(051)   Area 19 Twisted バイアス

 次の瞬間、舵の目が再び開き、僕の視界にタブレットの画面をスクロールしている舵の手が映った。


 MCS社(メモリーコントロールサービス社)に関するニュースを調べているようだが、どれも会社のサービスや株価などありふれた情報ばかりで、事件がらみのものはなさそうだ。


 少し離れた距離でドアが開く音がした。舵が目線を上げた先には凪が立っている。


 どうも、どこかの家のキッチン兼ダイニングルームにいるようだ。テーブルの上には医学書が積まれている。おそらくドクターの家にいるのだろう。


「おはよう」


 凪はか細い声でそう言うと、ダイニングテーブルを挟んで、舵の向かいにある椅子に腰掛けた。


「ドクターに聞いたら、ここにいるって言うから。あの、昨日のこと、ちゃんと話がしたくって」

「……そうか。昨日は怒鳴ってすまなかった」

「私こそ、取り乱してごめんなさい」


 そう言って頭を下げた。凪はの声は掠れていて、か細く消えてしまいそうだった。


「おとといの昼過ぎ、私は一人でMCS社に行ったの。何年も前から考えていたことだった。記憶を消して、どこかの農場で人生をやり直そうって思ってたの」

「やり直すって。凪はまだ十九歳になったばかりだろう? 一体何があったんだ? 今までだってずっと三人で一緒に乗り越えてきたじゃないか」


 舵の言葉に凪は眉をしかめた。


「舵は何もわかってない。私は子どもの頃からずっと両親が残した痛みを背負って生きてきた。私はずっといらない子だった。私はあの時死んだほうがよかったのよ」

「そんな……」

「でも今はそんなことを言いに来たんじゃない。私は昨日、記憶を消した後に一人でこの街を去るつもりでいたの。だけど、MCS社に入ろうとした時に帆澄が後ろから追いかけてきた」


 凪は深く息をつくと一瞬んだけ目を閉じ、呼吸を整えて話を続けた。


「どうして帆澄にバレたのかわからない。私、記憶を消したいなんて帆澄に一度だって言ったことなかった……。

 でも、帆澄は感の鋭い子だったから、ずっと前から気づいていたのかもしれない。私が十九歳になって記憶制御に保護者の同意が必要じゃなくなってから、帆澄は特に警戒していたんだと思う」


 舵は自分が誰よりも理解していると思っていた二人が、自分の気づかないところで悩み苦しんでいた事実に、胸を押しつぶされそうになっていた。


「目の前に現れた帆澄は、必死で記憶を制御しないように私を説得してきた。

 記憶を制御しても、本当に消し去ることはできない。

 たとえ記憶を制御して思い出せなくしても、起こってしまった出来事を変えることはできない。

 過去をうやむやにしてしまったら、自分が何者なのかわからなくなって、すべてを信じられなくなるって……」


 ここで凪は言葉を止めると、この部屋に入ってきて凪は初めて舵の目を見返した。


「帆澄は真剣だったのに、あの時の私は、どこかで聞いたような、帆澄と舵のお父さんとお母さんが喜びそうな、教科書通りの言い回しだと思った。

 帆澄は幸せだから、そんなこと言えるんだって思った。

 だから、帆澄がどれだけ真剣に私に向かい合ってきても、私は帆澄の言葉をまともに聞きもせずに、『もう十分苦しんできたんだから、いいでしょ』って言って帆澄を突き放してしまった。

 帆澄の言葉を素直に受け入れられたらよかったのに、昨日の私には受け入れるどころか、まともに聞くことさえできなかった……」


 凪の手が震えている。凪は開いた手の平をじっと見つめていたが、耐え難い苦しみを抑えるようにその手を強く握りしめた。


「そして、帆澄が掴んできた手を私は振り払ってしまった。その時、私と帆澄のやりとりを傍観していたMCS社の警備員が帆澄の腕を掴んでMCS社の中に連れ込んでいってしまった。

 私は警備員を追って中に入ろうとしたけれど、なぜが警報音もなく静かにドアがロックされて、建物内に入れなくなってしまったの」

「外に一人取り残された時、初めて気がついた。私はずっとMCS社に、はめられていたんじゃないかって」

「はめられていた?」


 舵が凪の顔を覗き込む。


「自分が引き起こしたことを正当化したいわけじゃない。言い訳もしない。私が悪かった。

 だけど、ずっと前から……。正確に言えば、一年くらい前に政府の実施しているアンケートに答えてから、私宛に毎週MCS社から宣伝のメールが来ていた。ありふれた企業の宣伝メールだと思った。だからずっと気にもとめていなかった。

 でも、十九歳の誕生日がくる数週間前に、懸賞の応募に関するメールが来たの。内容は、毎月一名に記憶制御サービスを無料で提供していると言うものだった。

 応募資格は十九歳以上、エッセイと面接による審査を通過したものにサービスを提供すると記載されていた。公式のサイトにも同じ内容が載ってたから、怪しいなんて思わなかった。

