(052)   Area 19 Twisted バイアス

 --バイアス-- #カイ


 <今から五年前の秋、俺の妹が十八歳になったばかりの頃だ>


 僕の意識の中で、舵の声が響く。


 —— 一体、僕は何を見ているんだ?  ——


 気が付くと僕は洗面所にいて、鏡の前に立っていた。鏡にはさっきまで目の前にいた舵が写っている。髪型や服装が違うが、間違いなく舵だ。洗面台に置かれている端末が鳴っている。端末の画面にはミレイと表示されている。鏡に映っている男は、右手を伸ばすと電話に出た。電話越しに女性の声が聞こえる。


帆澄ほずみが、大変なことになってるの。急いでドクターのところに来て!」

「一体何があったんだ?」


 目の前の鏡に映る舵は、さっき倉庫で面と向かっていた男とは思えないほど、狼狽うろたえている。


「わからないわ。ただ様子がおかしいの」


 舵が走り出す。

 自分の意思に反してしゃべり動く体につなぎ止められた僕は、乗り物酔いになったように気分が悪くなった。


 僕が入っている舵の体は、パニックを起こしたように動揺しながら走っているのに、落ち着いた舵の声がどこからか聞こえてくる。


 <お前は俺の記憶の中にいるだけだ。疑似体験しているだけで、お前に危害は及ばないから、おとなしく黙って見ていろ>


 舵は息を切らしながら、小さな商店の立ち並ぶ雑然とした細い通りを全速力で走りぬけ、古い雑貨屋に入った。


 店の奥からその雑貨屋の店主らしき男性が出てきて、険しい表情で舵を見た。


「舵、気をしっかり持つんだ。帆澄はドクターの診療所にいる。命に別状はない。ただ、様子が……」


 舵は店主の言葉を振り切るように店の奥に突き進むと、在庫の置かれた棚の前で立ち止まった。


 その棚の一部を押すと、棚は壁ごと回転扉のように回り、壁の向こう側に地下へと続く長く暗い階段が現れた。


 僕にはこれから起こる出来事がまったく想像できなかった。ただ、さっき話しかけてきた店主の険しい表情が、事態がかなり深刻であることを物語っていた。


 舵が階段を駆け下りていく。階段の途中で視界が真っ暗になり意識が一瞬途切れた。


   ◇     ◇     ◇


 意識が戻ると、目の前に鉄のドアが現れた。


 舵がそのドアに暗証番号を入力すると、ドアロックが解除される音がした。舵がドアを開け中に入ると、自動で電灯が点いた。


 目の前にはコンクリートの床と壁でできた廊下がまっすぐ数十メートル伸びている。廊下は天井から床までコンクリートでできている。古いコンクリートなのだろう、劣化が激しくところどころ欠けたり剥がれ落ちている箇所がある。


 舵はわき目もふれずに廊下を突き進み、一番奥、突き当たりにあるドアを開けた。


 部屋に入るとすぐ左手に長椅子があり、その椅子には白衣を着た男が座っていた。男は華奢な体つきだが背は高そうだ。座っているからはっきりしないが少なくとも百八十センチ以上はあるだろう。男は肩を落とし目を閉じてじっと動かずにいる。


 少し長めのシルバーグレーの髪の毛は綺麗にまとめて括ってあり、顔つきから判断するに、年齢は若そうだが、全身から疲れがにじみ出ており、目の下に大きな隈ができているせいで老け込んで見えた。


「ドクター。帆澄はどこにいるんだ?!」


 舵にドクターと呼ばれたその男は、ゆっくりと顔を上げると、視線を部屋の奥にあるパーテーションで区切られた空間に目を移した。パーテーションの奥から女性のすすり泣くような声が聞こえる。ここは、雑貨屋の店主が言っていた診療所に間違いなさそうだ。


 パーテーションの中から女性が出てきた。


 舵と同じくらいの歳だろうか、舵の隣までくると、すれ違いざまに肩に手を置いて、何も言わずに立ち止まった。


 舵はその手を静かに払うと、パーテーションで区切られた空間に入った。


 パーテーションの中には簡易ベッドがあり、そのベッドに横たわっている小柄で長髪の女性が目に入ってきた。その女性は眠っているようで、舵が入ってきたことにも気がついていない。


「何があったんだ?」


 横たわった女性の隣で、椅子に座って俯いている別の小柄の若い女性に向かって、舵が問い詰める。


「ごめんなさい。本当にごめんなさい」

なぎ、何があったんだ。謝るよりも説明してくれ!」


 凪と呼ばれた女性はひどく取り乱している。


「帆澄は私を止めようとして、こんなことになったの。記憶を消された。ごめんなさい。私のせいなの……」

「消されたって、誰に? 警察には連絡したのか?」


 泣きながら、帆澄の友人は一枚の紙を舵に渡してきた。


 その紙はMCS社(メモリーコントロールサービス社)の記憶制御に関する同意書で、帆澄のサインとともに、『家族、友人等、面識のある人物の記憶を制御し思い出せない状態にすることを承諾する。』と記載されていた。


