(098)   Area 4 People who we lost いるべき場所

 --いるべき場所-- #海


 五月の中頃、晴れた日の朝に、カランカランと、食堂の出入り口のドアについた釣鐘がなった。キラキラとした初夏の光が、ドアの隙間から差し込む。ドアが大きく開くと、清々しい風が店内を駆け抜けた。


「おはようさん、朝早くにすまんな」

 開店準備中の店内に、聞き慣れた声が響く。

 少ししわがれた声の主は常連の牧さんで、いつもより店に来るのが早いのを気にしながら、申し訳なさそうに店内に入ってきた。


「おはようございます」

 店内のマガジンラックの上段に今日の新聞を置いていた僕は、牧さんに挨拶すると、食堂に佇む古時計に目を向けた。


 ちょうど時計の短針が九時を指して、時を刻む音を奏で始めた。確かに、いつも十一時過ぎに昼食を食べにくる牧さんにしては早い時間だ。


「牧さん、おはようございます」

 牧さんの声をに反応して、オヤジさんもキッチンの奥から出てきてカウンター越し顔を出した。


 牧さんは、真っ白な銀色にもみえる短髪が印象的な小柄な男性だ。年齢は五十歳と言われればそう思えるし、七十過ぎと言われれば、それはそれで納得してしまうような不思議な風貌をしていた。気のいい穏やかな人で、一度も怒ったり、不機嫌にしているところを見たことがなかった。


「今日は早く来てすまないが、静かな時間が過ごしたくてね……。こんな時間に来てしまった。いつものをお願いできるかな?」

 マガジンラックの横にある窓際の小さなテーブルに牧さんは向かう。


「少し準備に時間がかかりますが、大丈夫ですか?」

 牧さんは僕の問いに小さく頷くと、椅子に深く腰掛けた。


 牧さんはいつもは朝十一時ごろに来ると、アイスティーを飲みながら、しばらくオヤジさんと世間話をする。そして小腹がすいてきた頃に、サンドイッチを食べながら新聞を読み、最後に珈琲で締める。


 僕がこの食堂にやって来るまでは、牧さんはカウンター席に座って、料理の下ごしらえをするオヤジさんを横目に、新聞をめくりめくり、その場限りの気まま会話を繰り広げていたらしい。けれど、店を手伝い始めた頃の僕があまりにもそそっかしくて見ていられず、窓際の席に座るようになった。


 そして、僕が一人でランチメニューの準備をできるようになると、オヤジさんは店が忙しくなるまでは、店内に置いてあるベンチに座って一息つくようになった。


 窓際の席とベンチの間には程よい距離があり、牧さんとオヤジさんは毎日のように世間話している。


 僕は作業に集中すると、二人の会話はほとんど耳に入らなかったけれど、牧さんが新聞を読みながらあれこれ言うのに対して、オヤジさんが相槌を打っている感じだった。


 しばらくして、僕がアイスティーを持ってテーブルに向かうと、牧さんが天気の話でもするかのような調子で気軽に話しかけてきた。


「初めの頃はどうなることかと思ったが、うみはずいぶんここでの生活に慣れたな。孫でも見ている気分だったよ。海がこれだけしっかりすれば、もう安心してここを去れる。私は今日で最後なんだよ」


 牧さんの口調はどことなく寂しそうで、話の内容がスムーズに頭に入ってこない。


「最後って、何が最後なんですか? ここを去るって……」


 牧さんは深く息を吐いてから若干の間を置いて言った。


「ここに来るのは今日で最後なんだ。ここでの生活が、今の私でいることが、終わるんだよ」


 予想外の返事に僕は驚いて、その場で動けなくなってしまった。牧さんがもうここに来ない? 突然どうして?

 牧さんは、僕の反応に気がついているのかいないのか、低い声のトーンで話を続けた。


「今更戻れと言われてもね。もうここで二十年も過ごしてきたから、知り合いも家も、何もかもここにあるんだが……」

 言葉の節々に、ためらいや迷いが感じられる。


 僕はここに来てからずっと、人に喋りかけたり質問したりするのをできる限り避けてきた。他人事に口を出すことは、人の家に土足で入り込むようなことだと思ったし、自分のことを何も答えられない僕が、人に質問して良いのかもわからなかった。それでもこの日の僕は、無意識のうちに言葉を発していた。


