(088) Area 8 Moratorium あったかいもの
--あったかいもの-- #海
一体いつの間に眠ってしまったんだろう。ドアが開く音で目を覚ました僕は、足をくじいているのも忘れて、反射的に起き上がろうとした。
「痛っ!」
マットレスの上で足の痛みにもがき苦しんでいる僕をよそに、穴見さんの快活な声が部屋中に響く。
「今帰ったぞ!」
「おかえりなさい……」
僕は、穴見さんの砕けた調子に面食らってしまった。
「少しは楽になったか? 海、だったよな」
「はい」
僕がよっぽど寝ぼけた顔をしていたのか、穴見さんはあきれた顔で、少し笑った。
「うらやましいな、一日中寝てたのか?」
「すみません」
穴見さんは抱えていた紙袋をテーブルの上に置いて、その袋からスーパーから買ってきた惣菜を出して、並べだした。
「謝るなよ。休んどけって言ったのは俺だ。それより、こっちに来て海も飯を食べろ。一日中何も食べてないから腹減ってるだろう? すまなかったな、パンの一つも置いていけばよかったんだが、朝はバタバタしてて……」
穴見さんは話しながら、テーブルの上にあった電気ポットを持って、部屋の片隅にある洗面台に向かった。そして、水道の水をポット注ぎながら、僕が思いもよらないことを訊いてきた。
「あんたさ、桜咲町の商店街の端にある永薪っていう食堂からきたのか?」
「え? 永薪食堂のこと知ってるんですか?」
今朝、僕が永薪と名乗った時に穴見さんは『ここらじゃ聞かない名前だな』と言っていたのに、帰ってくるなり食堂のことを聞かれて、僕は驚きを隠せなかった。
どこで僕や永薪食堂のことを知ったんだろう。こんなに早く素性がばれるなんて、この地区で永薪と名乗るのは控えたほうがいいのかもしれない。
オヤジさんが『できるだけ遠くに逃げろ』と言ったのにも、何か理由があるはずだ。何から逃げているかもわからない状態なのに、自から身元を明かすなんて、自分がどれだけ不用意だったかを今になって思い知らされた。
「いいや、今日仕事中に、その食堂のことをたまたま耳にしたんだよ。そこが火事で燃えちまったって、何人かが話してるのをな」
電気ポットのコードをコンセントにつなぐと、穴見さんは急須に茶葉を入れて湯呑みを二つその横に並べた。
「俺は外食は苦手でな、職場のやつらとは世間話もしないし、その手のことはには疎くてな。ただ、職場のやつら、普段はおとなしく仕事してるんだが、今日は妙に騒がしくてよ。耳すまして聞いてたんだ。それでな、聞こえてきた内容をまとめてみると、昨日永薪食堂で火事があって、そこの
オヤジさんが行方不明? 遺体は発見されなかったのか?
「建物は全焼したらしいが、すぐ隣に建物がなくて飛び火はしなかったようだ。それから、晩のうちにちょうど大雨が降ったおかげで、鎮火するのも早かったらしい。
そう言えば、オヤジさんに限って逃げ遅れたなんて考えられないって言ってるやつもいたなぁ」
「そうですか」
やっぱり夢じゃなく、現実なんだ。本当に永薪食堂は燃えて無くなってしまったんだ。
僕は自分の記憶と穴見さんの話が重なり合うたびに、心に重石が加わっていき、体が海の底に沈んでいくように感じた。
「それでな、今朝、海が永薪だって言ってたから、そこから来たのかと思ったんだ」
僕はこの時になって、オヤジさんと同じ苗字使ってしまったことを、後悔していた。
「はい、そこで働いていました。でも、僕の苗字は本当は永薪ではなくて、わからないんです」
この人にこれ以上嘘をついたら、すぐに見抜かれてしまうと感じたので、僕は本当のことを伝えた。穴見さんはただ頷いた。
穴見さんは僕が永薪食堂で働いていたことを知っても、ひどく感傷的になることはなかったが、「そうか、大変だったな」と言うと、テーブルの上にあった湯飲みやお皿をひとまとめにして、洗面台まで持っていき、洗いだした。
僕は穴見さんが食器を洗っているを間、僕は、今さっき穴見さんが言ったことを考えていた。雨で火が消えたのなら、もしかしたら、消防署には連絡されていないままで、僕のことを管理をしている施設は、火事が起こって僕が逃げ出したことに、まだ気がついていないのかもしれない。
「あの、警察は火事の捜査を始めているんでしょか?」
「警察はおろらく動いていないだろうな。ここらは他人のために消防や警察に連絡するような奴はいないからなぁ。あの大雨か地元の消防団だけで火が消えたなら、まず誰も連絡してないだろう」
「そうですか」
「それより、まずは飯だ。そのあと詳しい話を聞かせてくれ」
穴見さんは、窓際に置かれた椅子に積まれた本を床に降ろすと、その椅子をテーブルのところまで運んできた。
「歩けるか?」
「大丈夫です」
とは言ったものの、僕は恐る恐る立ち上がった。体を支えようとすると左足はかなり傷んだ。もしかしたら、足の腫れがひどくなっているのかもしれない。それでも何とかテーブルまでたどり着くと、穴見さんが僕のところに椅子を持ってきてくれた。椅子に腰掛けると心が妙に落ち着いた。
穴見さんはテーブルの上に並べた惣菜の中から二パックを選んで僕に渡すと、自分は残りのパックを開けて食べだした。
僕は「いただきます」と言って、穴見さんに続いて食事を始めた。
電気ポットのお湯が沸くと、穴見さんは急須に茶葉を入れてお湯を注いだ。そして、湯飲みにお茶を注ぐと、その湯飲みを僕に差し出しながら、「これくらいしか、あったかいもんはないんだよ」と言った。
僕は一杯のお茶がこれほど身にしみたことはなかった。
「すごく、美味しいです」
この時の僕は、自分でも気がついていなかったけれど、本当は今朝からずっとひどく心細かったんだと思う。
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