(063)   Area 15 Everybody hurts 音

 --音-- #カイ


 どれくらいの時間寝ていたのだろう。目を覚ますと、店のカウンター越しに作業をしている神作博士が目に入ってきた。部屋の電気は消えていて、卓上の小さなライトだけが光を放っている。


 僕は起き上がって、店内を見回した。時間が知りたかったが、ここから見える場所に時計はないようだ。仕方なくベッドから出ると、博士のいるカウンターまで歩いていった。


「今何時ですか?」


 博士は忙しそうに調べ物か何かをしていたが、僕の問いに手を止めると、腕時計に目をやった。かなり古いアナログの腕時計で、細く短い秒針がカチカチと音を立てて回っている。


「十一時を過ぎたところだ」

「え、まだそんな時間ですか? もう明け方かと思いました」

「いいや、カイが寝出したのが八時ごろだったから、まだ三時間ぐらいしか経ってないよ。相当疲れてたんだろうな。横になった途端に、寝息を立ててたよ。少しは楽になったか?」

「はい、大分楽になりました。あの、その時計の音、いいですね」


 博士が着けている腕時計が、規則正しい音を刻んでいる。


「おまえ、この時計の音が聞こえるのか?」

 僕は博士がどうしてそんなことを聞くのか不思議だった。

「はい、秒針の進む音が聞こえます」

 僕の答えに神作博士は眉をしかめて、腕につけている時計を耳元に持っていった。

「もしかして、神作さんには聞こえないんですか?」

「いや、こうして耳元まで持ってくれば、微かには聞こえるが……」

「そんなに近づけないと、聞こえないですか?」

「ああ」

「神作さんは、耳が悪い方ですか?」

「いいや、普通だと思ってるが……。カイ、一体お前の耳はどれくらいいいんだ?」


 僕はこの時まで、自分は大きな音に対して過敏に反応するとは思っていたけど、自分の耳が人よりよく聞こえるなんて考えたこともなかった。でも、神作さんの聴力が普通なら、僕の耳が異常ということになる。


「えっと、あそこにある冷蔵庫の音は聞こえませんか?」

 カイはとっさに部屋の端に置いてある小型冷蔵庫を指差して尋ねた。

「いいや、あんなに遠くに置いてある冷蔵庫の音はまったく聞こえないぞ」

「じゃあ、リクのバッグに入っているパソコンの音は?」


 神作博士はあまりの驚きに声も出ずないようだ。そんな博士の様子に、僕は戸惑ってしまった。

「博士……。あの音は聞こえないんですか?」

「あ、あぁ。すまん。ちょっと待ってくれ。頭の中を整理したいんだ」

 博士は、頭を抱えて俯くと、眉間にシワを寄せて目をつむった。


 僕は、ソワソワと落ち着きなく部屋中を見渡して、あらゆる音を拾おうとした。


 さまざまな音が、波のように押し寄せてくる。でもそれらの音は昨日今日聞こえるようになったものではなく、以前からずっと聞こえていた音だ。世界はいつも騒々しくて、耳を塞ぎたくなることが多い。でも、それは普通のことだと思っていた。誰もが騒々しい世界で生きていて、街中にいる時には、意識をどこか遠くに持っていかなければ、騒がしくて立っていることさえ辛くなるものだと思っていた。


 部屋の反対側に目をやるとソファーでリクが眠っている。リクの寝息は規則正しくて、本当に気持ち良さそうだ。


「カイ、すまなかったな。俺は結構動揺しやすいタチでな」

「あの、僕の聴覚は人より鋭いんでしょうか?」

「そうだなぁ、はっきり調べたわけじゃないから断定はできないが、おそらく聴力が相当高いんだろうな」

「あの、僕の耳は異常なんでしょうか?」

「ん? 何か不自由しているのか?」


 不自由かと言われて、僕は今までの生活をもう一度思い返してみた。


「えっと、たまに騒々しくて、落ち着かないことはあります。疲れてしまうこともあるけれど、いつも聞こえているので、これが僕にとっては普通です。なので、大丈夫です。逆に、聞こえなくなることを想像すると、とても怖いです」