 私は何年も前から記憶制御に興味があったけど、サービスを受けるには何年もかけてお金を貯めないといけなかった。だけど、私は今すぐにでも記憶を消したかった。だから、駄目元で応募したの。そしたらあっという間に審査を通過して、サービスを受けられることになった」


 凪は今まで何があったのか、一つひとつを辿りながら話していった。


「どうして、俺は……何も気が付かなかったんだ」


 舵はここ数ヶ月間、凪や帆澄、そしてその周りで起きていたであろう変化に、まったく気が付かなかった自分に苛立ちを覚えていた。


「私、みんなに反対されると思ったから、懸賞に応募したことも審査を通ったことも誰にも話さなかった。なのに、帆澄にバレて後をつけられていた。その上、帆澄がさらわれて記憶を制御されてしまうなんて……」


 言葉に詰まってしまった凪の代わりに、舵が続けて言った。


「……話が不自然すぎる。明らかにMCS社は凪を囮につかったんだ。MCS社は帆澄が記憶制御の反対派の子どもだから——帆澄が記憶制御を望んだと噂が広まれば、世間への影響力も大きいから——さらって記憶をコントロールしたかった。

 でも、帆澄は用心深い。幼い頃からそう簡単に人を信用することはなかったし、一人で行動することもなかったぐらいだ。すべては帆澄を誘き出すために仕組まれたことだった……。そう考えた方が自然だ」


 そこまで言うと、舵も押し黙ってしまった。


 数分後、凪が泣き崩れそうな声で沈黙を破った。


「帆澄の記憶から私が消えてしまうまで、私はどれだけ私の周りの人を傷つけるようなことをしようとしていたのかわかってなかった。舵、私は今まで私を支えてくれていた人たちに、帆澄と舵のお父さんとお母さんに合わせる顔がない……」


「父さんと母さんは、凪を責めたりしないよ」


 舵は消え入りそうな小さな声で優しく呟いた。



 僕の視界が曇り、少しずつフェードアウトしていく。


   ◇     ◇     ◇


 その後、数週間かけて、ドクターは帆澄に残っている記憶を慎重に探っていった。


 その様子が、舵の目線を通して、早送りの映像のように次々と僕の視界に映し出されていく。


 何度も何度も泣き叫び、怯え、震える帆澄にドクターは根気強く慎重に向かい合った。


 結論から言うと、帆澄には恐怖以外の感情は残っていなかった。


 帆澄がMCS社(メモリーコントロールサービス社)に提出したとされる同意書によれば知り合いの記憶は完全に消されているはずなのに、ドクターのような例外、つまり記憶が消えていない人物が数人存在した。


 例外となっていたのは過去に帆澄に危害または恐怖の感情を与えたことのある人たちで、それらの人たちのことだけを帆澄ははっきり覚えていた。


 帆澄はドクターと仲が良かったが、病院での治療に関しては別だった。


 帆澄は注射や消毒を酷く恐れていて、予防接種や採血のたびに気絶したほどだった。


 だから、ドクターの記憶は消えなかったのだろう。そしてなぜか、記憶は消されているのに、今まで親しくしていた人、心理的に距離が近かったと思われる人であればあるほど、帆澄は怯えるようになっていた。


 つまり、帆澄は単に知り合いに関する記憶を消されたのではなく、恐怖に関する感情だけが意図的に残されたのではないか——つまり、恐怖の感情を残すために施した何か特殊な操作によって恐怖と強く結びついた人物の記憶が残ったのではないか——とドクターは推測した。


 そして、恐怖以外の感情が制御され押さえつけられた状態である帆澄は、以前からの知り合いに向き合った時、親しかった人であればあるほど唯一残っている感情である恐怖心が強く掻き立てられてしまうのではないかとドクターは言った。



 ただし、あくまでこれらは推測であり、もしかすると帆澄が特異的な体質で、記憶が想定通りに操作されず、一部残ってしまった可能性もあるとドクターは付け加えた。


 ドクターから仮説を聞いた後に、舵は言い放った。


「もし帆澄が特異的な体質であったとしても、帆澄が無理やり記憶を操作されたことに変わりはない。俺はあいつらがしたことを許さない」


   ◇     ◇     ◇


 僕は、舵が部屋を出ていく音で目覚めた。


 舵と入れ替わるように別の男が部屋に入ってきた。男は僕の表情を見て、

「私のことを知っているようだね」

 と言った。


 確かに、僕はその男を知っていた。舵の記憶の中で見た姿とは違い、やつれた様子もなく、穏やかな表情で、柔らかい物腰だが、その背格好とシルバーグレーの髪色から間違いなく同一人物だとわかった。


「ドクター……ですよね」


 男は小さく笑みを浮かべると、頷き、椅子を持って僕の近くまで来た。


「そう呼ばれることもありますが……。柏原かしわばらといいます」


 男はパイプ椅子を広げて、僕から手が届くか届かないかの距離に立てるとそこに腰掛ける前に、握手を求めて手を差し出してきた。さらわれてきた身としてはなんとも不自然だが、僕は反射的に手を伸ばすと、男の手を握り返していた。


 

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