第2章 オヤジさんと永薪食堂での平和な日々
(101) Area 3 Sea 商店街のはずれの食堂
--商店街のはずれの食堂-- #僕
太陽の光が眩しい。
さっきまで乗用車の後部座席に横たわっていた僕は、起き上がると同時に、車の窓の向こうに広がる景色に若干目眩を起こしそうになりながら、流れていく景色を目で追っていた。
DA3の東側にある中高層ビルが立ち並ぶ殺伐としたエリアを通り抜けると、細長い人工池が目に入ってきた。その池沿いの道を五分ほど進むと、建ち並ぶビルの高さはどんどん低くなっていった。
車のバックミラーに映る僕の姿は何とも頼りなく、これが自分自身だと思うと心もとなく、不安になるほど幼く見えた。
僕を乗せた車は、桜の花びらが雪のように舞い散る交差点を左に曲がると、人影もまばらな商店街を走り抜けていく。
一昔前までは、多くの人が行き交っていたであろうアーケードをくぐる。
両脇に並ぶ店のシャッターはほとんど降ろされていて、ひどく物悲しい雰囲気が漂っている。
車がアーケードを抜けると、車内に再び強い日差しが差し込んできた。
僕はあまりの眩しさに目を閉じたが、車の速度が落ちたのを感じて、再び目を開けた。
商店街のアーケードを抜けても店舗が数件続いてたが、その店舗の波が唐突に途切れて、空き地が現れた。そして、その空き地の向こう側には木造の一軒家が建っていた。
どこか懐かしい感じがするその家は木造の二階建てで、一体いつからここに建っているのか想像ができない。改装を何度も重ねたのか、外壁はさまざまな種類の木で継ぎ接ぎされた跡があり、摩訶不思議な構造をしていた。
入り口のドアの上には『永薪食堂』と文字が彫られた木製の看板が掲げられている。食堂は、今日は休みのようで、『CLOSED』と書かれたプレートがドアのノブにかかっている。
永薪食堂の前に僕を乗せた車が止まると、後部座席のドアが自動で開いた。
春先のまだ冷たい風が車内にいる僕に吹き付けてくる。
「着いたぞ」
運転手の声に促されて僕が車から降ると同時に、示し合わせたように食堂の扉が開き、短髪に短いヒゲ生やしたガタイのいい中年の男が現れた。
白いTシャツに、ジーンズ姿で、その上から黒い前掛けをしていた。
僕は、目の前に現れたその男のことを怖いとは思わなかったけれど、『近くにいるのに、なんて遠くに感じるんだろう』と感じた。その時に感じた遠さ、独特な距離感は、その後も埋まることはなかった。
店の前に突っ立ったまま、微動だにせずいる僕を見下ろして、その男は落ち着いた低い声で、
「待っていた」
と言った。
◇ ◇ ◇
食堂の入り口に立つ男を見上げて、何分くらい立ち尽くしていたのかわからないけれど、振り返った時にはもう、僕を乗せてきた車は来た道を引き返していて、大きな桜の木のある角を右に曲がると、僕の視界から消えていった。風が頬に当たり前髪を揺らす。
何の説明もないまま、その場に取り残された僕は、頭の中が空っぽの箱のようになって、思考が完全に停止してしまった。
言葉が何一つ出ず、どうしていいかわからないまま、その場に佇んでいた。
何ヶ月も日に当たっていないような血色の悪い青白い肌をした何とも頼りない青年の姿が店の窓のガラスに映っている。その見慣れない自信なさげな人間が、自分自身だと信じることは難しく、形容し難い違和感があり、馴染むことができなかった。
まるで借り物の器に入れられてしまったような、知らない場所に一人取り残されたような居心地の悪さを感じていた。
目の前にいる男の額には深いシワが刻み込まれ、ひるみそうになるほど厳しい顔つきをしている。僕が目を逸らしているわけではないのに、互いの視線が合うことはなく、男の目は僕の方を見ているのに、まるで何キロも先を眺めているように見えた。
しばらくすると、その男は厳しい表情のまま「飯ができている」とだけ言って、店の中に入っていった。
眉間にしわの入った厳しい顔つきとは対照的に、男の声にとげとげしさはなく、とても落ち着いた物言いで、人の心をを穏やかにする響きを持っていた。
そうか、僕はここで働くことになるのか。
この時になって、僕はやっと自分が国立農場ではなく『その他の指定の派遣先』で働くことになることに気がついた。
僕は男の後に続いて食堂の中に入っていった。
食堂の内装は外装と同じように、壁も天井も床もすべて木でできていて、店内は柔らかな空気で満ちており、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
南側に大きな窓があるからか、暖房はついていないのに、春先とは思えないほど食堂の中は暖かかった。
入って右側はダイニングエリアになっていて、四人掛けと二人掛けのテーブルが四台づつ並んでいた。左側にはカウンター席があって、カウンターの向こうにはキッチンが見えた。カウンターの隣にある引き戸は開いている。引き戸部分に掛かっている
食堂中に美味しそうな匂いが漂っていて、店の一番奥にある陽の当たるテーブルには、夕飯が二人分用意してあった。
男に続いて、僕は料理の用意されたテーブルに向かった。
促されるままに僕が席に着くと、男は向かい側の席に着いた。
男はカトラリーの入ったカゴを僕に渡した。
「好きなだけ、食べるといい」
「いただきます」
僕が小さな声で言うと、男は小さく頷いた。
その時の男の表情に、さっきまでの厳しさはなかった。
僕が到着する時間に合わせて用意していてくれたのだろう、目の前に置かれている器の蓋を開けるとふわっと湯気が立ち上がった。器によそわれたスープには色とりどりな野菜がたくさん入っており、見ているだけでも心が温かくなり、気持ちが次第に落ち着いてきた。
男はそれ以上僕に話しかけることもなく、スプーンを手に取ると、静かに食事を始めた。何も言ってはいけないわけではないけれど、何かを言わなければならないわけでもない。そこには不思議な間合いがあった。
僕も男に続いて食事を始めた。西側の窓から少し低く傾いた陽が差し込み、テーブルの上を明るく照らした。
さっき出会ったばかりの見ず知らずの人と食事をしているのに、知らない人と過ごすようなぎこちなさや緊張感を感じることはなかった。それでも、やっぱり自然に話しかけることはできなくて、しばらく何も言わないまま食事を続けた。
食事をし始めて五分くらいした頃、僕は手を止めて、たどたどしい口調で尋ねた。
「あの、すみません。お名前は……何と呼べば、いいんでしょうか?」
僕は声を出すたびに、長い間、誰とも喋っていなかったのではないかと思うほどの違和感を喉に感じた。
僕の問いに対して、男はここにいない誰かに目を合わせるように、僕の肩に目線を落として、ゆっくり言った。
「もういないんだね」
それがどういう意味なのか、何を意図して口にした言葉なのか、この時の僕には理解できなかった。けれど、その口調からは寂しさがにじみ出ていて、追及してはいけない、これ以上触れてはいけないことのような気がした。
僕は俯くと、黙ったまま、まだ温かいスープをスプーンですくって、静かに口に運んだ。さまざまな野菜が小さく刻まれて入っている、ほのかに甘いスープだった。こんがりきつね色に焼かれたパンもまだほんのり温かく、バターを塗ると溶けてじんわり染み込んでいった。
カチ・カチ・カチ
二人だけの静かな食堂に、時計の秒針が時を刻む音が、少し寂しそうに響く。
しばらくの間、また二人とも何も言わずに食事を続けていたが、男はふと我に返ったように顔を上げて言った。
「私のことは
◇ ◇ ◇
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