(089)   Area 8 Moratorium 画面の中

 --画面の中-- #海


 体をなんとか起こすと、足を引きずりながら、壁伝いにテーブルまでたどり着いた。椅子に腰掛けると、タブレットに手を伸ばした。


 昨日は慌てていたせいで気が付かなかったけれど、かなり分厚く旧式のタブレット端末のようだ。画面や本体には小さな傷がたくさんついている。

 

 電源ボタンを押すと、小さな男の子と小学生くらいの女の子が焦げ茶色の犬と遊んでいる写真が画面に映った。



 この子たち、誰だろう? 



 男の子はかなり小さくて、ビニールシートの上に座ってる。二歳前後だろうか? そう言えば、オヤジさんと家族の話をしたことがなかった。オヤジさんに家族はいたんだろうか? 家族がいたのなら、この子どもたちはオヤジさんの子どもだろうか?


 画面をタッチすると、写真は消えパスワードの入力画面に切り替わった。


「パスワード……」


 英文字入力のキーボードが画面に表示されている。

 どうしよう。パスワードなんてまったく検討もつかない。


 そう言えば、あの時オヤジさんは『ジンを見つけろ。ミエに謝ってくれ』と言った。

 ジンって誰だ? 常連客にそんな名前の人はいなかったはず。


 パスワード、パスワード、パスワード……。


 どれだけ時代が進んで、セキュリティー問題が多発しても、未だに案外誕生日や名前が多いって聞いたことがあるけど……。


 オヤジさん名前? そう言えば、オヤジさんの下の名前、聞いたことがなかった……。


 どうしよう、こういうのって、適当に入れて間違えたら、更にロックがかかったりするのかな? 


 しばらくの間、試しに何か打ち込んでみようかと悩んでいたが、なかなか勇気が出ない。

 それでも、まさか、一度しかパスワードを入力できないってことはないだろうから大丈夫だ、と自分自身を説得し、駄目元でeimakiと入力し、確定ボタンをタップした。


 すると、あっけなく画面の中央に『パスワードが違います』と表示され、『60:00』からカウントダウンが始まった。カウントダウンしている数字の下には、『セキュリティーのため、一定期間ログインができません。』と表示されている。


 苗字がパスワードなわけないか……。


 それにしても、一度間違えると一時間も入力できないのか。結構長いな。


 そういえば、改めて考えてみると、永薪は店の名前だけど、オヤジさんの苗字じゃない可能性もあるんだ。


 そう思うと、オヤジさんのことを自分は何も知らないまま、頼りきっていたことに気がついた。僕は、自分よがりじゃなかっただろうか?


 名前……。そう言えば、僕の名前って、本当はなんていうんだろう?

 うみはオヤジさんが呼び始めた名前だから、僕の本当の名前じゃない。



 本当の名前か……。



 記憶が操作される前は、何て呼ばれていたんだろう。


 毎日呼ばれていたはずなのに、MCU記憶制御装置にかけられただけで、思い出せなくなるなんて。


 MCUって一体どんな装置なんだ?

 記憶を操作された施設で聞いた説明だけでは、装置の仕組みはわからないし、開発者が誰なのかも聞かされていない。


 いけない、論点がずれてきた。昨日の火事について考えていたんだった。犯人はどこの誰なんだ?


 火事が起きる前に聞こえてきたのは、数人の声だった。だけど、顔どころか性別もわからない。低い声だったので、男性の可能性が高いけれど、断言はできない。ただ言えるのは、物取りではないだろうということ。まず、物取りが不用意に普段深夜まで営業している食堂に押し入るわけがない。それに、いくらオヤジさんに見つかったからといって、建物を燃やすのは不自然だ。単なる物取りの犯行なら、被害を大きくするより逃げる方が得策だろう。


 これだけのことを実行したってことは、計画的な犯行だと考えたほうが自然だ。だけど、どうして計画を練ってまで、あの食堂を燃やす必要があったんだ?

 まったくわからない。

 結局のところ、僕はオヤジさんのことを何一つ知っていなかったんだ。


「一体、僕、何してるんだろ……。これからどうすればいいんだ」


 昨日は勢いで逃げてきたけれど、オヤジさんがいなくなった今、僕は別の働き口か他のMCP記憶制御された者が送られた国立農場で働くことになるのだろうか? 

 MCPの居場所はどうやって管理されているんだったっけ? 

 追跡用のチップでも体に埋め込まれているのだろうか? 

 でも、もしそうなら、昨夜の火事から何時間も経つのに、まだ誰も僕を捕まえに来ないのはおかしい……。


 わからないことが多すぎる。


 限られた情報の中で自問自答し続けても、明確な答えは得られそうにない。


 しばらくは椅子に座って考えていたが、昨日の夜外で倒れていたせいか、体がまだ冷えていて、震えが止まらなくなった。タブレット端末を持って何とかマットレスの上に戻ると、掛け布団を頭からかぶって体が温まるのを待った。

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