「じゃあ、何の問題もないだろう?」

 神作の明るいトーンの返事に、不安な気持ちが和らいだ。


「それよりな、カイ……」

「あ、はい。カイ……ですよね」


 この名前が呼ばれるたびに、僕の中のどこかが共鳴する。それは過去の僕の記憶なんだろうか。


「どうかしたのか?」


 神作博士は明らかに心配してくれているようだ。だけど、この人を本当に信用してもいいかはまだわからない。でも、信用すべきでなかったとしても、過去を知る手がかりが得られるなら、ここで引き下がってはいけない。


「あの博士、実は、カイというのはもしかしたら僕の本当の名前かも、という感じはするんです」

「そうなのか⁈ それは、いつからだ?」

 神作は食いつくように問いかけてきた。


「たぶん昨日からです」

「そうか。できれば、もう少し詳しく話してもらえないか?」


 博士がどうしてこれほど僕に興味を持つのか、その理由は見当もつかなかったけれど、カイという名前がもしかしたら僕の本当の名前なのかもしれない、と感じたきっかけの出来事を僕は話しだした。


「えっと、昨日の夜、リクに連れられて追羽根橋に行った時です。


 リクは僕は橋を渡れるって言ったけど、僕は怖くて動けなかった。でもその時に橋の向こう側から誰が僕を呼ぶ声が聞こえたんです。


 つまり『カイ』と呼ばれた気がして、声のした方に振り向きました。そうしたら、視線の先に女の人がいて、気がついたら僕はその人を追いかけていました。


 あの時は無我夢中だったので、今となっては、はっきりとしたことは何も言えないんですけど……昔の記憶が蘇っただけなのに、蘇った記憶があまりに鮮明すぎて誰かを見たと勘違いしたのかもしれません。


 実際、リクは僕が追いかけた人を見なかったようなので……」


「そうか、昔の記憶か……。つまり、お前は昨日初めて『カイ』って呼ばれたんだな」

「いいえ」


 僕が否定すると、博士は眉を顰めた。


「違うのか?」

「はい。実は、オヤジさんにも『カイ』と呼ばれたことが一度だけありました。でもその時は、自分の名前を呼ばれたという感じはまったくしませんでした」

「オヤジさんっていうのは、DA3で世話になった人か?」

「はい。DA3にいた頃に働いていた食堂の方で、とてもお世話にりました。リクは僕はMCP記憶制御された者じゃないと言ってますけど、僕はMCPになった説明を受けて、DA2にある研究施設からDA3に連れて行かれたんです」


 博士は、思いつめた表情で僕の話に耳を傾けている。何か真剣に考え込んでいるようだ。だが、僕はそんな博士の様子からできるだけ気を逸らし、自分の中にある感覚を確かめるようにしながら話を続けた。


「だだ、カイという名前と違って、鷺沼という苗字はどうも馴染みがないというか、しっくりこなくて、MCPになる前の僕がその名前で呼ばれていたとは、どうしても思えないんです」

「そうか、まあ感ってもんは、なんだかんだ言って当たることがあるから、名前については、慎重に探りを入れたほうがいいかもな」


 博士はそう言うと、なぜか僕から視線を逸らした。


 一分ほどだろうか、博士は僕を無視して何か考え続けていた。そのことに気がついた博士は、ハッとしたように顔を上げて僕に目線を合わせた。


「俺はもう少し調べ物をしてから寝る。カイはもう一度寝たほうがいい」

 カウンター上のパソコンで博士が再び調べ物を始めると、僕はベッドに戻った。


   ◇     ◇     ◇


 僕は仰向けに寝転がって天井を見上げていた。僕についてきたココネは僕のお腹の上に乗っかってゴロゴロ喉を鳴らしている。


 博士とはもう少し話をしたかったが、気になることは明日まとめて聞けば良いだろう。


 僕は今の自分の状況が複雑すぎてで頭が混乱していた。左腕を両瞼の上に乗せて、これまでの出来事を、頭の中でリスト化していく。


 

 ・オヤジさんの名前は何か

 ・なぜオヤジさんは殺されたのか、病死だったのか

 ・なぜ永薪食堂は燃やされ、跡形もなく片付けられたのか

 ・火事の夜に店に来た人は誰か

 ・食堂の跡地にいた、オレンジのバイクに乗っていた人は誰か

 ・タブレットのパスワードは何か

 ・タブレットの画面に映し出される子どもたちは誰か

 ・僕は本当に『鷺沼カイ』なのか

 ・僕はMCPなのか、もし、MCPでないのなら、どうして記憶がないのか



 気になることはまだまだあるけど、この中で、解決できそうなものはどれだろう。どれも簡単には解決しそうにないけれど、少なくとも、タブレットの画面の写真に写っているエリアについての心当たりはあるんだから、まずはそこに行ってみるべきだろう。