「牧さんは、どこに戻るんですか?」

 僕の質問を受けて牧さんは、少し困ったような、戸惑った表情をした。


「昔いた場所だよ。そこにいたことさえ覚えていないのに、つい先日、呼ばれてしまってね」

「そこには戻らなくちゃいけないんですか? ここに来るのは本当に今日が最後なんですか?」

 僕は単純に牧さんに会えなくなるのが寂しくて訊ねた。僕のわがままかもしれないけれど、できることなら牧さんを引き止めたいと思った。


「あぁ、ずいぶん悩んだんだが、断る勇気もなくてね……。それに、ずっと、本当の居場所はやっぱりここじゃない気がしてるんだよ」

 困った表情の牧さんを見て、牧さんは僕以上に寂しいのだと察した。


「きっと、牧さんを呼んでいる人は、楽しみに待っているんでしょうね」

 無理に引き止めるよりも、背中を押せるほうがいいはずだ。けれど、僕の言葉に牧さんの心が反発したのか、堰を切ったように牧さんから言葉が溢れ出した。


「今までの自分でいることが終わるような気がしてな、ものすごく怖いんだよ。帰ることは、もうずいぶん前に、とうに諦めたつもりだったんだ。諦めてからは、逃げるとか、知らない振りをすることなく、ここでの日々を精一杯生きてきた。なのに、何かが急き立てるように追いかけてくるんだ」


 牧さんは、空っぽになったグラスを握りしめて、じっと俯いている。


「——『ここに居続けることを望んでいないだろう?』って自分の中で誰かが問いかけてくる。

 それは、もしかしたら、昔の自分なのかもしれない……。それでもな、もしここを捨てたら、昔に帰ったら、今の自分じゃなくなってしまう気がするんだ。

 ここでのすべてが、夢みたいになっちゃうんじゃないかって思ってしまう。一体……本当の自分はどこにいるんだろうね」


 彼のような、僕の何倍もの年月を重ねてきた人が弱気になるのを見て、僕は心がざわざわとして落ち着かなかった。


 オヤジさんは何も言わずにベンチに座ったまま、食堂の外の道を見つめている。


 こんな時は、どうすればいいんだろう。


 人生に関わる決断への答えなんて、簡単に出せるわけがない。きっと牧さんも相当悩んで決意してきたのだと思う。その決意が、今になって揺らいでいる。


 本当は、僕なんかが口を出すべきじゃないのかもしれない。でも、僕は何か言わずにはいられなくて、無責任かもしれないけれど、言葉を出てくるままに紡いで牧さんに問いかけていた。


「でも、ここを去っても、牧さんが消えてしまうわけではないですよね……。

 毎日ここに来たことや、今こうして話していることが消えてなくなっちゃうわけじゃないですよね……。今の僕があるのは、オヤジさんや牧さんが見守ってきてくれたおかげだと思っています。だから、僕やオヤジさんが存在する限り、牧さんは消えたりしません」


 牧さんは、微笑みながら顔を上げた。


「大袈裟だな、海は……。でも、そうだな。何が変わっても、私がここにいた時間が消えてなくなるわけじゃない……。私は変わることに臆病になってしまったようだな」

 張り詰めた表情が和らぎ、穏やかな表情に戻った牧さんは、自分自身の気持ちを確かめるようにゆっくりと言った。


「今の海を見ていたら、ここを去る決心がついたよ」

「今の僕、ですか?」


「そうだよ。私もここに来た頃は君と同じだった。右も左もわからなくてね。自分が何者か知りたくて、でもわからなくて、心の奥底ではいつも怯えていた。真っ直ぐな海を見ていたら、昔の自分を思い出したよ。良いことも悪いことも、何もかも受け止めていた頃をね……。まあ、あの頃の私は気性が激しかったから、物事を受け止めるまでに時間がかかることもあったけれどね」


「僕には、気性の激しい牧さんは想像できません」

 僕はキョトンとして、牧さんの目を覗き込んだ。


「ハッハッハ。そう言えば、海には怒鳴ったことがないな」

「私にはあるけれどね」


 アイスティーのお代わりを持ってきたオヤジさんが、からかうように一言だけうと、グラスをテーブルに置いてキッチンに戻っていった。


「まぁ。人は変わっていくものさ」

 牧さんは遠くを見るように顔を上げて、食堂内をゆっくり見回している。


 僕はなぜか、牧さんの周りだけ時が止まったように感じた。牧さんは僕に向かって、でも自分自身に語りかけるように言った。


「私はここでの生活に慣れすぎて、すっかり忘れていたんだな。初めて何かを始める時の不安や希望が入り混じった思いを……。自分もかつてはそんな風に色々な思いを抱えていたことを……」


   ◇     ◇     ◇


 少しの沈黙の後、牧さんはいつもと同じようにテーブルの上に新聞を広げると、一面から記事を一つひとつ読み始めた。


 オヤジさんと牧さんの会話が弾み、二人の声が食堂中に響く。この光景を見るのが今日で最後になるなんて、僕にはまだ信じられない。


 そう言えば、紙の新聞はもうDA3にしか残っていないらしい。大きな新聞の紙をゆっくりとめくりながら読み進める光景が見られないなんて、僕には他の地区での生活が少し味気ないように思えた。


