(083)   Area 10 Left alone 不信感

 --不信感-- #海


 夕方、陽が傾きかけて肌寒くなってきた頃、僕は泥でもまとわり付いたかのように重たい体を引きずって、穴見さんのバラックに一人戻った。


 穴見さんのいなくなったバラックは、がらんとして、壁も床も薄汚く、ひどく冷たく感じた。空気までよどんでいるようで息を深く吸えなかった。


 一体これから、一人で本当に生きていけるのだろうか? 

 やっぱり火事のことを警察に話して、保護された方がいいのだろうか? 


 警察に保護されても、それで安全にことが進む補償はない。身寄りもなく、歩くこともままならない今の僕には、何の力もない。


 穴見さんが紹介状を書いてくれた工場にも、足が治るまでは行けそうもない。とにかく、そこで働けるようになるまでは、穴見さんが置いていってくれた食料で乗り越えるしかない。


 このバラックからオヤジさんの食堂までは片道約十キロ。


 足の具合はまだ悪いが、もう少し良くなれば歩いていける。日の出ているうちなら、そんなに危ない目に遭うこともないだろうから、数日以内には無理をしてでもオヤジさんの家に行こう。警察に出頭するにしても、この目でオヤジさんの家を確認した後でなければならない気がした。

 


 食欲が出ないまま、僕はマットレスの上で仰向けに寝そべり、自分の中にある記憶を探れるだけ探っていった。記憶は制御されてしまったとは言っても、すべてを失ったわけではない。


 食べ物や飲み物の味や名前は、自分でも驚くほど覚えていたし、日常的に使う道具や機械の使い方がわからずに、生活に支障をきたすようなこともほとんどない。文字の読み書きにも困らない。お箸の持ち方や自転車の乗り方も、まったく忘れていなかった。


 それでも、自転車に乗れるかは、実際にやってみるまでわからなかったので、オヤジさんに頼まれて切れた調味料を買いに行った時に初めて知った。記憶というより体が覚えているという感じで、何の違和感もなく乗れた。あの時は『急がないと間に合わないから、自転車に乗っていけ』とオヤジさんに言われたけれど、自分が自転車に乗ったことがあるのかもわからなくて、正直焦った。『乗れなかったら走っていきます!』と返事をしたほどだった。


 だからきっと、体は覚えていても、できるということを僕が知らずにいることは他にもあるに違いない。僕は、考えれば考えるほど、昔の自分に興味を持つようになっていった。


   ◇     ◇     ◇


 その夜、僕はMCU記憶制御装置という装置がどんなものか気になって眠れなかった。


 MCUのことを調べれば調べるほど、この装置に対する不信感が募り、疑念が拭えなくなった。一般的な情報と同じく、MCP記憶制御された者とMCUに関する情報も、おそらくこのエリアでは情報が制限されているはずだから、インターネットで調べた情報の信憑性は低い。


 僕がMCUにかけられた施設で受けた説明では、記憶制御後に副作用は認められず、MCUは安全な装置であり、MCPの性格も攻撃性が抑えられ安定し、恒常的に穏やかに過ごせると言っていた。また、回復者——つまり、元MCP——の状態も心身ともに非常に安定しており、人格の分裂や精神的な崩壊はなく、再犯を犯す可能性はMCPにならなかった受刑者よりも低いとも言っていた。


 けれど、穴見さんが言っていた通り、今の僕のように足を怪我した人間が一人で街を歩くことができないのなら、この街は決して安全とは言えない。


 もちろん、この街で危険なのは、無法地帯と化した土地に自らの意思で流れてきたMCP以外の人間が、好き勝手に過ごしているせいなのかもしれない。けれど、どれだけ調べてみてもMCPに関する情報は政府が検閲したものばかりなので、MCPの実態は結局よくわからなかった。


 施設で受けた説明が正しいのであれば、このDA3は、政府が管理している安全な地区であるはずなのに、今の僕は逃げ隠れすることしかできない。


 僕は、マットレスに寝転がり、TW-02530タブレット端末の電源を入れたり切ったりしていた。

 相変わらずパスワードは見当すらつかない。

 画面に映る写真の中の子どもたちや犬は何のヒントにもならない。

 今までのことやこれからのこと、すべてに対して、どうするか答えを出すことができないまま、考えを巡らせていた。


 "はやくこっちにおいで!写真撮るよ!"


 女の子の声が聞こえる。焦げ茶色の犬が小さな足で跳ねながら女の子の方に駆けていく。


 "カイ! カイ! カイ……"


 夢か……知らぬ間に、僕は眠りこけていようだ。

 瞼が重い。

 ゆっくりと目を開いた。視線の先に電源の切れたTW-02530が転がっている。


 カイ? そう言えば、オヤジさんはあの時、僕のことを『カイ』と呼んだ。どうして今まで忘れていたんだろう。


 僕は手を伸ばしTW-02530を掴むと、電源を入れた。

「カイ」

 画面に映る男の子を見る。


 以前と同じように、画面をタッチすると、写真は消えパスワードの入力画面に切り替わった。

kaiとゆっくり入力する。パスワードが合っている根拠なんて何もないのに、期待のせいか、胸の鼓動が早くなる。時が止まったようにさえ感じる。一秒が永遠になりそうだ。


 しかし、僕の期待とは裏腹に、画面はあっけなくロックされ、『60:00』からのカウントダウンが再び表示された。

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