   ◇     ◇     ◇


 翌朝、鳥の鳴き声と店の前や後ろの道を行き交う人の声や足音に起こされて、僕を目を覚ました。ココネはいつの間にか僕のお腹の上から枕元に移動していた。昨夜は少し寒かったのだろう、くるりと丸くなってスースー寝息を立てている。僕はココネを起こさないように静かに立ち上がると、店の入り口に向かった。


 カウンターの奥の部屋から神作博士のものと思われるいびきが微かに聞こえる。リクは、変わらずソファーで寝ているようだ。


 僕は一人静かに店の外に出た。

 今まで普通に聞き流していた音が、カラフルに色をつけたようにはっきりと耳の中で響く。

 今までは当然だと思っていた遠くの音を拾っては確かめてみる。

 やっぱり外は騒々しいな。でも、これが僕の世界だ。


 生まれて初めて一つ一つの音を意識的に聞き分けてみる。これは思ったより難しい。あまり音に集中し過ぎると、車酔いのように気分が悪くなってしまう。


 店の中に戻ろうと、意識を店の方に向けた途端、ミャと小さな声が聞こえてきた。ココネが目を覚ましたようだ。その声に引き寄せられるように店内に戻ると、案の定ココネは目を覚ましていて、ベッドの上で毛づくろいをしていた


「おはよう。僕がベッドを出る時に起こしちゃったかな? それとも君は早起きなの?」


 ベッドに腰掛けてココネを撫でていると、博士の部屋から音がして、ドアがカチャッと開き、寝癖のついた博士が出てきた。昨日顔につけていた奇妙な双眼鏡のようなものを外していて髭も整えてあり、思った以上に普通の見た目をしていて、僕は逆に驚いてしまった。


「お、もう起きてたのか?」

「神作さん、おはようございます。目につけていたもの、今日はつけていないんですね」

「メガネのことか?」

「あれはメガネだったんですか?」

「何だと思ったんだ?」

「少し変わった形の双眼鏡かな、と……」


「そんな形かもな。俺の左目はかなり悪くてな、かなりひどいんで、あれがないと細かいものがよく見えないんだ。右目はもう見えないしな。まあ、店の中にいれば何がどこにあるか覚えてるから、はっきり見えなくても何とかなるんだが。俺の目にもカイと同じようにレンズが埋め込まれていてね。アプリを使ったら周りの状況は理解できるから、外出する時はそれで何とかなっている」


 僕はガラクタや、機械の部品、工具などさまざまなものが整理整頓されずに置いてある雑然とした店内を見回して、この状態の店内に何があるか覚えていられるなんて、神作博士の頭の中はどうなってるんだろうと思った。


「あと、リクは人と目合わさないように気をつけて生活しているだろう? メガネをつけていると無理せず顔を合わせて会話できるからちょうどいいんだよ。まあ細かい作業をする時以外は大概度入りのよくあるサングラスをかけてるがな」


 博士は、キッチンに立つとポットに水を入れて沸かし始めた。


「カイ、珈琲飲むか?」

「はい、お願いします」

「昨日はあの後、ちゃんと寝れたのか?」

「はい、よく寝れました」


 僕は神作博士の問いに答えながら、博士って、第一印象が強烈すぎただけで、結構普通の人なのかもしれないと思い始めていた。


「ミルクと砂糖いるか?」

「ミルクだけ入れてください」

「何だ、親父と同じか」

「親父? 神作さんのお父さんもミルクだけ入れてたんですか?」

「あ、あぁ」


 神作は少し歯切れの悪い返事をした。父親のことについては触れられたくないのだろうか? 神作博士のお父さんって、どんな人なんだろう。この人に父親がいるなんて、なんだか想像できない。


「カイにとって父親はどんな人だったんだ?」

「僕には家族の記憶はないので……」

「そうか。そうだったな。すまない」

「謝らないでください。僕がどれだけのことを覚えているかなんて、他の人にはわからないことですから。それより、レインはどこに行ったんでしょうか?」


 僕は、気分を紛らわすために、話題を変えた。


「レイン? そういや見てないな。まあ、朝飯をもらいに近所の家をまわってるってとこだろうよ」


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