(077) Area 12 Inequalities 行き場のない者たち
--行き場のない者たち-- #海
トキさんは息をゆっくりと吐くと、静かに話し出した。
「俺の知り合いには、たくさん
彼らの気持ちもわからなくはないだろ?
身に覚えのない罪のせいで——MCPになる前の記憶のない過去の自分のせいで——来る日も来る日も働いては寝るだけ生活が続くんだからな」
トキさんが何でこんな話を僕にするのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「DA1や2では、そんな人間は隠れて怯えながら暮らしていくしかないのかもしれない。でもな、良いか悪いかはともかく、人権もないような扱いを受けて、本名も知らないMCPたちでも、この
とにかく、MCPが農場や他の派遣先を抜け出してこの地区で生活を続ける中で、MCP同士の間に子どもが生まれることもあってな。本当はちゃんと国に届け出て、普通の生活をさせてやりたいんだろうが、農場から脱走したMCPにそんなことできないから、子どもはそのままどんどん大きくなっていくんだ。そんな子どもが、俺が知っているだけで数十人はいる」
僕は予想外の話の内容に、僕の思考は追いついていけずにいた。
「ちょっとこれ持ってくれるか?」
トキさんは話を一旦止めて、冷蔵庫の扉を開けると、中から鍋を取り出して僕に渡した。それから、さっき買い物してきたものが入った袋を手に取ると、台所の奥にある勝手口に向かい、裏庭に続くドアを開けた。
「裏の家に持ってくんだ、一緒に来てくれ。サンダルはそこにあるのを使ってくれ」
「はい、わかりました」
穴見さんに続いて裏庭に出ると、夕暮れ時の少し冷たい風が吹きつけてきた。
家の表からは想像もできないほど庭は広く、あちらこちらから虫の鳴き声がチリチリと聞こえてきた。植物の生い茂る庭の奥には、手入れの行き届いた小さな菜園まであった。
僕が庭に気を取られていることに気がついているのどうかはわからないけれど、トキさんは庭の奥に向かってゆっくりと歩きながら、さっきの話の続きを語り始めた。
「ただ困ったことに、親がいなくなった時にその子どもたちは身動きが取れない。なぜってこの世には存在しないはずの人間だからだ。学校にだって行ってないから、普通に普通のことを知らないまま毎日を過ごしてる。俺たちはそういう状況の子どもをMCP孤児と呼んでいる。
MCP孤児は、自分の置かれた状況がどれだけ危ういかさえ気づかずにいることがある。だから、時に危険で無謀な行動に出ることがあるんだ」
トキさんの表情が曇っていく。と同時にトキさんの歩くスピードがどんどん遅くなっていった。
「怖い話だが、つい最近、役所に自分を登録できないかと相談しにいった十五才くらいのMCP孤児がいたんだ。だがな、その数週間後、その孤児が犯罪者としてMCPになって戻ってきた、なんて話がどこからともなく湧いてきたんだ。
そういう噂はものすごい速さで広まるもんだろう?
