(084) Area 9 Reality 橋の手前で行き止まって
--橋の手前で行き止まって-- #海
「僕も、一緒に連れて行ってもらえませんか?」
日曜日。
穴見さんがバラックを立つ朝、二人で朝食をとっていた時に、僕は無意識のうちにそう呟いていた。無理を言っているのはわかっている。
僕は
◇ ◇ ◇
この四日間できる限りのことを調べた。けれど、ネット上にある
しかし、インターネットのおかげで、自分の置かれた状況が大分読めてきた。
加えて、世の中の最新情報を得ることは非常に困難だった。穴見さん曰くこの地区のインターネットには規制がかかっており、更新が多くて数日に一度、ひどい時には数ヶ月に一度であり、また、検閲後のデータが上がっているそうだ。
◇ ◇ ◇
今僕がいるDA3は、今から五十年ほど前にできた埋立地で、元々は埋立地の南に新たな空港を建設するために移住してきた建設関係者が、住民の大部分を占めていたようだ。だが、世界情勢の悪化と多くの国との国境断絶に伴い輸出入が減少し、空港の建設自体が
輸出入の規制が強まり、国内でほぼすべての農産物を生産しなければならなくなったため、空港建設に携わっていた者の大部分は新たな国策である屋内農業の担い手として雇われた。しかし、食料の需要と供給の均衡を保つためには農業労働者が絶対的に足りず、人手不足は深刻化していったのだ。
そこで政府は短期的な対策として犯罪者を雇うこととした。
だが、一部の国民から食品に関わる業務に犯罪者が携わることに反対する声が上がり、大規模な抗議運動が行われた。
その結果、まだ未熟であった記憶制御の技術が採用されることとなった。
つまり、犯罪者の記憶を操作して精神状態を安定化させ、凶暴性や攻撃性を制御することにしたのだ。そして、記憶を制御された者であるMCPが、大量にこの地区の農業生産に携わることになった。その結果、農業生産物の供給は安定した。
そして今現在、MCPの労働許可はDA3内であれば簡単にとれるらしく、業務に従事することで減刑対象になることから、自ら望んでMCPになる受刑者も多いとのことだった。
実際、この地区のMCP人口の割合は、過去二〇年間、常に七割を超えているようだ。また、職業も農業に限られていない。僕のように食堂で働くことも、雇い主が望めばほぼ問題なく許可される。その上、DA3内での移動も基本的には自由だ。
ただし、DA3から出ることは許されていない。
地理的にも、DA1・2とDA3は完全に分断されている。
つまり、DA1・2とDA3を隔てるようにして流れている運河にかけられた橋を渡らなければ、DA3から出ることはできない。
そのため、MCPを管理することは容易なことだった。
運河に架かる橋には、脳をスキャンし記憶を解析する複雑な装置と、体内に埋め込まれたマイクロチップを読み取るゲートが設置されており、そこでMCPであるかを判定しているらしい。
MCPが橋を渡ろうとすると何が起こるかは、情報規制の対象なのか情報が見つからず知ることができなかったが、情報がないと言うことは、おそらく刑務所に送られて二度と外の世界を見ることはないということなのだろう。
ただ、僕はどうしても運河の向こう側に行きたかった。
記憶を制御されているはずなのに、
その場所にどうしても行って、この目で確かめたい。
背景にある家はどことなく永薪食堂に似ていた。そこに行けば、オヤジさんのことがわかる。そんな気がしてならなかった。
穴見さんが言うには、その家はおそらくDA2の中でもかなり古いエリアに立っていて、国立第四脳科学研究所が建っているあたりだろうということだった。そのエリアを調べてみると、今ではさらに研究施設が多く建っていて、古いエリアの建物はほとんど取り壊されており、そこにいっても何も見つからない可能性の方が高そうだった。
でも、今ある唯一の手がかりを簡単に手放す訳にはいかない。
◇ ◇ ◇
「
さっきの僕の問いに、あっけにとられた穴見さんが、目を丸くしている。
「は、はい」
僕は無意識で口走った言葉に多少の躊躇いを感じていたが、ここに残ることが正しいとは思えなかった。
「ここ四日間、火事のことと、MCPのことばかり調べていただろう。海、あんたはMCPじゃないのか? あんたがMCPなら、橋は渡れないんだ。悪いことは言わない。ここに残れ」
僕は、穴見さんの言葉に驚きを隠せなかった。
「気づいていたんですか? 僕がMCPだと気づいていて、ここから追い出さなかったんですか?」
少しだけ間をおいて、穴見さんは自分の過去を振り返るように、僕の問いに答えた。
「いいや、なんていうか。感だよ。俺もMCPだったんだ。あんたを見てると昔の自分を見るみたいでな、追い出すことができなかったんだ。きっと海は、今、訳がわからん状態なんだろうなって思ってな」
それから
