(078)   Area 12 Inequalities 頼み事

 --頼み事-- #海


 工場のトキさんは不思議な人だ。


 どうにもつかみどころがない人で、ふざけた話ばかりしているなと思って話を聞き流していたら、気がついた頃には人生について語っていて、その語りの中に入り込んでしまったりする。


 仕事中はお節介なほど僕に話しかけてきてくれて、面倒なことでも引き受けてくれる気の良い人なんだけれど、仕事が終わると、毎日何も言わずにさっさと帰ってしまうので、どこに住んでいるのかも、どんな生活をしているのかも知らない。


 噂によると、トキさんには子どもはいないらしい。トキさんは、一緒に住んでいる家族の話は一切しないので、一人で暮らしているのだろうと勝手に思っている。


 仕事場以外でのトキさんは、一体どんな顔をしているんだろう。


   ◇     ◇     ◇


 あの日も僕はいつもと同じように仕事を終え、工場のゲートをくぐり、家に向かおうとしていた。その時、珍しく後ろからトキさんが声をかけて来た。


うみ、ちょっといいか?」

「あ、トキさん。まだいたんですね。もう帰ったんだと思ってました」

「いやなぁ、今日はちょっと海に頼みたいことがあるんだ。無理なら無理でいいんだ。まずは、話だけでも聞いてくれないか?」


 トキさんは、口では頼みたいとことがあると言いながら、まだどこかで頼むことを躊躇ためらっているような様子だった。


 トキさんが僕に頼みたいことがあるなんて夢にも思わなかったから、少し驚いたけれど、特に断る理由もない。


「わかりました」

 僕が承諾したことで、トキさんは何かを決心したように見えた。


「ありがとう。ついてきてくれるか?」

 トキさんは、どこに行くとも言わずに歩き出した。


 行き先は皆目見当もつかなかったけれど、僕は相変わらず人に質問するのが苦手だったから、何も聞かずについていくことにした。




 トキさんと僕は、しばらく会話することもなく、早足に工場の前の道をまっすぐ進み続けた。二十分ほど経っただろうか、気が付くと工場地帯の端にたどり着いていた。


 目の前には幅の広い道路が工場地帯と住宅街を隔てるように左右に伸びるている。その道路には横断歩道のがなく、一定の間隔で歩道橋が架かっていた。左手にある一番近い歩道橋を渡る。二車線の道路には大型トラックがひっきりなしに走行している。



 僕はトキさんに無言でついていく。


 その時、トキさんの後ろ姿が、なぜか少し緊張して見えた。



 歩道橋を渡り終わると、目と鼻の先にスーパーがあった。


「ちょっと寄ってもいいか?」


 トキさんが尋ねながら僕の方に振り返った。と言っても、トキさんの右足は、もう既に店の中に入っている。


 こんな時に『いやです』なんていう人いるんだろうか? なんて考えながら、僕が「はい」と返事をして後に続くと、トキさんはスーパーの買い物かごを手にし、慣れた様子で店内を歩き出した。


 僕がこのスーパーに来たのは今日が初めてだけれど、トキさんはいつもここで買い物しているのだろう、僕が店内をゆっくり見回す暇もないくらい素早く店内を奥へ奥へと進みながら、買い物かごに食材や日用品を入れていく。それは、一人暮らしの人間が必要だとは到底思えない量だった。


 もしかして、僕が知らなかっただけで、トキさんは誰かと暮らしているんだろうか?


「ずいぶんたくさん買うんですね」

「ああ、いつものことだ」


 結局、こんなに必要なのかと思うほどの商品をトキさんは買った。袋が三袋にもなったので、僕が一袋持つことになった。


「助かるよ」


 そう言って歩き出したトキさんは、随分ずいぶん疲れているように見えた。不意にどこにもたどり着かないような気がして不安になった僕は、無意識のうちに、行き先を尋ねていた。


「あの、どこに向かっているんですか?」

「俺の家だよ」


 普段はおしゃべりなトキさんが、ほとんど喋ろうとしない。何を考えているんだろう。


   ◇     ◇     ◇


 それから結局十五分ほどなんの会話もなく歩き続けた。気がつくと、周りの景色はどこか懐かしいような古い家の多いエリアに変わっていた。このエリアは、オヤジさんの店のあった商店街にどことなく似た雰囲気が漂っている。



