(073)   Area 13 Encounter 橋の向こう側

 --橋の向こう側-- #海


 陽が落ちてネオンサインが輝き、現実を直視できない人とそれらの人を利用する人が行き交う街の一角で、僕はうずくまっていた。


 人波は途切れず流れ、その波から届く言葉はつながらずに、途切れ途切れ僕の耳に届いては、ノイズとなって消えていく。


 一瞬、人波に逆らう突き刺すような視線を感じ、僕は顔を上げた。

 誰かと目があった気がして怖くなり、目線を道路に再び落とした。

 とにかく夜が明けるまで目立たないように身を潜めておかなければならない。


 それなのに、それから五分もしないうちに、「ちょっと来て」という女の声によって、僕の世界の沈黙は破られた。


 力強く腕を掴まれてバランスを崩してしまった僕は、少しよろけながらも立ち上がった。自分の意識を持って行かれているような、不思議な感覚に襲われて、立ちくらみがした。


「君もしかして、MCPなの?」


 女は少し戸惑った様子で、僕の目を見つめている。


 僕は、目の前に突如現れた女につかまれた手を振り払い、抵抗するように後退りした。


 大きくウェーブのかかった少し長めの髪が、冷たい風に吹かれて揺れている。年齢はおそらく十代後半から二十代前半。丈の長い白のタートルネックのセータの下に黒のレギンスを履いて、黒のジップアップパーカーを羽織り、印象的な赤いレザーブーツを履いている。


 その女はイライラした様子で、纏わりつく虫でも払うように首を振ると、


「あーなんかめんどくさいわね。今思考が重いのよ。ちょっと待って」


 と言って、僕の真正面に立つと、僕のこめかみを両手で挟み、吸い込まれたら出られなくなりそうなほどの気迫のこもった鋭い目を閉じて、ゆっくりと開いた。


 数十秒後、女は何もかも見透かしたような表情で僕を見つめて言った。


「私はリク、君はカイ」

 カイ?

「え? それってどういうこと?」

 オヤジさんが言ってた名前だ……。


「いいから、とにかく歩いて。私についてきて」

 リクと名乗った女は、僕に有無を言わせず、僕の腕を掴むと勢いよく歩き出した。


「あの、どこへ向かっているんですか?」

「ちょっと黙ってて」


 女はそう言うと、僕に返事をする間さえ与えずに、さらに歩調を強めて歩き続けた。

 僕は抵抗することをあきらめ、腕を引かれるまま女についていった。


 女は、延々と独り言を呟きながら、手に持った端末を操作している。


「時間がないわ。ちょっとあぶないけど脇道に逸れるわよ」


 女はそう言うと、僕を連れて人波から外れた細い路地に入った。


 陽が落ちた後に人通りの少ない街外れの通りに入るのは、この街では非常に危険な行為だ。


 路地を下って、数メートルほどの短いトンネルをくぐり、小さな公園を斜めに突き抜けると、DA2につながる追羽根橋のすぐそばに出た。そして女は躊躇うことなく、人波に戻った。


 その人波は、橋の向こう側に流れている。

 僕には穴見さんの姿と自分の姿が重なって見えていた。


「そっちには、行けないよ」

 僕が小さく呟く。


「何言ってるのよ、行けるに決まってるじゃない。橋を渡るだけでしょ?」

 女が振り向きもせずに、歩き続ける。


「だって、記憶がないのに、名前がわからないのに、どうやって渡ればいいんだよ……」

 僕は、恐れるように歩幅を狭めた。


「君は渡れるはずだよ」

「どうやって渡るんだよ。MCP記憶制御された者が許可されたエリアから外に出られないのは常識じゃないか!」


 僕は女の手を振り払い、その場に立ち止まった。


「もしかして、脳をスキャンする装置とか信じてるんじゃないでしょうね? もしそうなら、自分はカイだって言い聞かせたらどう? まあ、そんなことしたって実際は何の役にも立たないけどね」


 女は僕の言い分などとでもいうかのように、ぶっきらぼうに言い放った。


「言い聞かせるって? 言い聞かせるって、どうやって……」

 僕はパニックに陥っていた。穴見さんが橋を渡ろうとしたあの日の後継が蘇る。女は頭を抱えてうろたえる僕に真正面から向かい合った。


「わかる? 君はあの橋を渡れる」

 ゆっくりとした、説き伏せるような口調だ。

「いい? 橋の中央にある電灯の上に監視カメラみたいな機械が見えるでしょ? あの機械は個人の体に埋め込まれたマイクロチップのID情報を読み取ってるの。

 思考を読み取ってマイクロチップの情報と照合してるなんてデマも流れてるけど、思考を読み取る装置は試作段階で開発が中止されて、実用化はされてないのよ。

 マイクロチップの複製やデータの書き換えは、個人では不可能だし、セキュリティーシステムとしてはマイクロチップの読み取りだけで十分なの。だから犯罪者でなければ橋を渡れる。ねえ、カイ聞いてるの?」



 またカイって、一体何なんだ?



 両手で肩を揺さぶられた僕は、ひどく取り乱し、精神が錯乱していた。


「何で僕のことをカイって呼ぶんだ! そんな人、僕は知らない。僕は僕の名前なんて知らない!」


 カイと呼ばれるたびに、頭がカナヅチで殴られたかのように痛み、疼いた。まともに立っていられなくなり、その場にしゃがみこむと身体中が震えだした。


「バカなこと言わないで! 私には君のことがわかる。君は間違いなくカイよ。お願い急いで、十二時過ぎちゃうとあの橋渡れないのよ。明日までこんな物騒なエリアにいられないわ」

「痛っ、腕を引っ張らないでくれ! 放っておいてくれ!」


 僕の口調がきつすぎたせいか、女は手を離すと、身を引くようにして一歩下がった。


「わかったわ。もういい。ごめんね。

 ここまでありがとう。

 橋を渡れば一人でもなんとでもなるから。ここからは一人で行くわ」


 "カイ……。もう行かないと……"


「え? 今の声。誰?」

「カイ、何言ってるの?」


 女が困惑した顔で僕を見ている。


 頭が痛い。歩けない……。


「ちょっと、こんなところでうずくまらないよ」


 "カイ、カイ……"

 "わかったよ。でも母さんが……"


 黒い影が、橋の向こうで揺れる。

 "待って。どうして行っちゃうの? お願いだから……!"


「おねえちゃん!」

 僕は声のする方へ、走り出した。


「ちょっと、突然何なの? ちょっと待って!」

 あっけにとられた女の声が、僕の背中越しに響いた。


 橋を渡ってすぐに、消えた影を追って、走って、走って。


 僕は闇に落ちていった。

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