「ここにあるものは全部使っていいし、ここは家賃の取り立てもないから、金の心配はいらない。最低限のものしかないが、雨風はしのげる。働き口は、俺が紹介してやるから、そこで働け。俺の働いていた部品工場だ。そこの工場長は信用できる。だからとにかく、今はどんなにしんどくても橋を渡るべきじゃない。橋を渡って無事だったMCPはいないんだ。それと、できれば警察に連絡しろ。お前はまだやり直せる」
そこまで考えていてくれたなんて……。その上、僕に何も聞かずにいてくれたなんて……。僕は自分のことしか考えていなかったのに……。僕は穴見さんに返す言葉が見つからず、ただまっすぐに穴見さんの顔を見ていた。
「あと、あんたは他のMCPとはどこか違う。妙に人と関わろうとするところがある。俺は長年いろいろなやつを見てきたが、どのMCPも特に施設から来たばかりの頃は、人間味がなくて無機質なやつが多くてな。ただ言われたことだけして、時間をつぶすんだよ。なんせ自我をほぼ潰されてるからな。でも、あんたは違うんだってわかった。だから、喋ってると楽しくてな。追い出すなんてできなかったんだよ」
そして、何も言わない僕に見かねたのか、こう付け加えた。
「あとな、海があの橋が渡れる日が来たら、いつでも迎えに来てやる。だから今はここに残れ」
この言葉に自分の置かれた立場(つまり、連れて行ってもらうことはできないこと)を思い知らされた僕は、穴見さんの目を見て声を絞り出すようにして答えた。
「お願いします。絶対迎えに来てください」
穴見さんは泣き出しそうになる僕の肩をトントンと叩くと、用意してあった部品工場の紹介状が入った封筒と手書きの地図を分厚い本の隙間から抜き出した。
そして、ポケットからメモ帳を取り出し、連絡先のメールアドレスを書いて、そのページをちぎると、手紙や地図と一緒に僕に差し出した。
「このアドレスは俺のものじゃないが、橋を渡れたらここに連絡するんだ。メールは信用できる相手に届く。必ず頼りになるはずだ。あと、まだ泣くのは早いぞ。海には希望があるんだ。希望があるうちは、泣いている暇なんてないはずだ」
僕が差し出された手紙や地図を受け取ると、穴見さんは準備してあったリュックを背負って、それ以上何も言わずに背を向けて歩き出し、一人バラックを去って行った。
◇ ◇ ◇
ドアがパタンと閉まると同時に、全身の力が抜けてしまったかのように僕は椅子に座り込んだ。
穴見さんから受け取った地図が手から滑り落ちる。
涙が溢れ出しそうになった。
メモ帳の切れ端に書かれたメールアドレスが滲んで見える。
ただ、今はまだ涙を流してはいけない。堪えるように天井を見上げた。
『あんたは違うんだってわかった。だから、喋ってると楽しくてな。追い出すなんてできなかったんだよ』
頭の中で穴見さんの言葉が響く。
だめだ、このまま一人で行かせるなんて、ちゃんとお礼も言わないまま、別れるなんて。
バラックから一番近くの橋は、穴見さんが僕を助けてくれた運河沿いの土手のすぐそばにある。
穴見さんはあの橋を渡って向こう側に行く。
あの橋の
何度向こう側に行くことを、自由を夢見たのだろう。
僕は治りかけの足を引きずって走った。
リュックを背負った彼の背中が見える。
その後ろ姿を通して、痛いほどの感情の渦が僕の意識に流れ込んできた。
この人は
寂しくて、不安で、果てしなく長い道のりを一人で歩んできたんだ。
「穴見さん!」
橋を渡る寸前に立ち止まった穴見さんが僕の声で振り向いた。逆光のせいで顔の表情が見えない。
「がんばれよ」
囁くような声が風に乗って僕の耳に届いた。
え? 僕は目にした光景が信じられずに、立ち止まった。
橋に足をかけた穴見さんの体が崩れるように倒れるのが見える。と同時に橋の入り口にあるゲートについているシャッターが降りて僕の視界から穴見さんが消えた。警報音とともに警備の人間が数名、どこからか現れた。
どうして気が付かなかったのだろう。
どうして一人にしてしまったのだろう。
バラックを去る瞬間に穴見さんから感じた憂い、寂しさは、
紛れもなくMCPだけに漂うものだった。
空っぽの器を埋められずに生きてきた孤独な人間が最後に選んだのは、この広い監獄との別れだった。
たった四日間だけれど、どんな瞬間も、明るくて、頼りになる存在だった。
でも、そんな彼でさえDA3の中には、希望も未来も見出せずにいたんだ。
希望があれば、人はどこまでも歩いていけるもの。
それは、彼が一番よくわかっていたんだと思う。
だからこそ、最後の瞬間に彼は僕にメールアドレスを渡してくれたんだ。
また出会えると信じて、僕が歩き続けられるように。
未来への『希望』を与えてくれたんだ。
橋の手前で行き止まって、引き返すことができずに、僕は、
「ありがとうございます」「がんばります」
と、何度も、何度も、繰り返し呟いていた。
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