(072)   Area 14 Doubt DA2

 --DA2-- #海


 生暖かい何かが頬に当たる。


 首をつつかれて振り向くと、目をパッチリと開けた犬が大きく尻尾を振って僕を見下ろしていた。色は白と黒で、大きめの耳がピンと立っていて、短い足に、太い胴体——あとで知ったことだけど、この犬はウェルシュ・コーギー・カーディガンという種類らしい。


「アン! アン!」


 その犬は人懐っこく尾を振りながら、何か物欲しげにこっちを見ている。


「レイン、何鳴いてるの。ご飯あげるからこっちにおいで」


 女性の声が廊下を抜けて家中に響く。

 昨日大通りで出会ったリクという名の女性の声だ。

 部屋のドアは開いていて、廊下の先に玄関が見える。


 僕はあの人の家にいるのだろうか。


 レインと呼ばれたその犬は『ご飯』という言葉に反応して耳をピクリと動かすと、一目散に声のする方に走り去って行った。


 こぎれいな部屋の真ん中にあるグレーのソファーに寝かされてることに気づいた僕は、状況が完全には理解できないまま起き上がると、部屋をぐるりと見回した。


 部屋はきれいに片付いているのに、テーブルの上にはペンや紙、本、雑誌、パソコンなど、さまざまなものが乱雑に置かれている。調べ物でもしているのだろうか。



 しばらくすると、隣の部屋から顔を出したのは案の定リクさんだった。


「お腹すいてるよね!」

 両手に皿を持って部屋に入ってきたリクさんは、テーブルに乗っている物を押しのけるようにして皿をテーブルの端に置くと、フォークを渡してきた。

「どうぞ」

「……ありがとうございます」

 僕は意識がぼんやりとした状態で、フォークを受け取った。


 ——なるほど、さっきテーブル上の散らかり具合を見た時には、ここでどうやって食事してるんだろうと疑問に思ったけれど、この人にとってはこれくらいの散らか具合では何の問題もないらしい。


「いつ起きたの? よく寝れた? それより、昨日ここまで君を運ぶの大変だったのよ。まあ、ほとんどタクシーで移動したし、タクシーを降りてからも、君、私より背が高い割には軽いからなんとかなったけど。橋渡ったと思ったら倒れちゃうんだもん。君、私のこと覚えてる?」


「あ、はい」

「放っていこうかとも思ったんだけど、私が君を巻き込んだのに無責任かなと思ってね。それでここに連れてきたんだけど、余計迷惑だったかな?」


 僕が答える前に、機関銃のようにどんどん話を続けるリクさんに、僕は目を丸く返した。


「あと昨日さ、『おねえちゃん』って言って突然走り出したけど、橋の向こうに誰かいたの?」


 おねえちゃん? 何の話だ?


「え? 僕そんなこと言ってましたか?」

 僕の返事にリクさんが首を傾げている。

「覚えてないの?」

 僕は昨晩のことを必死で思い出そうとした。


 橋に渡ろうとしたけど、途中からリクさんのしゃべっている内容が聞き取れなくなっていって、パニックになってしまったことしか思い出せない。

 そうだ、あの時、いつもの夢の中の声が、現実のように聞こえたんだ。そして、夢の中の男の子が『おねえちゃん』と呼んでいた。


 あれ、もしかして、あれは夢の中の出来事なんかじゃなく僕が本当に言ったのかな?


