(087) Area 8 Moratorium DA3の事情
--DA3の事情-- #海
お茶を飲み終わる頃には、体が温まってきたおかげか、心なしか疲れも和らいできて、言葉が自然と出てきた。
「穴見さん。僕を見つけた時のことを詳しく教えてくれませんか?」
「んー。と言っても、今朝話した通りなんだがなぁ」
穴見さんは目線を斜め上にあげて、眉間に少ししわを寄せて考え出した。
僕は一日中、昨晩の出来事を思い出そうとしていたけれど、特に食堂から出て走り出した後の記憶はおぼろげで、はっきりしなかった。無我夢中で必死に逃げたせいか、昨晩の出来事なのに何年も前に起きた出来事かようにすべてがちぐはぐで、まがい物のように思えた。
しばらくしても、穴見さんは何を話していいかわからない様子で、急須からお茶を湯呑みに継ぎ足し、湯飲みの中をじっと覗いている。一日の疲れが出てきたのだろうか、さっきまでの快活な穴見さんとは違って、重い表情を浮かべている。
「僕が、運河沿いの土手で倒れていたって……」
僕の言葉に話のとっかかりを得た穴見さんは、顔を上げて僕に目を合わせると、静かに話し出した。
「そうだ、俺は毎朝五時に起きて走ってるんだ。だから今朝も、そこの裏の運河に沿って走ってた。そうしたら、人が倒れてるのが目に入ってきたんだ」
「雨が降っていたんですよね。何時ぐらいから降っていたんでしょうか?」
「どうだろうなぁ、俺は大抵十時には寝ちまうからな。昨日も結構早く寝たし、外を気にしてもいなかったから……。でも、三時過ぎに目が覚めた時には土砂降りだったよ。かなりの音がしてたんだ」
と言うことは、その雨で食堂の火は消えたのかもしれない。でも、僕があの火事から逃げ出したのが何時だったかはっきりしない。
火事についての正確な情報が欲しいけれど、警察や消防に連絡した人がいないってことなら、現場検証なんて行われないから、火事の原因を知ることはできないだろう。
僕は少し間を置いてから、今日一日ずっと気になっていたことを質問した。
「DA3は警察があまり介入しない地区なんですか? 僕は、ここはMCPがたくさん働いている街だから、警備はどこも厳しいんだと思っていました」
「いや、そうでもないな。ほとんどのMCPは国立農場から出ないし、記憶を制御されて危険性がなくなってる。そんな人間に対して、監視役つける必要もないと国は思ってるみたいだ。それに、大抵の国民はDA3の治安対策なんて税金の無駄遣いだとでも思ってるだろう。だいたい警察や
「そんなものなんですか……」
僕は、DA3に来てから何ヶ月も経つのに、この地区の事情や状況について、何も知らないことを、今更ながら思い知らされた。僕は永薪食堂という名の籠の中の鳥だったのかもしれない。
「それより、海。あんたはその食堂で火事が起きた時にはどこにいたんだ?」
僕は、今日初めて会った人をどこまで信用すればいいのかわからず、どう答えたらいいか迷っていた。
オヤジさんが逃げろと言った時の気迫は凄まじかった。あれは単純に火から逃げろと言ったのではなく、何かもっと危険な存在である人間や組織から逃げろという意味だったような気がする。
とにかく、今は誰に対しても警戒を怠らないほうがいいだろう。ただ、黙っていても怪しまれるだけなので、僕はできるだけ端的に答えることにした。
「火事の時には、食堂にいました」
「それで、そこに永薪っていう店のオヤジもそこにいたのか?」
「はい、でも。助けられませんでした」
「そうか」
人の生死に関わる話とは、どうしてこうも気が重くなるものなんだろう……。
ありふれた日常が色を変えてしまう出来事、それは唐突に起きる。それでも残された者は、その色が変わってしまった世界を生きていくしかないのだ。死とは誰もがいつかは通る道、そう、いつかは自分も……。目を背けたくなる現実。それでも、だからこそ、直視すべきことのはずなんだ。
僕の思考は今、あらゆる可能性や事実、噂が入り混じってひどく騒々しい。だから、できる限り簡単なことから確かめるべきだと思い、穴見さんに助けを求めることにした。
「あの、僕、食堂の状況を知りたいんです」
「状況?」
「はい。全焼したと穴見さんの会社の人が言っていたようですが、それでも何か残っているかもしれないし……。自分の目で確かめたいんです。でも、足をかなりひどく挫いていて、すぐに歩いて行けそうにないので、もし車か何かあったら、僕を食堂まで連れて行ってもらえませんか?」
僕の問いに対して、穴見さんは申し訳なさそうな顔した。
「それはむずかしいな。車は持ってないんだ。すまないが、俺には助けられそうにない。誰か他のやつに頼んでみようか?」
穴見さんの提案はありがたかったけれど、火事の原因がわからないまま、これ以上多くの人に自分が生きていることが知られれるのは危険だと思った。
「やっぱりこれ以上迷惑をかけたくないので、足の具合が良くなってから、自分で見に行きます」
僕の返事から何か感づいたのか、穴見さんは少し間を置いてから尋ねてきた。
「海、おまえここらに身内とか、知り合いとかいないのか?」
「いいえ、DA3内にはオヤジさんだけしか」
僕はそう答えながらも、そう言えばオヤジさんも身内なんかじゃなく、僕は記憶制御施設から送られてきた労働者で、誰も頼れる人などいないことを、今になって痛感していた。
「なんだか、訳ありなんだなぁ」
僕の表情が曇ったことに気がついたのだろう、穴見さんが呟いて、椅子から立ち上がると食べ終わったお惣菜のパックを片付け始めた。
「まあ、俺ももうすぐここを出るし、細かいことはこれ以上詮索しないよ。ただ、知りたいことがったら聞いてくれ」
「穴見さん、ここを出るって。引っ越すんですか?」
僕は、出会った人がどんどん自分の周りから去っていくことに気持ちがついていけなくなっていた。
「ああ、俺はもう年を食いすぎた。この街で暮らすのはもう限界だよ。DA2に当てがあるんでな。今週末には出て行くよ。まあ当てっていっても、住む場所があるだけで、知り合いがいるわけじゃないがな」
「あの、今日は水曜日ですよね」
「そうだ、それで俺の仕事は土曜まである。だから土曜の夜か日曜の朝にはここを出て行くよ」
穴見さんは少し寂しそうだ。まるで出ていくべきだと自分自身に言い聞かせているように、僕の目には映った。
「あの、穴見さん、何もかも本当にありがとうございます。本当に迷惑ばかりかけて、申し訳ありません。助けていただいて、感謝しています。
えっと、何もお返しできなくて、押し付けがましくて申し訳ないんですが、穴見さんが出て行く日まで、ここに僕を泊めてもらえませんか?」
断られることを覚悟でお願いした僕に、穴見さんは間髪入れずに、
「好きにしろ」
と言うと、部屋の床に落ちた紙くずや数冊の本をゴミ袋に詰め出した。散らかった部屋がこざっぱりすると、大きくなったゴミ袋を手に穴見さんは外に出て行った。
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