「冗談だよな?」

 凪の両肩を持って揺さぶりながら、舵は声を荒げた。


「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」

「ふざけてる! どう言うことなんだ! 帆澄に限ってこんなこと、こんなことありえない……」


 凪は目を真っ赤にして涙を流しながら、ただ謝り続けている。強い口調で泣き崩れる女性を問いただす舵に、ドクターが背後から態度をたしなめるような口調で言った。


「この子のせいじゃない」


 そして、取り乱した舵をパーテーションの外に連れ出した。落ち着きを取り戻すことができない舵を、なんとか長椅子に座らせると、ドクターは診療所の奥に消えていった。


   ◇     ◇     ◇


 数分後ドクターは珈琲の入ったカップを両手に戻ってきた。


「インスタントだが、我慢してくれ」


 舵は無言のまま差し出されたカップを受け取ると、両手で握った。その手は微かに震えている。

 ドクターは舵の隣に座ると、静かに話し出した。ドクターは平静を装っているだけで、舵と同じくらい動揺しているように思えた。


「帆澄と凪がここに連れてこられたのは今から一時間くらい前だ。その時帆澄は自力で歩いてはいたが放心状態で、凪は完全にパニックを起こしていた。二人はミレイに連れられてきたんだ」


 舵はカップから目を離さずじっとしている。


「私はミレイから状況を聞いて、帆澄を診察した。まともな会話することはできなかったが、帆澄は少なくとも、私のことを覚えているようだった。特に、以前に治療で麻酔をかけた時のことを鮮明に覚えているようで、ひどく怯えて、独り言を言っていた。凪やミレイのことは記憶にないようで、自分はなぜ知らない人たちにここに連れてこられたのかと私に聞いてきた」


「ドクターのことを覚えているということは、俺のことも覚えているかもしれないんだな……」

 舵がわらにもすがる思いでいるのが、僕には痛いほど伝わってくる。


「凪とミレイのことを覚えていなんだ。あまり期待しない方がいい」

「わかってる、わかってるよ……」

 声のトーンから、舵がなんとか平静を保とうとしているのが僕にはわかった。


「でも何で、ドクターの記憶を残したんだろう」

「まだわからないことが多すぎる。だが、私に関する記憶は残したんじゃなく、残ったんじゃないかと考えている」

「残った?」

 ドクターの表情は固く、状況は決して良くないことを物語っている。


「おそらく、何かの条件をつけたMCUで記憶を制御されたんだろう。その条件のおかげで一部の記憶が残った。できるだけ早く帆澄としっかり話をして、どんな記憶が残っているのか正確な状況を把握したいが、彼女は異常なほどに恐怖を感じているから、まともに会話できない……」


 ドクターは疲れが出てきたのか、眉間を右手の親指と人差し指で挟むように押さえると、深く息をついて押し黙った。


 舵の意識の中にいる僕はただの傍観者で、沈黙が続く間は舵から流れてくる感情をただ受け止めることしかできない。舵が妹を思う気持ちは言葉にできないほど強く深い、今の僕には存在しない感情だった。


 舵はしばらくの間押し黙っていたが、ドクターが椅子から立ち上がると同時に、沈黙を破り、ゆっくりと喋り出した。


「恐怖……。もしかしたら、MCUにかけられた後に、何か恐ろしい目に遭ったのかもしれない」

「確かに、その可能性はあるな。だが、やはり本人に確認するまではなんとも言えない」

「凪は何て言ってるんだ?」

「凪からはまだ話を聞けていない。お前が焦るのはわかるが、彼女から話を聞くのはもう少しまで待ってやってくれ。さっきの様子からもわかるだろう? 普通に話せる状態じゃないんだ。とにかく、今は無理だ」

「でも。少しだけでも!」


 食い下がる舵に、状況を変えることができないドクターは、何もできない無力な自分に対する悔しさを滲ませた。


「わかってくれ。私だって辛いんだ。ずっと、お前を弟のように、帆澄を妹のように思って過ごしてきた。私だって、帆澄を助けたいんだ……」

「……わかった」


 舵はそう言うと顔を上げた。僕の視界にパーテーションが入る。舵がどこまで納得しているのかはわからないが、衝動的な苛立ちは収まり、冷静さを取り戻したようだ。


「帆澄は気を失っているのか?」

 舵が問うと、ドクターは首を横に振った。


「いいや、睡眠薬で眠らせたんだ。お前が来る前に勝手に眠らせてすまなかった。だが、自傷行為を引き起こしそうなほど錯乱していたんだ。応急処置だから、最低限の薬しか使っていない。しばらくすれば目を覚ますはずだが、ずっと悪夢を見ているのか、唸り声を出している。だから、目が覚めた時に状況が良くなってるとは考えにくい」


 ドクターが話し終えると、舵は手を額に当て、祈るように目を閉じた。


   ◇     ◇     ◇


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