「——まあいいわ、とにかく、朝ごはん食べてから話しよう。……それにしても、何でこんなことになったのかなぁ……」


 リクさんの声を遮るようにテレビが自動的につくと、大音量でニュースが映し出された。



「先月から連日お伝えしている

 凍結体FB—045REに関する速報が入りました。


 捜査当局の発表によると、

 消失したとされていた凍結体FB—045REは、

 外部からのハッキングによりデータに追加された偽の凍結体IDであり、

 凍結体自体は元々存在しないことが判明しました。


 そのため、今後は本案件の捜査対象を

 施設外部からのデータ書き換えに限定し、

 事の経緯を調査するとのことです。


 なお、全凍結体のデータと保管状況の照合は先週終了しており、

 外部からの侵入者による凍結体盗難は確認されなかったと発表されました」



「外部からのハッキングによるデータ書き換え? 内部の人間から凍結体の消失がリークされたのに、そんなこと誰が信じるのかしら?」


 そっか、この凍結体の事件、まだ解決してなかったんだ。


 数週間前の早朝にDA3のバラックで、この事件の速報を大音量で聞かされて不機嫌になっていた割には、僕は今まで凍結体のことなど、すっかり忘れていた。


 リクさんはテレビの前まで歩いていって腕組みをしながら、僕に背を向けて仁王立におうだちし、ニュースを見ている。


「この事件、まだ解決されてなかったんですね」

 僕の反応に、リクさんは一瞬だけ振り向くと少しあきれた様子で言った。

「そうよ。毎日毎日飽きもせずに、ずーっと報道してたじゃない」

「DA3には、細かい情報は入ってきていなかったので……」

「そっか。やっぱり向こうに対する情報規制って結構厳しいの?」


 テレビのニュースが気になるのだろう。質問しながらも、リクさんは再びテレビの画面を見続けている。


「普段の生活で不自由するような規制はされてないけれど、MCPや凍結体に関する情報は極端に少ないと思います」


 僕の口からMCPと言う言葉が出てきた時に、リクさんは神経を必要以上に尖らせたように見えた。だが、平静を装っているのか、声のトーンを変えずに話しかけてくる。


「でも、情報規制だったら、こっちの地区もいい勝負よ。なんか怪しいのよね、警察や関係者の開示情報がいろいろと嘘っぽいわ」

「そうなんですか? DA2こっちでは情報規制はないって聞きましたけど……」

「表向きはね、規制なんてないって言ってるけど……。でも、実際はどうかな。やっぱり都合のいい情報しか流れてないんじゃないかって感じることが時々あるのよ。MCUは安全だって言うけど、凍結と似たようなものじゃないかしら?

 思考が混乱したり、回復者になっても記憶が戻らなかったり、別人格が形成されたりするって噂よ」

「表向き、か……」


 反射的に呟いた言葉に、僕が事件に関して興味を持っていると察したのか、ずっとテレビの方を向いていたリクさんが、少々興奮気味に振り返った。


「私なりに調べてたんだけど、この資料見てくれる?」


 テーブルの上に無造作に置かれた紙の束を、まとめて僕に渡すと、リクさんは再び視線をテレビに向けた。


「リクさん、何でこんなこと調べてるんですか?」

「何でって。これでも私、探偵なのよ」

「探偵?」

 予想外の返答に、僕は頓狂とんきょうな声を上げてしまった。


「うそ。そんなわけないでしょ? 気になるニュースだったから、ちょっと調べてただけ。さっきのニュースもAIが私の行動から予測して、見せてきただけだし」

「だからさっきテレビが勝手についたんですか?」

「そうよ。なにが不思議なの?」


 僕は日常生活に必要な知識に関する記憶は、あまり制御されていないと思っていたけど、最低限の知識しか残されていないのかもしれないと思い始めていた。

 記憶が元通りにならない限り、こっち側の日常に慣れるには時間がかかるかもしれない。とにかく、ここでは、AIが勝手に判断して、興味のある内容の情報があれば、わざわざテレビをつけて見せてくるらしい。無駄におせっかいな機能だな。情報過多になりそうだ。


「とにかく、私はただの学生よ。ちなみに心理学専攻」

「ただの学生が、夜中にひとりでDA3をふらついて、知らない人間を連れ去ったりします? 探偵の方がまだ納得できます」


 僕は疑い深くリクさんを見返した。


「あれはバイト、運び屋なのよ。それに私は誰も連れ去ったりしてないわよ。ちゃんと、ついてきてって言ったでしょ?」

「運び屋って、もしかして麻薬とか拳銃とか運んでたりするんですか?」

「そんな物騒なことするわけないじゃない。私はデータの運び屋なの」

「そうですか……」


 データの運び屋だって十分怪しそうだと僕は思ったけれど、えてそれを口には出さなかった。

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