 住宅地に入ってさらに五分ほど歩くと、なんの前触れもなくトキさんが立ち止まった。


「ここだ」


 目の前には小さな木造の一軒家建っている。小振りの門をくぐるとすぐに引き戸の玄関があった。トキさんは買い物袋を足元に置くと、ポケットから鍵を取り出して戸を開けた。


「まあ、上がってくれ」


 トキさんに続いて戸をくぐった。


「おじゃまします」


 そう言って靴を脱ぐと、家に上がった。玄関には物はほとんどなく、小さな下駄箱に傘が一本立てかけてあり、サンダルが一足出ているだけだった。やはりトキさんは一人で生活しているのだろう。


 玄関から一番近いところにある和室に通されて、僕が座布団に座ると、トキさんは僕が運んでいた買い物袋を持って部屋から出ていった。


 この部屋は客間のようだ。ガランとして生活感のない部屋で、テーブルと座布団以外には何もない。

 

 しかし、隅々まで掃除されていて、とても気持ちのいい部屋だと思った。部屋の奥にあるガラスの引き戸の向こうに側には珍しく縁側があった。縁側の向こうには、植木や花が手入れされた庭が見えて、何とも言えない優しい気持ちになれる。庭ではコスモスの花が揺れている。窓枠には、よく見ると細かな彫りが施されていて、まるで手の込んだ額縁のようだ。


「小さいけどなかなかの家だろう? 俺の両親が建てた家なんだ。二人とも、職人だったんだ。母が家具職人で父が大工。この庭も十年前ほどまでは、ずっと二人が世話していたんだ」


 十分ほど待っただろうか、トキさんは夕食をおぼんに乗せて運んできた。さっきまでの無口さや緊張感が消えて、いつもの様子に戻っている。


「今日はわざわざすまなかったな。腹減ってるだろう? 昨日の残り物の豚汁ですまないが、温めてきたから、よかったら食べてくれ」


 トキさんが運んできたおぼんには、お箸と水の入ったガラスのコップ、ご飯がよそわれたお茶碗、そしてさまざまな具の入った豚汁がたっぷり入った大きなお椀がそれぞれ二つずつ乗っている。


 トキさんが、部屋の真ん中にある楕円形の低いテーブルに、運んできた夕飯を並べていく。畳の上に敷かれた座布団に座る。


 トキさんが手を合わせて「いただきます」と言ったのに続いて、僕も同じように、手を合わせて「いただきます」と言った。


 僕が豚汁を食べ出したのを見て安心したのか、トキさんの表が和らいだ。


 食事もほとんど食べ終わると、一日の疲れが出てきたのか僕は眠たくなってきた。気を緩めると、呼ばれた理由を聞かずに帰ってしまいそうだった。どちらかというと、このまま、何も聞かずにバラックに帰って寝てしまいたい気分だった。


「海、十分食べたか?」

 まるでトキさんも、今日ここに僕を呼んだ理由を忘れているかのように見えた。


「やっぱり飯は誰かと食べたほうがうまいよな」

「そうですね。とても美味しかったです。ごちそうさまでした」


 ほぼ同時に食事を終えて箸を置くと、二人とも無言でおぼんに皿をまとめ出した。皿はすべて一つのおぼんに収まったが、「片付けを手伝ってくれるか?」とトキさんに言われたので、僕も席を立って台所に向かった。


「今日はわざわざ来てもらってすまなかったな」

 まとめた食器が乗ったおぼんを運びながら、廊下でトキさんが話を切り出した。


「あの、今日は何の話があって僕はトキさんの家に呼ばれたんでしょうか?」

 僕が率直に問いかけると、固く縛られていた糸が解けるように、トキさんがゆっくりと喋り出した。それでもやはり、いつもの雄弁なトキさんとは少し様子が違う。


「どこから話せばいいんだろうな……」

 トキさんはそう言って、台所に続く戸を開けた。

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