだったのに、気が付かないふりをしていた。

 考えないほうがいい気がしていた。

 いや、たぶん知ることが怖かったんだ。


 どうして向かい合うことができなかったのか、話を切り出すことができなかったのかと、悔やんでも悔やみきれない。

 

 だけど、あの時の僕は、自分自身と戦う強さを、まだ持っていなかったんだと思う。


 気が付くと、季節は春から夏に移り変わろうとしていた。

 

 その頃の僕は、知らず知らずのうちに、夢を、かすみを、現実と取り違えてしまっていた。

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