今じゃ、子どもたちは怖がって外に出ようとしないんだ」
トキさんが言わんとしていることを察して、僕は背筋に寒気が走った。
「それって、政府がMCP孤児を利用してるってことですか?」
「そうなんじゃないかって普通なら思うよな」
「そんなことって……」
僕はこれ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
「とにかく、俺はな、色んなことを見たり聞いたりしてきた。だから、MCP
トキさんもここまで言うと押し黙ってしまった。
出口を失った感情が、脳の中でぐるぐる渦を巻いている。
僕はトキさんの一歩後ろをノロノロとついて行く。僕の中に渦巻く感情とは裏腹に、トキさんの庭はとても爽やかだ。庭の左半分ほどは緩やかに盛り上がっていてまるで丘のようになっている。
庭は思いのほか奥に長くて、裏の家に行くと言っても、目と鼻の先にある感じではなく、数十メートルは離れた場所にあるようだ。植物園のような裏庭を抜けると、裏の小道に出た。その小道をちょっと進むと、別の家の裏口らしき小さなドアにたどり着いた。
ここに来るのはいつものことなのだろう、躊躇いなくトキさんはドアを開けると、何も言わずに中に入っていった。
僕はこの家の中に待っているものを知るのが怖かった。そんな僕の不安を打ち消すようにトキさんが家中に響く明るい声を出した。
「コウ、ユウ来たぞ!」
家のどこかで
「トキじ、おかえり!」
子どもたちは、とてつもなく強く、溢れ出るパワーをトキさんに向けている。きっとこの子たちはトキさんの帰りを一日中待っていたんだろうと、思わずにはいられなかった。
「ただいま」
ゆっくりとした口調で、トキさんが二人に応える。この時のトキさんの表情はなんとも柔らかで、仕事中に見せる人のいい顔とは違う優しさがあった。
トキさんに子供はいないという噂だ。けれど、二人はトキさんの実の孫のように懐いていて、その光景は傍から見ると本物の家族にしか見えなかった。噂が間違っているのだろうか……。
『かわいいだろ?』とでも言いたげな表情で僕の方に振り向いたトキさんは、僕が鍋を抱えたままなのに気がついて、キッチンの奥にある冷蔵庫を指差して言った。
「ありがとう、海。鍋は冷蔵庫の中に入れてくれるか? それはこの子たちの明日の昼飯なんだ」
「これが夜ご飯なのかと思ってました」
「いや、海に作り置きの夕飯を食わした後で言うのもなんだが、二人にはできるだけ出来立ての夕飯を出してやりたくてな。ここで作ってるんだよ。で、いつもは俺もここで夕飯を食ってるんだ」
「今日は僕のために、先に食べたんですか?」
「いいや、俺のためだよ。空腹じゃ、お前に色々と話せる気がしなかったんだ」
トキさんは少しだけ僕から目線を逸らすと、冷蔵庫の前に買い物袋を置いた。
「大きいのが兄のコウ、小さいのが妹のユウだ。こいつは海だ。俺の仲間だぞ」
トキさんが子どもたちに僕のことを紹介すると、
「こんばんは!」
と、二人の元気な挨拶が僕に飛んできた。
「こ、こんばんは」
小さく返した僕の声が子どもたちに聞こえたかはわからないけれど、二人は僕のことよりもトキさんが持ってきた買い物袋の中身が気になるようだ。特に、小さなユウは床に置かれた袋の中を思いっきり覗き込んでいる。
「トキじい。今日はオムライス?」
袋の中の材料を見てしばらく考えていたユウが、嬉しそうにトキさんを見上げて聞いた。
「よくわかったな。ユウはオムライス好きだからな。ご飯はもう炊けてるか?」
「うん。お兄ちゃんが準備してたもん」
「そうか、じゃあ早速作って食べるか!」
そう言うと、トキさんは台所の流しの下の棚から大きな中華鍋を取り出した。そして、包丁とまな板を準備すると、慣れた手つきで料理を始めた。
「コウ、今日は何してたんだ?」
「ちょっと待ってて」
牧さんの問いに、コウは部屋を飛び出して、あっという間に図鑑のように大きな本を抱えて戻ってきた。
「これ、読んでたんだ」
コウは本をトキさんに見せながら、楽しそうに本の内容を話し出した。オムライスはコウが本の話をしている間に出来上がり、台所にあるダイニングテーブルに並べられた。
夕食を食べている間もコウとユウはのおしゃべりは止まらず、テーブルを挟んで二人の向かいに座ったトキさんも、楽しそうに二人のおしゃべりに耳を傾けていた。
夕食の後には、「いつもは週末だけだが、今日は特別だ」と言ってトキさんがボードゲームやトランプを取り出した。二人は慣れた手つきでゲームの駒を並べていく。僕もルールを教えてもらいながら全力で戦ったけれど、結局一度しか勝てなかった。
四人で遊んだ二時間ほどの間、僕は今までになくよく笑った。
そしてふと思った。
僕はどれだけの間、ちゃんと笑っていなかったんだろうかと。
裏口から裏庭に出て、コウとユウにおやすみを言うと、コウの脇に立ったユウが無邪気な笑顔とともに「うみ兄ちゃん、また来てね!」と言ってくれた。
僕はトキさんに続いて裏庭を歩き出した。
なんて無邪気な子たちなんだろう。
僕にもあんな子ども時代があったのかな?
秋の夜の澄んだ空気の中でゆっくり徒歩を進める。何度振り返っても、二人は大きく手を振っていた。
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