 僕はほんの少し前まで、そんな世界を当然のものとして生きていたのかな……。


 過去の自分について、無意識のうちに自問自答を繰り返していることに気がついた。

 そして、ここに存在する現在形の自分が、非常にもろく危ういものであるという事実を突きつけられたように感じた。


   ◇     ◇     ◇


 僕がキッチンに戻って一時間ほど経った頃、時間に逆らうようにゆっくりと珈琲を飲んでいた牧さんが静かに席を立った。


「オヤジさん、もうそろそろ行くよ」

 テーブルに食事代を置いて、ドアに向かって歩き出す。


「ありがとうな、海」

 牧さんの声に躊躇いや迷いは感じられない。牧さんがドアを開けると、店内に入ってきた時と同じカランカランという釣鐘の音が響く。


 釣鐘の音にかき消されそうになった声を、僕の耳が拾う。


「海、元気でな。オヤジさんを頼むよ」

 オヤジさんと僕は牧さんを見送るために表に出た。


「牧さん、ありがとうございました」

 僕は永薪食堂に来て初めて、心の底から寂しいと感じていた。


 牧さんは振り返ることもせず、右腕を上げて手を振った。眩い光が快晴の空から降り注ぐ。


「じゃーな」


 僕の寂しさを打ち消すように、牧さんのすがすがしい声が、高く澄みきった空を越えて、僕の耳に届いた。


 見送る背中はとても小さいけれど、前に進んでいく力強い意思を感じた。きっと、牧さんは次の場所でも優しく穏やかに暮らしていけるだろう。


 牧さんを見送る僕の横で、オヤジさんが空を見上げている。

 オヤジさんは目線を下げて、牧さんの後ろ姿に視線を移すと、諭すように言った。


「海。牧さんは記憶の旅に出るんだ。失うんじゃないんだ。回復者になって、過去を取り戻すんだ」

「え?」


 僕は時が止まるかと思った。さっきまでの交わしていた牧さんとの会話が、僕の中で色を変えていく。積み重なった想いがガタガタと音を立てて崩れ落ちていくような気がした。


 僕は視線を足元に落とした。まっすぐ前を見ていられなかった。

「僕は、何も……。何もわかってなかった」

 回復者になるなんて、記憶が書き換わるなんて……。


 昔いた『場所』に帰るのだと勘違いして、憶測だけで話していた僕に、牧さんが話を合わせてくれていたなんて。自分のことがひどく間抜けに思えた。


 回復者になったら、今の記憶が残る保証なんてない。昔の記憶に飲み込まれて今の自分なんて消えてしまうかもしれない。


 牧さんが消えるはずないなんて、僕はなんて無責任なことを言ったんだ……。


「僕が勝手に間違って思い込んで、ちゃんと事情を理解しないまま、言いたいことだけ言って。牧さんに気を使わせてしまったんじゃ……」

 せっかく最後だと伝えてくれたのに。

 僕は足元を見つめたまま、言葉を吐き出していた。


 今更だけど、僕の勘違いに気がついた時の、牧さんの戸惑ったような少し困ったような表情を思い出した。その表情が棘になって僕の心にチクチクと刺さる。


 僕はそれ以上前を見ていられず顔を伏せた。そんな僕をに気がついたのか、オヤジさんの柔らかな声が僕の方に寄り添うように響いた。


「わからなくて当然だよ。

 牧さんがはっきり言わなかったんだから……。

 伝えたいことは、はっきり言わないと伝わらないものさ。

 私は、本当は牧さんを引き止めたかったけれど、私の思いを押し付けることはできなかった」


 少し冷たい空気が僕の頬に触れた。目線を上げると、牧さんが桜の木の曲がり角を強い足取りで、振り向くことも立ち止まることもなく曲がるところだった。


 深緑の葉の茂る桜の木。季節は着実に春から夏に変わり、さまざまな思いを乗せて時間は流れていく。牧さんは今どんな表情をしているんだろう。


「そんな顔するな。海が言ったことは、『牧さんを呼んでいる人は、楽しみに待っているんでしょうね』ってのは、あながち間違いじゃないと思うよ。牧さんは、昔いた場所に帰るんだ。今まで帰ろうにも帰れなかった場所に……。そこにはきっと、数えきれないほどの思い出が刻まれていて、誰よりも彼の帰りを待っていてくれた『人』過去の自分がいるよ。きっと……」


 オヤジさんの言葉はシャボン玉のように膨れて、春の空に消えていった。


 牧さんが角を曲がりきると、オヤジさんは店内に戻り、窓際のテーブルに残された食器を片付け始めた。


 僕はすぐには気持ちを切り替えることができずに、空をぼーっと眺めていた。僕にも、ここを去って、昔の自分と向かい合う日が来る。その時に僕は、牧さんのように前を向いてまっすぐ進んでいけるだろうか?


 その場に留まり続ける僕を急き立てるかのように風向きが変わり、食堂に押し返すように正面から風が吹き付けてきた。


 そうだ、今僕がいるべき場所はここなんだ。ここでできる限りのことをしていこう。


 僕は吹き付ける風に背中を押され、店内に戻ると、牧さんとのやりとりを心にしまい、キッチンに戻って昼食の準備を再開した。

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